ニュー・アース 第三章(2)

不満と恨み

不満は、エゴが自分自身を強化するために用いる得意の戦略の一つだ。
不満はどれも心が作り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。
不満を声に出そうと頭の中にとどめておこうと、違いは無い。
他に自分を同一化するものをあまりもたず、不満だけで楽々と生き延びているエゴもある。
そういうエゴの虜になると、不満、とくに他人に対する不満が無意識のうちに習性となる。
無意識だから勿論自分では気づかない。人々を見た時、最も多いのはその人たちについて
話したり思い浮かべるとき、心の中で否定的なラベルを貼り付けるというのもこのパターンの
一つだ。悪口雑言はこのラベル貼りの最も露骨な形で、自分は正しいと勝ち誇らずには
いられないエゴの必要性を満たしてくれる。

(中略)
恨みは不満や精神的なラベル貼りに付随する感情で、エゴはそこからさらに大きな
エネルギーを汲み取る。恨むというのは苦々しい思いをする、憤慨する、馬鹿にされたと
感じる、傷ついたと思うことだ。

人は他人の貪欲さ、不誠実さ、いい加減さ、現在や過去の行動、言ったこと、しなかったこと、
すべきだったことやすべきでなかったことを恨む。エゴはこれが大好きだ。
他者の無意識さを見過ごさず、相手と同一化する。
誰がそうしているのか?あなたのなかの無意識、エゴである。
ときにはあなたが他者に見る「過ち」は、ほんとうはありもしないものかもしれない。
まったくの誤解で、敵を見つけたがり、自分が正しくて優れていると思いたがるよう
条件づけられた心の投影にすぎないかもしれない。

また過ちが事実あったとしても、そこにばかり集中し他の一切を顧みないことで、
あなたはその過ちを拡大して見ているかもしれない。それに他人のなかに見て反応することほど、
自分の中にもしっかりと存在している。

他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、
人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。

だが反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な
機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものでは無いと気付けば、相手個人に反応しようという衝動は
なくなる。そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を
引き出せる場合が多い。(中略)
あなたがエゴという無意識を相手個人と同一視したとき、その相手は敵になる。
反応しないのは決して弱さではなく、強さである。反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見過ごすこと、いや見抜くことである。

エゴを通してすべての人間の核心、本質である正気を見抜くのだ。(p133-136抜粋)


私が「ニュー・アース」を手にしたのは、(繰り返しで恐縮ですが)
落胆の出来事のあとにやってきた極度の落ち込み・心苦しさから抜け出したい!
との動機でした。
御蔭で随分と心が楽になり、過呼吸まで治ったというありがたき本なのですが、
読み進めるうちに「あれっ?これって創価脳やアンチ創価のための本?!」と思ったほど、
そのものズバリな傾向性が書かれている事に面食らったのが、この章でした。

不満はどれも心が作り出し、あなたが完全に信じ込んでいるささやかな物語である。
この個所を初めて読んだ時、心がざわついたのを覚えています。
環境や待遇、身近な人間に対して、自分自身の性格や容姿にまつわるコンプレックスなど、
人は大なり小なり「不満」をさまざま持っているもの。
(これらを持って生まれた「境涯」「宿命」と呼んでましたね)
それを「自分が完全に信じ込んでいるささやかな物語」って一体?!
自分が見ている世界を否定されているような・・お前が悩んでること・気にしていること・
問題にしてる事柄なんざ、とるに足りない小さなことだよ!と言われたようで
戸惑いを覚えました。
ニュー・アースに出会った当時の私は、(義実家問題で)「自分が酷い目に遭った」という
負の感情に支配されていました。
もう少し付け加えると「真面目にやってきた自分が、騙され・酷い目に遭わされた不条理感」です。
どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの!!という・・。
この負の感情が、私が覚醒した当時の、創価組織に対しての思いと似ていると気づきました。

この章を完全に理解できたのは、実はつい最近ですw
恨みは不満や精神的なラベル貼りに付随する感情
これ、全くその通りなんですね。

私の場合、昨年春ニュー・アースを読んだ当時、自分にこんなラベルを貼っていた。
「文句も言わず健気な”いい嫁”を演じてきたのに、姑にしてやられた不幸な私
「こっちに一分の落ち度もないのに、悪人に仕立て上げられた可哀そうな私

これを言いかえれば「被害者意識」です。

私の中のエゴが、自分を被害者に仕立て上げた。
”こんなに頑張ってきたのに、裏切られて可哀そうな私!”というw ←今だからwと
つけられます。

被害者意識に浸っている間というのは、ある意味「気持ちいい」のです。
不幸のヒーロー・ヒロインでいられるし、たとえば他人にそれを話すことで
「大変だったね」「かわいそうに」「相手が悪いね」などなど、同情を得る事も出来るかもしれない。
すると一瞬、自分の正当性を認めてもらえた気分になって「気持ちがいい」。
けどそれで傷が「癒える」とは限らない。 
場合によってはますます「可哀そうな私」増強に励んでしまうかもしれないw 誰が? エゴが。
前回紹介しました大嶋先生の本を読んでから、こんな風にも思うようになりました。
「被害者意識にしがみつくことも、ストレスホルモンを下げるのに丁度良かったのかもな」と。
ただ残念なことに、自分が自分を被害者だと思ってる間は、ずうーっと被害者のままです。
当たり前だけど。
そして、環境は「助け舟」なんか出してくれませんw
というか「助け舟」なんて、ありません。
唯一の解決策は「自分が被害者をやめること」だけなんです。

「私は自分の意志もないうちに入会させられた不幸な学会O世」というのも
自分へのラベル貼りです。
ラベルに「不幸な」って入れると、どんどん不満が湧いて出てきますよねw
親が悪い、じいさんばあさんが悪い、組織が悪い、過去のいまわしい思い出、云々と。

そして逆の現象もあって、今度は創価脳時代にちょっと戻ってみると
非学会員で悩みを持っている友人を目の前にした際
「仏法に出会っていないがために、希望を持てない、折伏すべき可哀そうな友人」とかw
「救ってあげなければ!」なんて思っていた人も、いたのではないでしょうか。
大きなお世話だよ! って、今となっては思えてきませんか?
これも立派な他者への「ラベル貼り」でしたね。
それを「慈悲」だなんて思っていましたが、実は違っていたのかもしれず、
相手を「不幸だ・可哀そうだ」なんて至極失礼で勝手なラベル貼りすることで、
実際のところは優越感を得ていたかもしれないのです。 
選民思想的な話になっていきますが。
前にも書いたように、救わなければならない・可哀そうな人はこの世には存在しません。
なぜなら全ての出来事は「高次から見て中立」だからです。
なんか、全部これ↑に行きついてる気がしますがw それほどこの「世界の見方」って重要です。

つまり、必要があってそこに「事(一般的にいうところの問題)」がおきている。
それを「不幸で不運な出来事だ」と評価しているのは、自身の主観であって、
自分に起きたことでも・他人に起きたことでも同じ。
こちらの一方的主観で勝手に相手を「可哀そう」だの「宿業の嵐が吹き荒れている」だの思うのは
違う。
その出来事が、先々どう転がっていくかはわからない。だのに勝手に「大変だ!」との
レッテルを貼り付けて騒ぎ立てるのは、ありもしない話をそうであるように仕立てあげていくのと
同じ事なのです。
他人が窮地に陥っているかに見える時、相手の求めに応じて出来る事は手伝えばいいけど
(自分が心にわだかまりなく出来ることだけを)、
しゃしゃり出て相手の出番を奪うような事をしたり、コントロールするような事はしなくていい・・
というか、すべきでは無いのです。
ましてや、自分自身の問題のごとく抱え込んでしまう必要なんて絶対ない。
「同苦」だなんて、自分の慈悲深さを相手に示そう的な教えもありましたが、大きなお世話です・・。
かといって、創価時代にやっちまった事(折伏、相手の為に御祈念、その他)を悔いることは
ありません。 
だって、その時は解らなかったし・「そうしなさい」って組織に教え込まれてただけだから。

エックハルトの言葉でいえば「自分のしていることがわからない」状態だったのです。
気付くことができたら、そこで終わり。 次へ進んだらいいのです。
(それを「過去の自分はバカだったまちがってた~!!そもそも親が悪い周囲が悪い!」って、
自分責め&環境責めするのは、エゴの仕業ですし・大嶋先生的にいえば、トラウマ回避です。)
くれぐれも、罪悪感をもたないように。
それがわだかまり・機能不全の原因となって、
あなたの人生を、いいものにはしないからです。


そしてどうせ自分にラベル貼りをするのなら
「生まれながらにしてラッキーな私・俺」にしておけばいいのです。 
上記は私の個人的な考えですが。
いま何かを持っていないから・何かに達していないから・過去の諸々があるから
「自分は幸せではない」なんて思いこまない・憂いを持たないことです。
”思い込みが現実を作っている” これは確かなことだから。
エックハルト氏が教えてくれているように、私たちは生命を持ってこの世に存在している・
呼吸と鼓動いう不思議が続いていること、
それだけでもう奇跡の体験者です。
無条件に幸いな存在なんです。

命ある幸いに全面降伏しなければ、いつまでたってもラットレースから抜け出せないし、
”あいつが悪いこいつが悪い、自分は馬鹿だった”等の不平不満をモチベーションに
生きていくことが是となってしまいます。
まあ↑この状態でも「生きているだけで丸儲け」には変わりないので、いいんですがw
どうせなら意識の使い方を変えて、わだかまらず・心穏やかに和やかに生きていくほうが
いいんじゃないかなーと思いながら、私はこのブログを続けています。

他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、
人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。


このパートに関して、「創価脳の迷惑行為を言い当ててる!」って
初めて読んだ当時は驚き・ほとほと感心しました。

私の話で言えば、このブログを立ち上げるきっかけにもなった、選挙投票日の当日確認w
(この記事に書いてます)
活動家における、投票日の当日確認という行動は「集団的エゴ」によるものです。
おそらく活動家本人は「集団的エゴ」に取付かれているだなんて気付いてない。
その団体に属し・近いところにいなければ、「当日確認をしよう」なんて発想・行動はまず無い。
というか完全に団体の・上からの指示でやってるわけで、ある意味コントロールされている。 
実際やってる本人は「自分が心からやりたくてやってる」わけじゃないんですよね。
誰に頼まれなくても自発的にやりたくて(当日確認)やってる、なんて人は皆無でしょう。
全部が「だって先生のため、党のため、幹部が言ってるから・組織のきまりだから」って
他人軸の理由。
本当はやりたくないけど、やっとけば功徳あるし・ 組織の人も喜ぶし」的な発想で
行動していると思われます(し、私も活動家時代を振り返ると同様でした)。
当時かなり怒っていた私は(この記事の中段以降にも書いてます)、実家にまで投票の有無を
問い合わせた本人をとっつかまえて、なんでそうしたのかを問いただしたい!と思っていました。
「当日確認の行動原理は、突き詰めたら何なのか?」って聞きたいとw
「果たしてそこまで必死になるような事なのかよ?」と。
だけど、おそらく活動家みんな自分でも行動原理はちゃんと分かってないと思いますし
(誰かに押しつけられた理由ばかりで、自分が心からやりたくてやった・・なんてことは
 100%出てこないでしょうね)、
答えに窮するでしょう。
繰り返しですが、活動家はエックハルトの言うとおり
「自分が何をしているか解っていない」のです。
(以前この記事で紹介した動画参照)
そしてこの、明確に説明できない行動原理こそ「集団的エゴ」のなせる業なのでしょう。

結局私は当日確認の相手を見つけ出す事も、問いただす事も出来ないまま組織を去りました。
が、このとき怒り心頭になったからブログを立ち上げたので、この出来事に遭ったことも
意味があったというか・・良かったのかもしれません?!w 
そしてこの時、私自身が、自分の中に確実にある「エゴ」に反応していたって事です。
もしエゴの構造を知っていれば「エゴに取りつかれた活動家のヤラカシ」と、一瞬イラっとしても
此処まで怒りはしないで、スルーできたと思います。
だって、相手は「自分のしていることがわかっていない」のだから。
怒鳴りつけた処で・どうおかしいのかを逐一糺してみた処で、暖簾に腕押し・糠に釘なのです。

”反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な
機能不全の表れだと認識できるときだけだ。
そのような行動が個人的なものでは無いと気付けば、相手個人に反応しようという衝動は
なくなる。そしてエゴに反応しないでいると、相手の正気、つまり条件づけられていない意識を
引き出せる場合が多い。”


つまり、活動家のしつこい家庭訪問だとか「あなたの為を思って云々」とかいうのは、
「集団的エゴ」による行動で、その人自身が本心からやりたくてやっていることではない
組織の刷り込みがなかったらそんな行動、絶対してないはずだからw
(正気の沙汰ではない)と捉え、スルーすればいいという事じゃないでしょうか。
こちらが深刻にとらえて、逐一イライラ・ムカムカ・ムキー!ってなる必要はないのです。
「ああ、集団的エゴに取りつかれてる人たちがやってきたなー」くらいの、ライトな反応で
いいと思います。 
そして、集団的エゴにとりあう必要も義務もないってことです。
まともに対応することが自分の気分を害することなら、放置すればいいのだし(=居留守など)。
それを申し訳ないとか思う必要なんて、みじんこもありません。
「考え方が変わったし、議論する気もないからもう来ないでね♪」って、しっかり伝えることも
いいと思います。
これは地域組織の人に限らず、創価脳の身内家族についても同じ対応でよろしいのでは
ないかと。

”反応しないのは決して弱さではなく、強さである。反応しないとは、ゆるすことだ。
ゆるすとは見過ごすこと、いや見抜くことである。”


相手の中にある「エゴ」を見抜けば、反応しないでいられるってことです。
「目覚めていない人たち」だとわかれば、許せる(スルーできる)ということです。

つい「対創価脳」について書いてしまいますがw これはすべての人間関係においても
言えることですね。
「なんでこんな事してくるんだろう?言ってくるんだろう?」とか、不愉快だなって思う態度の人間が
周囲にいたとして、その人のエゴに反応しないよう気をつける。
毅然と相手の行動のどこが不愉快か、やめてほしい旨、事実だけを相手に伝えれば良いんです。
そこに「感情」を絡めないことです(詳しくは次回の章で)。
その上で、相手は機能不全をおこしている、自分のしていることがわかっていないんだな・・と
とらえる。
きっと相手は、自分が自分のやっていることをわかっていないだけに苦しいのです。

また、相手の態度にイラっとしたり・モヤっとする・怒りを覚える・・などの反応に気付いたら
自分の中のエゴを見つけるチャンス。
相手の態度に自分を傷つけられた・損なわれた・脅かされた・馬鹿にされた・・と感じる時には
そこに「過去の思い込み・条件付け・レッテル貼り」を発見し、
癪に障る感情に付随する「自分の思考の背景」を探ってみるのです。
実は不遜な態度をとった相手のことをいくら掘ったって、憶測ばかりで不愉快になるだけです。
反応した「自分の内側」にしか、解決策は見つからないのです。
すると、本当はさして相手に悪気がないことに気づけたり・ことさら自分が相手の態度や
言葉をネガティブなものと受け取っていることに気づいたりと、思いもかけなかった別の側面が
見えてくるものです。
その「気づき」が、「いまここ」からの展開を変えていく。
悪い評価しかできず、恨みを抱いたり一方的な不満を抱くような状況が、うってかわって
良い方向・印象へ変わることもあります。すると「いまここ」から先の状態をより良いものに
変えるんです。 
先の未来だけではない、忌まわしい・振り返りたくないと思っていた過去までも、あの時間が
あったからここへ繋がったんだ・・と、感謝であったり・良い思い出(評価)に変わります。
これは現実に、起こせることです。
これを「一念三千」っていうのでしょう。
トランス状態になるほど題目あげなくてもw エゴに気付くだけで・観察するだけで
その境地に行くことができるんだと、私は「ニュー・アース」やバシャールの本から学び、
深い感銘を覚えました。
そして現実に、自分がそれを体験できているから、すごいよって伝えたくてブログを書いています。

誰かや何かを悪者にして自分を被害者にしておければ、ある意味「楽」です。
(戦わなくてもいいものと戦ったりわだかまったりと、精神的にはシンドイでしょうが・・)
でも、被害者を辞めれば心が本当に、別次元の「楽」になる。
わだかまりが激減し、精神的にもおだやかになり、身辺状況もなだらかなものへと
変わってきます。 
これは私がこの一年を通じて人体実験wして検証済みです。

どんな状態も、自分で選べるし、実際もう選んでいる。
それが「いま」です。
現状つらい思いを抱えている人も・苦しい人も、絶対に大丈夫だから、
まずは自分へのネガティブなレッテル貼りを、やめてみてください。
命ある幸いを確認し、「いま」自分の内面状態を整える。
(前回書いた、思考を止めてお茶でも飲んで「凪」へ移行)
まずはそこから始めてみるとよいと思います。

(次回に続きます)

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