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ニュー・アース 第三章(4)

反応と怨恨

怨みにはたいてい不満という感情が付随するが、ときにはもっと激しい怒りや
その他の感情的動揺が付きまとうこともある。
これによって、不満にはさらに強力なエネルギーが充填される。そのとき不満は、
もうひとつのエゴの自己強化策である反応に変わる。
いつも何かに拒否反応を示そうと待ち構え、すぐに苛だったりムカついたりする人たちは多い。
その人たちはすぐに拒否反応の対象を見つける。「なんてことだ、頭にくる」「よくもあんたは
こんなことを・・」「ただじゃおかないからな」と言い出す。
こういう人たちは、薬物ならぬ怒りや動転の中毒なのだ。
あれこれに拒否反応することで自己主張し、自己意識を強化しようとする。

根の深い恨みは怨恨になる。怨恨を抱くというのは、いつも「対立」している状態で、
だからこそ怨恨が多くの人々のエゴの相当部分を占める。(中略)

怨恨はときにははるか昔の出来事と結び付いた激しい否定的感情だ。
「誰かが私にしたこと」「誰かが私たちにしたこと」を強迫的に考え続けたり、頭の中で、
あるいははっきり口に出して繰り返し物語ることによって、その出来事はいつまでも生々しい
ままでいる。この怨恨の影は人生のほかの領域にまで広がる。
たとえば怨恨を抱き続けていると、そのマイナスの感情エネルギーによって現在起こっている
出来事に対する見方が歪んだり、目の前の人間に対する話し方や行動に影響が及ぶ。
強い怨恨が一つあるだけで人生の大きな領域が翳って、エゴの罠から逃れられなくなることもある。
自分が怨恨を抱いているかどうか、自分の人生において完全に許せない何者かが、
つまり「敵」がいるかどうかを見極めるには、正直にならなければいけない。
怨恨を抱いているのなら、思考と感情の両方のレベルでその怨恨と怨恨を生かし続けている
思考に気付き、その思考への身体的対応の結果である感情をしっかりと感じることだ。
怨恨を捨てようとしてはいけない。怨恨を捨てようとか許そうとかしても上手くいかない。
怨恨はまがいものの自己意識を強化してエゴを温存する以外何の役にも立たないと気づいた時、
自然にゆるすことができる。真実を見抜けば解放される。

「敵をゆるせ」というイエスの教えは、人類の心に存在するエゴイスティックな構造の一つを
解体しなさい、ということだ。
過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。
その力を持っているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。
では怨恨とは何か。古い考えと感情というお荷物ではないか

(p140-143抜粋)


"薬物ならぬ怒りや動転の中毒"
ニュー・アースに出会う前の私が、まさにこの状態でした。
昔と比べて怒りっぽくなっていたのは事実で、
自分でもときどき「独身時代はこんなことなかったのに?」「更年期?」と思っていましたw
それが「自己意識の強化」だなんて渦中は思ってもみませんでしたが、今は「さもありなん」と
感じます。
どんな内容にむかついたか・自分が不当な思いをしたかを主張することが「自己意識の強化」と
なっていた、とエゴの構造を知った今は解る。
それはプライベートに於いてもだし・このブログの2013-2015年頃の内容にも表れています。
怒り続けている間も、被害者意識と同じくで、実は気持がいいんですよね。
自分の正当性を一方的に誇示できるし、なんだか強くなった気分でもいられるから。
以前紹介しました、大嶋先生のトラウマ本にも
「ストレスホルモンを下げるために怒り続ける」という内容が出ています。 
それを読んだ時も、超絶納得してしまいました。
怒っているあいだは自分が優位に立てるので、恐怖を感じなくて済むそうです(要旨)。
同じ内容に長年怒り続けていられるって、ある意味「中毒状態」なのかもしれません。
だからなかなか、堂々巡りから抜け出せないという事かと、自分の経験を通して
そう思います。

で、繰り返し同じことを言いますが、上記のような状態が芳しいはずはなく
”強い怨恨が一つあるだけで人生の大きな領域が翳って、エゴの罠から
 逃れられなくなることもある”
 
とあるように、更なる「よろしくない状況・状態」を招くことに繋がります。
事実認識の歪みや、妄想、悪い方向に暴走する憶測なんかは、まさにエゴの罠。
他人の言動を殊更悪く受け止めることで、新たな怨みを覚えたり・勝手に傷ついては
被害者意識を増強させたりと・・。 ほんと、ろくなことはありません。

「でもどうしろって言うんだ?!怨恨は事実だ!
 自分はひどい目にあわされた、だのに相手(怒りの対象となる個人・組織)は
 罰されることなく、のうのうと生きている。この恨みはらさいでか!」 という嘆きに対して、
エックハルトは明確な回答をしてくれました。
傍線部はもちろんですが、私がしびれたのは太字にした以下。

”過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。
その力を持っているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。
では怨恨とは何か。古い考えと感情というお荷物ではないか。 ”


もう、ぐうの音も出ない名回答です。
私のへっぽこ解説なんかいらないw 上記が全てです。

***

正しいか、間違っているか

不満はあら探しや反応と同じく、エゴの存在を支える境界や分離という意識を強固にするが、
同時にエゴの糧になる優越感を与えることによってエゴを強化する。
たとえば交通渋滞や政治家や、強欲な金持ちや怠け者の失業者に対する、あるいは同僚や
元配偶者やいろいろな人たちに対する不満がどうして優越感につながるのか、
ちょっとわかりにくいかもしれない。
実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は
間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。

自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。 正しいというのは、ある精神的な
立場ー視点、見解、判断、物語ーと自分を同一化することだ。
もちろん自分が正しいというためには、間違っている誰かと比較しなくてはならない。
だからエゴは自分が正しいと思うために、好んで誰かが間違っていると決めつける。言い換えれば、
自分という意識を強化するためには、誰かが間違っていなくてはならない。(中略)
自分が正しいなら、間違っているとか欠陥があると判断される人や状況に対して、
自分が倫理的に優越していると思うことができる。
その意味でエゴは優越感を欲し、優越感を通じて自らを強化する。
(p143-145抜粋)


耳が痛いわ~w と思いながら、読んだこのパート。
”実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は
間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。” 

だいたい、自分の正当性が認められないとか無視されたと感じた時に不満が生じるものです。
コミニュケーションがうまくいかない・・伝わらない、という時。
なのでこれは、生活していく上で多少はそうなっても仕方がない面もあると私は思います。
で、ここに「正しさ」を持ち込んでしまうと、ものすごく厄介なことになるんですよねw
「お互いさま」って思える余裕があれば、相手を責めつつも、後に自省ができて
エゴが引っ込むこともある。 
けどこれが「正しさ」の主張になってしまうと、エゴは絶対引っ込まないw
”自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。”
この指摘を読むと、いやでも思い出してしまうのは、かの組織の方々ですよね・・w
かつて自分もその一員だったわけなので、よくわかるのですが。
この「正しさ」が「優越感」と繋がってるから、「選民思想」に結びついたのか!と、
エックハルトのおかげで謎ときができましたw
かの組織の方々の「上から目線」に関しても、この「正しさ」に紐付いた「優越感」由来だと
考えれば、非常に納得のいく話です。
さらに突き詰めるなら、「五重の相対」が正しさ・優劣の証明(?)的な教義といえるので
さもありなんというか・・なんというか・・w
一方向の「正しさ」をこれでもか!というほど叩き込まれた私たちこそ
「物事は高次から見て中立」という大原則を知り、「両極をやって真ん中に戻る」
意識して生きていくのが良いのではないかと、思います。 

何につけ「正しさ」にこだわる癖は、組織を離れたところで簡単に取れるものではないと
思うから。
だから、いろんなことや人が許せない!って、頑ななアンチになる・・私もその一人でした。

で、そもそも「正しさ」の反対は「間違い」なのか?というと、
そこは人によって答えが違うのです。
だからこそ「正しさ」にこだわっている状態=バランスを欠いた・偏った状態なんだという事に
気付かないと、エゴはベッタリと貼りつくばかりで、なかなか心を自由にはしてくれません。
「正しさ/間違い」に殊更こだわってると、本当にただ苦しいだけ。
ずっと他人も自分も裁き続けていく事になるからです。
「気づき」さえすれば、エゴはぺろーんと剥がれるんです。コレ本当に。
でも、繰り返しですがエゴはなくすことはできませんので、忘れたころにまた来ますw
そのときも「あ、いま自分は偏ってんな、バランスおかしいな」と気づけたら
さっといなくなるのです。
最初はなかなか難しいかもしれないけど、習慣性のものなので慣れたらこっちのもの。
自分の内面状態を常にチェックする、これがとても有用です。

具体的には、何かに臨む時は自分がざわついていないか、うわついていないか
今一度確認をします。
自分が興奮状態にあるな、とか、不安感でゆらいでるな、と「気づいた」ら
クールダウンのためにお水を飲むとか、手を洗うなどして「いまここ」に意識を戻す。
このとき、水を飲む・手を洗っているー行動に集中し意識を向ける。
(その行為をしつつも、頭の中が考え事でグルグルしているようでは「いま」にない状態です)
そうして整えてから事に当たるだけでも、ずいぶんと違ってきます。

また、もし、対人関係において相手に高圧的な・不快な言動をとられた場合も、
すかさず意識を「自分の状態」に向けてみてください。
相手の言動・態度に意識をもっていかれないように。
「いま、自分どんな感じ?」と、自己観察する。怒りでかっとなっているのか・恐怖を感じたのか、
萎縮してるのか、厭な気分なのか・・そうして「気づく」だけで、不思議と少し落ち着くのです。
湧いた感情と一体化して振り回されることがなくなるというか
状況を一歩引いて見ることができる。
ここで注意してほしいのは、決して感情を否定したりはしないってことです。
ダメ出しをするんじゃなくて、自分がどんな「状態」なのかに気付いてあげることが目的です。
すると、相手のペース(=相手の感情・意識状態)に完全にのまれることはなくなるはずで、
自分を立て直し、落ち着いて自分の意見を述べたり・しかるべき行動がとれると思います。
売り言葉に買い言葉、みたいな泥沼展開になることはまず避けられるでしょう。
そしてこちらが意識的であれば、相手の中のエゴを見抜くこともできる。
相手はエゴに振り回された言動をとっているのだと観察すれば、こちらが
それに殊更反応する必要はないんだと、振り回されることなく「いま」に在ることが
出来、落ち着いて対処ができます。
これはもう、一度体験してもらえればはっきり解りますし、格段に不愉快が減ります。

余談ですが、先日すごく久しぶりに熱が出たのです。
夕方なんだかぼーっとする、身体がだるい、おかしいな?と思って体温計で確認。
最初は「インフルエンザはやってるけど、まさかね・・」とか
「昼間全然なんともなかったのに、どうしてだろう?」って、めったに熱など出さないだけに、
原因探し・若干の不安と不信感がよぎっていました。
けど次の瞬間「あ、いま不安に傾いてるな」と気づきました(勝手にです、最近は
特に意識しなくても気づけるようになりました)。
すると途端に「熱はあるけど頭痛はないし、体がぽかぽかしてなんだか気持いいなぁ。
だるさも、生きてるって感じがするなぁ」と嬉しく思えてきて(←?!ですが、こんな風に思うのは
初めてでした)、薬は飲まず。
動きたくなかったので家事は手抜きし、ソファでごろごろしながら音楽を聴いていたら
結局2時間後に熱はすっきり下がっていたのです。 これには驚きました。 
自分がどんな状態にあるのかを「気づく」だけで、そこに空間が生まれ、切り替わるような
イメージを最近の私は持っています。
そして、気づいて→内面状態を整えたら、展開がなだらかで好ましい方向に流れていくんです。
このあたりも、いずれ別記事でまとめられたらと思っています。

最近、再びエックハルト氏の動画を繰り返し見ています。
「いまここ」に意識を置くことを解りやすく教えてくれているものがありましたので
貼っておきます。 
仕事や日常生活が退屈でうんざりだ、という方は試しに御覧になってください。

※2017年5月18日追記
 動画が削除されてしまったので、リンクは消しました。
 信仰についても後半ちらっと触れられていて、面白い内容だっただけに残念です!


(続きます)
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