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ニュー・アース 第三章(6)

真実:相対的か絶対的か?

単純で検証可能な事実の場合は別として、「正しいのは私で、あなたは間違っている」
という確信は、個人の人間関係でも、国家や民族、宗教同士の関係でも危険だ。
だが、「正しいのは私で、あなたは間違っている」という信念はエゴが自分自身を強化する
方法の一つで、精神的な機能不全であり、人間同士の分裂と構想が終わらない原因で
あるなら、ふるまいや行為や信念には正しいも間違いもない、ということなのか?
(中略)
もちろん、真理は自分たちの側にのみ存在する、つまり自分たちだけが正しいという
信念は、行動やふるまいを狂気のレベルにまで堕落させる。

そのことはキリスト教の歴史そのものが如実に示している。教会は何世紀ものあいだ、
自分たちの教義や聖書(あるいは、「真理」)の狭い解釈とわずかでも違う意見をもつ者を
拷問にかけ、火あぶりにし、この行為は正しい、なぜなら犠牲者たちは「間違っている」からだ、
と考えてきた。
犠牲者たちはとんでもなく間違っているから殺されなければならなかった、というわけだ。
「真理」は人の生命よりも重要だとみなされたのだ。

ではその「真理」とは何なのか? あなたが信じるべき物語、つまり思考の塊である。
(中略)
カトリックその他の教会が、倫理的相対主義を現代の悪の一つと批判するのはなるほど
正しい。だが、絶対的真理はあるはずのない場所に探しても見つからないだろう。
あるはずのない場所とは、教義、イデオロギー、規則、物語などだ。
これらに共通しているのは何か?思考から出来上がっているということである。

思考はうまくいけば真理を指し示すが、決して真理そのものではない。
だから仏教では「月をさす指は月ではない」と言う。すべての宗教はどれも誤りであり
どれも真実で、どちらになるかはどう活用するかで決まる。

エゴの強化に役立てることも、「真理」のために役立てることも可能なのだ。
自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることに
なる。そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に
分裂や紛争を引き起こす。
 (中略)(p148-152抜粋)


もと宗教団体の一員として活動していた者としては、イタい過去の古傷を突かれる内容ですw
「絶対正義」を旗印としていれば、なんだって許されるんだ!くらいの勢いが、かの組織の
バリ活と呼ばれる人たちにはありました・・過去形。 今はどうなんでしょうかね?

”自分の宗教だけが「真理」だと信じているなら、それはエゴの強化に役立てていることに
なる。そうなると宗教はイデオロギー化し、優越感という幻想を生み出し、人々の間に
分裂や紛争を引き起こす。”

”優越感という幻想”=選民意識とも繋がっていると思います。
でも、あくまでもこれは”幻想”(だけど当事者はそれに気づかない)
かの組織の人たちの多くが「排他的だ」と世間一般から指摘されることに関しても、
上記スタンスで存在しているからでしょう。 
「絶対自分たち(の信じてるもの)が正しい」という思い込みは、理由なき無敵感を生むのですw

絶対的な「真理」はただ一つで、その他の真理はそこから派生している。その「真理」を
見出した時、あなたの行動はすべて真理に沿ったものになる。

人間の行動は「真理」を反映することもあれば、幻想を反映することもある。
「真理」は言葉で表せるか?表せる。だが、もちろんその言葉は真理そのものではなく、
真理を指し示すにすぎない。
その「真理」はあなた自身と切り離せない。
そう、あなたが「真理」なのだ。
よそに真理を探していたら、きっとだまされ続ける。
あなたという「存在」、それが「真理」だ。

イエスはこのことを「私が道であり、真理であり、生命です」という言葉で伝えようとした。
イエスのこの言葉は最も内なる「私という存在」、すべての男女、それどころかすべての
生きとし生けるもののアイデンテティの核心を意味している。
イエスはあなたという生命について語ったのだ。(中略)仏教ではこれを仏性という。
ヒンズー教ではアートマン(真我)。
自分の中にあるこの次元と触れ合う時ーこの触れ合いは本来の状態であって、
別に奇跡的な偉業ではないーあなたの行動も人間やモノとの関係も、
あなたが自分の内奥で感じる全ての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。

(後略) (p152-154抜粋)


つまり、何かの団体に属すなり・師匠wに仕えるなりして
上からいわれるとおりにルーティンをこなすことが
"真理の探究"(=かの組織的にいえば、「信心で生命・心を磨く」など、目指すべき事)
にはならない・それは真理の探求ではない、ということです。
それをやっていたら・自分以外の何かに求めていたら、「騙され続ける」わけですw
だから、アンチに転じた人はまず最初こう思います
「宗教詐欺に遭った」「騙された」って。
私も、そう思っていましたw  
今だから「w」 とつけられるようになりましたが。

自分以外のところに真理を求めていたのは、いったい誰なのか? 
自分なんです結局のところ。
自分というか・・「自分の中のエゴ」と言ってもいいかもしれません。

生まれながらにして、親がやってたから・無理くり入会させられたにしても、
やらない人は一切活動なんてしませんし
それを信じることもありません(繰り返し恐縮ですが、私のきょうだいはそのパターンでした)。
子供の頃はイヤイヤやってたって、大人になったら自然と離れたとか敬遠するとか、
実家がやってるけど私は・俺は関係ないから!ってスタンスをとれる人もいるんですよね。
熱心な親族を見て、嫌気がさしてかえってアンチになるというパターンだってありますし。
(または猛烈なアンチだったのに、九死に一生を得るような「体験」をしたことから
 突如バリ活になってしまった・・なんてパターンもありますね。親戚にいました)
こればかりはもう、運なのか・何なのか。よくわかりませんw

うっかり信じてしまったのはなぜなのか。 その原因を掘るのも今後のためには一興かも
しれないのですが、自責や後悔の念が増し増し→過覚醒おこしてしまうくらいなら
掘らない方がいいです。

じゃあどうすりゃいいんだ!という人は、騙されたと思ってこの説を採用してほしい。
「ソーカを信じてしまったのは、私の中のエゴであって、私ではなかった」とw
(ソーカの部分は、詐欺師とか悪いやつ・悪い男&悪い女などをあてはめてもいいと思います)
前にも書いたように「エゴは他人事」なんです。

以下は「ニュー・アース」第二章(3)から抜粋部分↓

エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。


「そんなので納得できるわけねえよ!」って人は、それで全然OK。
ずーっと考えてぐるぐる、わだかまってください。
他人のせいや自分(だと思い込んでいるエゴの構成物)のせいにしていればいいのです。
または自分のお気に入りの「不幸な物語(ストーリー)」に執着していてください。
そうしている間ずっと、しんどいですけどね。
あくまでも状態を「選択」するだけだということに気づけば、無になります。

結局採用すべきは、肌感覚・本能だと思うのです。
此処を覗いてくださっている方々(組織とかかわりが大なり小なりあった人)も、
「あれ?組織がおかしい、なんか変だぞ?」との違和感は「肌感覚」-もっといえば「本能」に
訴えかけてくるサインがあったのではないでしょうか?
そのサインを信じて正解だったのです。
”あなたという「存在」、それが「真理」だ。”
とありますが、まさに自分の感覚・・ごちゃごちゃ理由・理屈・講釈なんていらない「直感」を
採用すればいいのだ、と私は解釈しています。
大義名分の付きまとわない、自然な思い・振る舞い=エゴのない選択といえるかと・・
自分に正直であること、とも言えると思います。
活動家時代なんて欺瞞だらけでしたから・・ほんと。 皆さんもそうでしょう?w
簡単にいえば、活動なんて心からやりたくてやってたわけではなかった、私の場合。
お題目を何時間もあげるっていうのも、正直「楽しい♪」なんて思ってなかったしw
「やってやった!」という自己満足・達成感はありましたが・・。
そうすることで「福運」が積まれると「思い込んで」いたから・正しい行いなのだと「思い込んで」
いたから、やりたくない(←これ本音)けど、やっていたまでです。
実はやらなくても死なない・困らないことを、やりたくないけどやっていた
それが自分の心を欺いていたのと同じだと今は解ります(当時はわかってませんでした)。
このあたりの「やりたくないけど~思い込み(観念)」を手放すことについては、
津留晃一さんの本が非常に解りやすいです。 
全部読んだ中で、私の一番のお勧め本は「津留さんが、心から伝えたかったこと」です。
図書館にも、あるところにはあると思いますが、
残念ながら一般の書店では販売されていません。
英光舎のHPから購入できます。興味のある方はどうぞ。

なお、補足ですが
皆に「おかしいぞ?」サインが来るわけではありませんし、サインが来ない人もいますし、
それでいいんです。
サインが来ない人(他人)にとっては、組織はパラダイスw だからです。
だからそこから他人をひっぱりだそうとか・目を覚ませ!!なんて、やらなくていいし
それは無粋なことですね。
「騙されっぱなしでほっとく気か!」なんて、正義感気取りの人も中にはいるだろーけど、
サインが来ない人(他人)は「騙されてる」なんて思ってないわけですから、大きなお世話です。
例えにはならないかもしれませんが、恋愛しません宣言のアイドルに投資している人たちと
(サインが来ないセンセイオクサマLOVEな人は)たぶん同じですw  恋は盲目。
見えているもの(世界)が違うのですから、外野がつべこべ言う問題ではありません。

非公開でコメントをいただいた中に、
親御さんが信仰を絡めて責めてきたり、脅迫的だというお話がありました。
学会家庭における「あるある」ですよね。
親御さんは「あなた」を責めているわけではなくて(そう見えたり・聞こえたりはするけど)
ただ、自分(親御さん自身)の不安を押し付け・ぶつけたいだけなんですよね。
信仰しないなんて不幸になる!怖い!って、思い込んでいる人たちは
自分の恐怖を一人で抱え込んではおけなくて、必ず相手に押し付けてきますw
「あなたのためを思って!」なんて、活動に戻れと家庭訪問にやってくる組織の人も同類です。
めんどくさいなーとか・いやな気分にもなるでしょうが、そっと右から左へと受け流し
”お父さん、お母さんは怖いんだね・・”って、心の中で静かに認めてあげてください。
そのことに対して何か言うとか・態度で表明するのではなく、ただ状態を眺めるだけにします。
そこでわだかまりを持たない(作らない)。
あくまで「恐怖」は親に起こってていることであって、自分ごとではないとわかっていれば
こちらの感情を揺らさなくて済みますね。 
自分が相手の恐怖を受け取らず、ただ落ち着いていられたらベストです。

私の母も、組織から気持ちは離れても、組織で叩き込まれた「宗教儀礼」に関しては
いまだに根強い恐怖感を抱えており
御書の一節を添えては「いちにも二にもお題目です」「題目だけはシッカリあげなさい」
とメールしてくるくらいですw
組織を離れても、母は一日も欠かさず朝夕の勤行はしており、それは別にいいのです。
母がやりたくて・良いと思ってやっていることならば。
(「やりたくて」というよりも「やらないことへの恐怖感」が上回っていると見えますが、
敢えて本人へ指摘はしておりません。自分で気づくのが一番なので・・)
ただ、どうしてそれを私にまで強いるの?!と、毎度軽くイラっとさせられていました。
(なので、上記内容のメールには返事をしませんw)
が、ある日気づきました「あー、怖いんだな、母は」と。
自分の恐怖感(=お題目をあげなくなると不幸不運に見舞われる・・という思い込み)を
押し付けてるんだな、と。
この思い込みって、子供が夜怖くてトイレに行けない・・って「お化け」と同じレベルの
お話です。
そんなのツイッターにでもつぶやいて自己完結しとけ!と、思わなくもないですがw
高齢母に対しそれは現実的ではないので
「怖いよお!って、言いたいだけなんだな、言わずにおれないよねー・・」と
そっと受け流しています。
長らくお題目なんてあげていないし、もう自宅に仏壇がないということをカミングアウトした
(ちなみに神棚のことは話してません・・転居先にも来たことが無い故、知られてない)
ので、母にとって私の所業は恐ろしくて仕方がないようです。
親の観念を子供に押し付けている典型的事由だな・・と感じるのです。

言わずもがな、親が子供の人生をコントロールなんて出来っこありません。
(自分の人生すら、コントロールなんて出来てないくせにね~!@親)
在る程度レールを敷くことくらいはできたにせよ、プレイするのは本人だから。
自分の子供たちに対しても、近頃はそんな思いがあり、
私の恐怖感を押し付けないよう・極力自主性を重んじるように接しています。

結局は、自分ではない「何(者)か」に、求めないことです。
答えはいつも自分の中に在って
生きている、この状態がもう「真理」で、ただそれだけなんだと思います。
そこを(エゴの考える)「正しい生き方」「価値ある生き方」だのと求め、
自分に何かが足りていないとか・何かをなさなければ自分は生きてはいけないとか・
なんにもできない・やってない自分は「罪人」だとか、
勝手に”思い込んで”いるから、おかしな方向に展開していったり・自分で自分の首を絞めたりも
するのであって。

静かに自分が「生きている状態(生命)」を感じ、見つめる時間を持つために
瞑想はあるのでしょう。 瞑想は、プレゼンス(臨在)に入る方法のひとつです。
頭の中のおしゃべり(エゴ)を黙らせた「臨在」の状態・・そこに「仏性」はあるとブッダは説き、
「真我 アートマン」があるとヒンズー教は説きました。

”自分の中にあるこの次元と触れ合う時ーこの触れ合いは本来の状態であって、
別に奇跡的な偉業ではないーあなたの行動も人間やモノとの関係も、
あなたが自分の内奥で感じる全ての生きとし生けるものとの一体感を反映するだろう。”


「この次元」=プレゼンス(臨在)です。
頭の中のおしゃべりを止めて、「いま」とひとつになる。
ただ自分は生かされている、生きているという状態に意識を向けることです。

以前も引用した、私の大好きな一節(であり、「ニュー・アース」の総論だと思っています)
”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに見えなかった”
”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。”

思考優位なうちは、これは理解できないだろうし、逐一エゴが難癖つけるでしょうw
けど、「思考を止めていまに在る」を続けていけば、ある日突然腑に落ちる時が来ます。
こればかりはもう、テクニックじゃないので・・そうとしか言えないw

誰かや何かのために生きなくていいのです。 自分のために生きましょう。


(次回に続きます)

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