FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ニュー・アース 第三章(9)

平和と波乱、どちらを望むか?

あなたは平和を望むだろう。平和を望まないものはいない。
だが、あなたのなかには波乱を、紛争を望む何者かがいることも事実だ。
今この瞬間には、その何者かの存在を感じないかもしれない。だが何らかの状況が
(それどころか、ただの思考が)、あなたの反応の引き金を引いたらどうか。
誰かがあなたを非難した、あなたを認めなかった、あなたのテリトリーに侵入した、
あなたのやり方をあげつらった、金品をめぐって言い争いになった・・・・そのときあなたは
自分の中で、何か大きな力が、たぶん怒りや敵意の仮面をつけた恐怖が盛り上がってくるのに
気づけるか?
声が荒々しく、あるいは甲高くなったり、何オクターブか低い大声になったと自覚できるか?
心があわてて自分の立場を防御し、正当化し、攻撃し、相手を非難しようとするのが
わかるか?
言いかえれば、無意識が発動した瞬間にその事実に気づけるだろうか?
自分の中に戦闘態勢の何者かがいること、脅かされたと感じて、どんな犠牲を払ってでも
生き延びようと望む者、
波乱のドラマにおける勝利者として自分のアイデンテティを確認するために
劇的状況を必要とするものがいることを感じ取れるだろうか?

平和よりも自分が正しい方がいいと言う何者かが、あなたのなかにいることを
感じられるだろうか?
 (p169-171抜粋)


この章は短いながらも、深~い内容。
誰もが平和や平穏を望んではいるけれど、ひとたびその「平和(と思われる状況)」を
乱す(と思われる)なにかが現れとき、簡単に「平和」を保つことを忘れて
戦闘モードにシフトするというのです。
静かに考えれば、「戦闘モード」に入ることは「平和」を守ることと
イコールではないってことが、理解できるでしょうか?
私は「ニュー・アース」を読むまで、それが殆どわからなかったタイプですw
異を唱える者が現れれば、むきになって「それは違うだろ」と態度を表明することが
防衛につながるのだと信じてたし、
そうふるまうのが「正しい」というか、当たり前のことだと無意識レベルでそうなっており。
声に出す・出さないはその場の状況に応じて変わってましたが、
たしかに「反応」をしていたことは間違いありません。

先日、とある人物とのやりとりで、戦闘モードに入らずに済んだ自分をふと発見したことが
ありました。
相手が一方的な思い込みで「このようにしたらどうか?」と、ある件について提案をしてきました。
私からすれば相手の思い込みは大変なお門違いで、何がどうなってその提案を??
「良かれ」と思って相手が言っているのであれば、何だろう・・
すごくこの人暇なんだなぁ~と、感じたのです。 
勝手にこちらの状況を「想像」し、その想像を基にしたおせっかいを言ってくるというか・・。
あれ?何かに似ているなぁって・・「自分の信じる正義」を押し付け・ふりかざしてくるそのさまは、
まるでソーカの折伏と同じでしたw
私も過去に同じようなことを他人様にやってきたんだなぁと、苦い気持ちもわいてきたりしてw

以前の私なら、いくらでも相手の一方的な善意を「悪意の人」と仕立て上げたと思いますw
相手がこんなこと言ってきた、何考えてんだ?勘違いもいいかげんにしろよ!って。
ママ友に愚痴ネタのひとつとして語り草にしたかもしれません。
けど、今回は相手が私に抱いている思い込みを眺めることができたし・
それは真実とは違うものなので
(私が現におかれている立場状況や所感とは全くかけ離れたものだったので)
穏やかに「どうぞお気遣いなく」というだけですみました。
「私」というエゴがうるさかった時は・・相手に皮肉を交えつつ抗議したことでしょうw 
おせっかいを通り越して失礼だ!侮辱か!プライドを傷つけられた!なんて内心わだかまって。
そんなのがもう、「ニュー・アース」を読む以前は日常茶飯事だったともいえますw
けど今は、見ているものが自分と相手では全然違うんだなぁってことが理解できるし・
同じ目線に立っていないことがもうわかるので、違うんだよ!そーじゃないんだよ!
お前の考えはおかしいんだよ!(←これは言い過ぎw)なんて必死に抗うような
闘争心wは、湧かないのです。
「まったくいろんな人がいたもんだな~」で終了です。

よく「同じ土俵に上がってはいけない」的な指南がされますが、ほんとそれ。
けど、相手を見下すとか「レベルが違う」みたいなレッテル貼りで溜飲を下げるとか、
そういうこととは明らかに違います。 
他者と自分の、見えている世界の違いをシンプルに認めるだけの話です。

波乱のドラマにおける勝利者として自分のアイデンテティを確認するために
劇的状況を必要とするものがいることを感じ取れるだろうか?


「私は正しい」を証明(?!)したいがために、トラブルらしき状況を欲している。
まさかと思ってしまいますが、こういった事柄も日常どこにでも転がっている気がします。
自分を悲劇のヒロインに・はたまた逆境どん底から這い上がるヒーローのように
ドラマチックに生きたい人は、それもありかもしれませんが、ねw

エゴを超えて:真のアイデンテティ

エゴが闘っている時、
そこで生き延びるために闘っているエゴとはただの妄想にすぎないことを知るべきだ。
そのエゴと言う妄想は、自分こそあなただと考えている。

そのとき「いまに在る」証人として状況を見つめることは、初めはそう簡単ではない。
エゴがサバイバルモードに入っているか、過去を引きずった感情的なパターンが作動して
いるときは特に難しい。
だが一度その感覚を味わえば、「いまに在る」パワーは高まり、エゴの束縛力は失われるだろう。
エゴや心よりもはるかに大きな力が、あなたの人生に生まれる。
エゴから解放されるために必要なのは、エゴに気づくことだけだ。
気づきとエゴは共存できないからである。気づきとは、いまこの瞬間に秘められた力だ。
だから「いまに在る」ことと表現できる。人間と言う存在の究極の目的は(それはあなたの
目的でもある)、この「いまに在る」力を世界に広めることだ。
それはまた、エゴからの解放が将来達成すべき目標ではないのはなぜかという理由でもある。
「いま、この瞬間」だけがあなたをエゴから解放できるし、あなたは昨日でも明日でもなく
「いま、この瞬間」にしか存在できない。
「いまに在る」ことだけがあなたのなかの過去を解体し、あなたの意識の状態を変容させる。

スピリチュアルな目覚めとは何か?自分がスピリット(霊)であるという信念か?
いや、それは一つの思考だ。出生証明書に記されているのが自分だという信念よりは
多少真実に近いが、それでも思考には変わりない。
スピリチュアルな目覚めとは、自分が知覚し、体験し、考え感じている対象はつきつめてみれば
自分ではないし、つねに移ろう事物のなかに自分自身を発見することはできない、とはっきり
見抜くことである。

これを明確に見抜いた最初の人間はたぶんブッダで、だからブッダの教えの
核心の一つはアナッター(無我)だった。またイエスが「あなた自身を捨てなさい」と言ったのは、
自己という幻想を否定(そして解体)しなさい、という意味だった。(中略)
この幻想の自己を捨てた時、残るのは知覚や体験や思考や感情が現れては消える意識の明かりだ。
それが「大いなる存在」、深い真の「私」である。

この「大いなる存在」としての自分を知った時、人生で絶対に重要な出来事というものはなくなり、
全てが相対的な重要性しか持たなくなる。
その出来事を尊重はしても、絶対的な深刻さや重さは、もはや感じない。
結局のところ大切なのは次の事だけだ。
人生という背景の中で常に「大いなる存在」という自分の本質、「私は在る(I Am)」という
ことを感じていられるか?
もっと正確にいえば、いまこの瞬間に「私は在る(I Am)」と感じられるか?
意識そのものとしての自分のアイデンテティ、その本質を感じられるか?
それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか?

(p171-175抜粋)


このパートは何度も読み返したい。これまでのおさらい&基本中の基本が
書かれている個所だと思います。

私は最近、何事かに迷ったり悩んだりで時間を使うことが殆どなくなりました。
日常生活上AとB、どっちがいいかで迷うことはあります。
だいたい直感で決めますが、決めきれないときは
「今はえらぶ時期じゃないんだな」と即切り替え、保留にします。
gdgd考えなくても、必要な時に選択はおりてくるというか・・勝手におさまるべき方向で
決まるということがわかってきたので、そんなに迷う必要もなくなったのです。
なるようになるというか。
それは、「私が」考え抜いてだした答え!というような力みが・・「私が」というエゴに昔ほど
囚われなくなったってことかもしれません。
以前、ABの選択すら「我がのもの」と握りしめていたときはそりゃーもう大変でしたw 
損したくないしヘタこきたくないし、絶対後悔したくない!いちいちそんな思い入れたっぷりでいると
疲れます正直。 
うまくいった時はドヤ!と大喜びですが、ダメだったときは自責の嵐だったりしたしw
そこまで力む必要がなかったんだな何事も・・と、今はそういった心境でおります。

悩みに関しても、軽く「どうしたものかな」と思い煩うときはありますが
長引かなくなりました。
たいていが「私」ではない他者(というか、家族)の事柄ですが、私が思いあぐねたところで
どうにもならないんだってことが判ってしまったので、執着しなくなったのです。
私が悩まなくても・しゃしゃり出なくても、たいてい忘れたころに解決してますしねw
自分自身のことについては以前この記事で書いた
「愚痴を言わずにプレゼンスを招く」で、瞬時に解決ですw 
エックハルト氏がSNSでも時々短いメッセージを発信しているのですが
(ツイッター、インスタグラムがあります。興味のある方はご覧ください)
「物事はシンプルに」ということを、繰り返して伝えています。
まさにそのとおりで、わざわざ物事や状況を難しくややこしいものにしているのは、
自分(のエゴ)だったりするんです。
「今にある」を常態化していけば、そのうちわかるようになります。

上記も、生きている(とエゴが感じたい)実感や物語・・ストーリーを強く求める人にとっては
「そんなの無責任だ!」って見解になるんでしょうけどねw
(余談:過去、エックハルト氏のもとに、ビリビリに破いた「ニュー・アース」を
 送りつけてきた人物がいたそうですが、まさにそういった人は己の人生は
 ジェットコースターでドラマチックであってほしい・・と願う、
 自分のつくった物語にとりつかれていることを、認めたくない人なんだろうなーと・・)

何かを守ったりうまくいかせようと必死になったり、自分の考えで誰かを変えたいと願ったり、
そううまくいかず打ちひしがれたり、勝利の喜びに浸ったりと
ビビッドな人生を送りたい方は、もれなく悩みも迷いも抵抗もつきまといますが
「ニュー・アース」を読まずに、生きていったらいいと思います。

本文とは離れますが、私が20年以上応援している某アーチストの方がインタビューの中で
「苦節を経てセールス的に成功し・周りに称賛してくれる人が増え、お金も手に入ったとたん
 ”自分が望んでいたものは、こんなものではなかった”と憂鬱になった。
 全部自分が望んで欲しかったものだったのに」と語っていて、驚いたと同時に、
なんというかエゴの性質を見せられた気持ちになりました。
そのアーチストにとっては、理解者が増えず売れない不遇の状況や日々は確実に
「いい楽曲を作ってやる!」というモチベーションになっていたという。
安穏な状況が訪れた途端、スランプに陥ったというお話でした。
その後、また新たな悩みができたおかげでいい曲が書けたっていうエピソードもありw
アーチスト系の人は、エゴでもってアップダウンを繰り返すほうがいい曲が書ける場合も
あるんだな~と、思った次第です。
件のお方は存命ですし、精力的な活動を継続していますが
アーチストの中には絶頂期と思われる中で自ら命をたってしまう人も、多くいます。
ある意味、エゴに振り回されとりつかれーというのが特に激しい種類の人たちなのかも
しれませんね。

”結局のところ大切なのは次の事だけだ。
人生という背景の中で常に「大いなる存在」という自分の本質、「私は在る(I Am)」という
ことを感じていられるか?
もっと正確にいえば、いまこの瞬間に「私は在る(I Am)」と感じられるか?
意識そのものとしての自分のアイデンテティ、その本質を感じられるか?
それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか? ”


ときどき今でも、自分が学会2,3,4世として長年生きてきたことを後悔されたり・
活動に熱心だったことを悔やんでいるーという内容のコメントをいただくことがあります。
私も、このブログを始めた当時は凄まじくその件について心に重い十字架を背負ってるような
苦しい気持ちでいました。
過去は消せないし・・いまさら、10代の自分に戻ってやり直すこともできない。
どうしてくれよう!!という、親や組織やいろんな方面にうらみがましいような思いと・
また組織の矛盾に早々と気づいていながら目や耳をふさいできた自分を責めていた面も
ありました。

でも、それって「私を構成する(重要な)アイデンテティ」だったんですね。
はっきりいえば幻想です。
過去にその道を通ってきたことは間違いないにせよ「いま」ではない。過去の話です。
それをいちいち・わざわざ十字架にして「いま」も背負ってるのは誰なのか?
何者かに背負わされているのではありませんよ、自分が勝手に背負っちゃってるんです。
自分がそんな十字架、ぶん投げてしまえばオシマイの話。じつは。

その十字架を、後生大事に背負っていなきゃならない理由は何なのか。
ぶん投げていいのに、投げない理由があるとしたら
自分の側に「背負っていないと不都合」があるからではないでしょうか。

「学会員の親の下に生まれたから私は不遇な幼少期を過ごしたんだ!」
これを握りしめておかなければ、自分は何かを失う・・。
そうやっていついつまでも、いい年こいた大人になってても、
永遠に拗ねていなければ「私」が失われる・・何かの整合性がとれなくなってしまう!
そんな思いに、囚われてはいないでしょうか。

大丈夫です、何も失いません。それどころか、なにも最初から持ってなどいませんw
「不遇なストーリー」を大事に握りしめたがっているのは、エゴなのです。

”それとも起こっている出来事や心のなか、この世界で自分を見失うのか? ”

ただ「私は在る」それだけのことなのです。

少なくとも、ネガティブなストーリー(自分の構成要素)は、必要ないから封印しちゃって
いいと思います。
うらみがましさも拗ねも、人生をいいものにはしません故。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


次回は年末記事・・ってもう年末だけどw
2017年に私が読んで面白かった本を紹介したいと思います。


スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。