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ニュー・アース 第三章(10)

すべての構造物は不安定

どんな形をとるにしても、エゴの奥には自分が考える自分のイメージ、
幻の自己を強化したいという強い無意識の衝動がある。その自己イメージ、
幻の自己は、思考ー大きな恵みであると同時に手ごわい厄介者ーがのさばりだして、
自分が「大いなる存在」「源」「神」とつながっているという、シンプルだが深い喜びを
覆い隠した時に出現する。
どんな行動となって表れるにせよ、エゴの隠れた動機は常に同じだ。
目立ちたい、特別でありたい、支配したい、力が欲しい、関心が欲しい、もっともっと欲しい、
ということである。それにもちろん、自分は別だという感覚を感じたい。
つまり対立相手、敵が必要になる。
エゴはつねに他者あるいは状況に何かを求めている。いつも隠れた課題を抱えてえいるのだ。
「まだ充分ではない」と感じ、非充足感、欠乏感にいら立っていて、なんとかそれを埋めなければ
ならない。そのために人や状況を利用するが、たとえ一時は欠落を埋められても、その成功は
決して長続きしない。
目的と遂げられることも多いし、たいていは「私が望む」ことと「実態」とのギャップに動揺し
苦しむ。いまは古典となった有名な「サティスファクション」は、まさにエゴの歌だ。
エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。
自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。
結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な
人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしか
できない。幻想は決してあなたを満足させてはくれない。ほんとうのあなたに気づくことが
できれば、それだけがあなたを解放してくれる。
なぜ不安なのか?エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、
すべて移ろいゆくことをどこかで承知している。だから外見はどれほど自信満々に見えても
エゴにはいつも不安定な頼りなさがつきまとう。
(中略)
どんなに堅固に見える物質だろうと、すべての構築物(形)は不安定だと気付き、それを
受け入れると、身のうちに安らかな気持ちがわき起こる。
形あるものは儚く無情だと認識した時、自分の中の形のない次元、死をも超える次元に
目が開かれるからである。イエスはそれを「永遠の生命」と呼んだ。

(p175-179抜粋)


”古典となった歌"とは、ローリングストーンズのサティスファクションのことだと思われます。
歌詞の和訳を調べ初めて知ったのですが、正式なタイトルは
「I can't get no satisfaction.」となっていて
これが”ぜんぜん満足できない”という意味で、二重否定となっているとのこと。
エゴはどこまでいっても満足なんかしない・どんな状況にだって難癖付ける、という状態を
まさに言い当てたタイトルですねw
歌詞全体の内容も、そのようなかんじです。 興味のある方はぐぐってください。

エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。

不安がある種、あらゆる物事に対しての原動力にもなっている。
悪いことばかりではありませんが、取り違えると各種依存へ陥ってしまう事態に
繋がっていると思います。 
宗教依存も、「ざっくり不安を取り除きたい」という動機からくるものでしょうし。
その「不安」が、えもいわれぬもの・説明のしようのないものだからこそ、
目に見えない不思議なパワー・・ご利益的なものを求める思いにつながっていくのだと
自分の経験上からそう分析しています。

「それ」をしていないと不安だ・・という行動があるとすれば、
その行動習慣を見直してみるのも一興かもしれませんね。
大昔、組織に属し活動家だったころの私は、やはり活動をしていなければどこかしら不安でした。
”遊んでばかりいたら、何か悪いことが起こるんじゃないか・・?!”
”お題目あがってない、大丈夫かな・・?!”
なんて思っていたら、やっぱりアクシデントだとか
活動に引き戻されるような出来事に折々出逢っていたしw
「自分がそう思い込んでいるから、そうなっていただけの話」だったなーって今はわかったというか
合点がいきます。

おそらくですが、現役活動家の皆さんも
やっぱり原動力の底には不安があると思います。
それをやっていなかったら、自分はどうかしてしまう・おかしくなる・空転する・芯を失う
不幸になってしまう的な?
でも、それは自分が勝手に作り上げた幻想&思い込み、マイルールなんです。
組織や親からのすりこみ・周りの影響もあるかとは思いますが、100%が周りのせいではない。
自分が不幸にもそう思い込んでしまったゆえ、そうなってしまうだけの話なので。
それが思い込みだったと気づけた時、宗教依存は自然と終わります。

つくづくも、観念は大事です。 
何に対してもですが、あまりにも不安を持ちすぎはしないけれども・用心はしておくことが
良いのではないかな、と思っています。
「用心」は落ち着いていないと出来ませんから、何度も繰り返しで恐縮ですが
「プレゼンスにある」ことに努める・・心がけかと。

「ニュー・アース」を読んだから言えることなんですが、
「不安」という説明のしようのないものも、
実は自分が作り出した幻想なんですよね。おおむね。
たとえば、まだ自分が経験したことのない怖い出来事や痛ましい事故などを
偶々ニュース映像であったり・または身近な人たちにおこった出来事として目にすると
「自分もああなったらどうしよう?!」と、不安に陥る。
けれどそれは「いまここ」にはないことで、頭の中のイマジネーションです。
自分の身にはまだおきていないことであり・起こるか起こらないかも「いまここ」ではわかりません。
が、確実に言えることは「いまここ」には、無いことなのです。
エゴの想像力は逞しいですから「いまここ」には無いことを際限なく作り出します。
でも、それらは全部、想像上のストーリーに過ぎません。

なぜ不安なのか?エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、
すべて移ろいゆくことをどこかで承知している。

だから外見はどれほど自信満々に見えてもエゴにはいつも不安定な頼りなさがつきまとう。


不安がいつまでたってもぬぐえない、尽きないことの答えが上記でしょう。

太字にした部分は、「エゴが恐れているものの正体」ですが、次のセンテンスを読み
「あ、これってあのことだ!」と思い当たった件があります(後述)↓

どんなに堅固に見える物質だろうと、すべての構築物(形)は不安定だと気付き、それを
受け入れると、身のうちに安らかな気持ちがわき起こる。
形あるものは儚く無情だと認識した時、自分の中の形のない次元、死をも超える次元に
目が開かれるからである。イエスはそれを「永遠の生命」と呼んだ。


すべてが一定ではないことを受け入れられた時、承知した時に不安は終わる。
諦観ともいえるでしょうか。

「あのこと」とは、こちらの記事で紹介した大嶋信頼さんの
「トラウマ恐怖に浸ってみる」というメソッドでした。
トラウマだと思っているそれが「恐怖じゃない」って気付くことができれば、
脳の過覚醒がおさまって「凪」へ移行する(落ち着く)という・・。

いつかは終わる、ということを、何に対してもどんな事象についても
弁えておけばいいのではないかと、最近の私はとらえています。
人として生を受けた以上、必ず寿命というものはあって、やがて死ぬことは決まっています。
これは誰人も避けようのないことですよね。
(・・某都市伝説番組でやっていた「トランスヒューマニズム」的な話はちょっと置いといてw)

エゴは終わりがくることを、よくも悪くも恐れている。究極それは「死」を指しているのか。
けれど死ぬことだけは決まっている。
誰人にも平等にその時は訪れます、どんな形かはまさに「神のみぞ知る」状態で。

だから、どうせだったら楽しく生きればいいと思うのです。
生ききれば・生き抜けば・生き伸びれば。
生きたもの勝ちです。
なにも、自ら死にたいなんておもわなくてもw
”死にたい”なんて思いたくなるような出来事だって、いつか必ず終わります。
そのことに気づけた時点でもう「終わる」のだと思います。

死にたくなるような出来事が終わらないなら、自身の中のエゴがそれを終わらせたくないのかも
しれません。 理由は様々でしょうが・・。

究極を書いてみたのでちょっと重たくなっちゃいましたが、
尽きない怒りや恨みや悲しみなどにも、同じことが言えると思います。
それらを尽きさせたくないエゴが存在している、ということです。

生きていれば日々いろんなことがおきてきます。望む・望まざるにかかわらず。
依然として常に「いま」しかなくて、すべてはやがて過ぎゆくのです。
だったら「いま」を少しでも”気分良く”すごすことに注力する、
簡単なことでいいから、行動するのが良いのではないかなーと、思っています。
(行動=プレゼンスに入ること、瞑想もアリ)

(次回に続きます)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

下書き途中で、オリンピックに夢中で見入っていたらすっかり季節が変わってしまい・・
気づけば春休み。
早くUPしなくちゃ、と思いつつ、今度は再燃した森友問題に夢中になっておりましたw

いやー、すっごい興味深い。
証人喚問で幕引きなんて、もったいないw
野党が「私たち頑張ってます!」風情を出すため・
パフォーマンスのために国会が使われたんじゃ、意味ないですよね。 
そのなかで例外的に、赤い党はGJだったと思います(が、支持はしてませんw)

この問題に関しては、政治家よりも
国会の外にいるジャーナリスト(調査し・経緯を詳しく知っている人々)の発言のほうが
利害関係がない分、信憑性もあるし支持できるなと、個人的に思います。

そしてなっちゃん党が、この問題に関しては
どーいうわけか、あたりさわりない対応なところにも注目です・・w


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