おまじない

独身時代、外部の友人たちと旅行をし
縁結びの神様(島根 出雲大社)や縁結びのお寺(京都のお寺 名前失念)に
観光で行きました。
友人たちは、それはそれは真剣に願をかけ、住職の説法に聞き入っていました。
私はそういう時、ついて行くけどあくまでも「付き添い見学」です。御札お守りを買ったり、絵馬を
書く事はありません(というか、できません)でした。
彼女らを見ながら、私はこう思ってました「ばかみたい」。
”自分のお願い事ばっかりじゃん。他人を幸せにしない限り、功徳はいただけないのに・・”と
創価脳の女子部はそんな風に思い、醒めた目で見ていました。 
勿論そんなことを彼女たちには言いません。嫌われますから。
仏法対話が全く心に響いてないんだなと落胆しつつも、いつかは解る時がくるわ!と、見下しも入って
いました。
こういった、おまじない的な事を私はバリ活時代、すっごくバカにしていました。
外道や邪宗(他宗の仏教)にすがって何になるのよ? と思っていました。

京都のお寺には4人で行きました。本当は5人で行く予定が、一人はドタキャンをしたのです。
2年ほどの間に私を除いた3人が玉の輿結婚を決めました。
そのお寺は玉の輿に乗れることでも有名だったのです。 
ドタキャンした一人が、本当に落胆しきった顔で「自分もいけばよかったー!」と言うのを見た時も
思わず噴き出して笑ってしまったほどです。
ただの偶然にきまってるのに、なにを本気にしてるの?馬鹿みたいって。
今思えば、一番私が馬鹿だったんですけどね。

また、海外旅行に行った際、友人たちが土産物店でマスコットを買い占めたことがありました。
一体どうしたの?と尋ねると「これを持ってるとお願い事が叶うんだって。みんなにも配ろうと
思って」というので、そのときも閉口しました。
なんで噂を簡単に信じるのだろう。
そして、神社や寺に行ったメンバーも含まれていたので、神様や仏様はまだいいわ・
マスコットなんかただの「大量生産物」じゃん!
マスコット持ってて願いが叶うなんて普通に考えておかしいじゃん!と内心つっこんでいました。
でも、まともにその意見をぶつけたら険悪になることは解っていたので言いませんでした。

神頼みなんて信じなかった私ですが、創価の活動の中にも「まじない」が山ほどあったことに
活動家時代から疑問を抱いていました。

たとえば新聞啓蒙は「相手に経済力をつけてあげる闘い」とされていました。
女子部においては、親と同居の友人より一人暮らしの友人がターゲットでしたが、若い独居世帯に
新聞をとる経済的余裕なんてない・・と誰かが言ったところ
「そうではない。毎月ご供養しているようなものだから、必ず(お金が)巡ってくるようになる」と
婦人部が言ってました。 
結婚後、母からも「どれだけ生活に困っても新聞購読と財務は続けないとダメ。
やめたらますます生活が立ちいかなくなるから」と言われた事もありました。
読まない新聞を取り続けるくらいなら、そのお金を生活にまわすのが普通だと思いますが、
こんなところにも「罰論」が使われているなんて異常な事です。

また、法戦も大きな功徳が出るといわれてますよね。
私の住んでいた地域では「経済革命ができる」と言われていました。お金に困らなくなったとか、
法戦をやりきった後は必ず臨時収入があるとか、そんな話があっちでもこっちでも囁かれて
いました。
うちの母に至っては「候補者の名を借りて宿命転換させてもらっている」と言うほどですw
候補者の名前を語って行くこと=お題目くらいに思ってるみたいです。これもおそらく学会幹部が
指導で言ってることのウケウリなんだけど、そんなこと日蓮大聖人が言うわけないし。

そして財務は「どこよりも利率のいい宇宙銀行」とされていました。
そんなわけないのにw
財務と法戦については又、別の記事で書きたいと思います。

白蓮時代は会合後の大講堂に掃除機をかけるさい、かけた畳の枚数分だけ
将来大きな家に住めるようになる(暗に、玉の輿に乗るって意味もあったかもしれません)と
いわれていました。
当時の掃除機は業務用でとても重たく、畳を傷ませないように2人1ペアでひとりは掃除機をもちあげ・
一人がノズルで吸引(掃除)していました。
重労働なので私は嫌いでしたが、白蓮メンバーの間では奪い合いでした(理由は後述)。
トイレ掃除にも「将来可愛い子供が生まれる」という謂れがありましたし、
大昔のエピソード
「池田先生がとある会場に来られると決まった時、トイレを寝転べるくらい綺麗にしようと
青年部が頑張った。
私たちも、いつ先生がいらしてもいいように、その心意気で綺麗にしましょう」と幹部が
呼びかけていました。
要は皆がやりたくない事を率先してやるところに功徳がある、という図式だったんでしょう。

白蓮は「率先垂範 自発能動」がモットーだったから、みんな重労働の奪い合いでした。
私は瞬発力が無いので、いつも出遅れて楽な仕事ばっかりやってました。それを幹部が常日頃から
見ており「あなたにはハングリー精神がない。せっかくの訓練期間なのに、もったいない」と
注意されていました。
そんな風に言われても、私は皆を押しのけて(?)まで重たい掃除機を選ぶ気にはなりませんでした。
”そんなことに功徳があるわけないじゃん”って醒めていたんですね。
幹部も、そんな私の本心を見抜いていたんだと思います。
「なぜいつも一歩引いて見てるの?もっと欲張りになりなさい」と言われました。

この「率先垂範 自発能動」について、繰り返し幹部から注意と指導を受けました。
創価における「率先垂範」とは
”目的や理由が頭で(考えて)わからなくても、とにかく素直に素早く行動ができること”
私は頭で考えすぎて、行動が遅くなっていると指摘され
「上からの指示は全て池田先生の指示だと受け止めて行動することができれば、難無いはずです」
とも言われました。
繰り返し書いている通り、私は池田老人を師匠だと思っていなかったので、こんな指導も響かずでした。

こんな創価のおまじないと、神頼みだったら、神頼みの方がまだマシなんじゃないかと
最近の私は思います。
他人に迷惑(選挙、新聞)をかけないだけましでしょう。

創価の各種おまじないになびかなかった私だけど、お題目と仏法対話(法をひろめる事)には
絶対の功徳があると信じて疑わなかった。
自他共の幸福を願う行動(折伏対話)にこそ功徳があるんだと思いこんでいた。
でも、実際に私がやっていたことは、対話と称して「相手のウィークポイントを突く事」でした。
前向きになれた友人もいたし、議論好きの奇特な友人は私と話して良かったなんて言ってくれたけど、
大半の人にはイヤな思いをさせたと思います。 
自他共の幸福って言葉を軽々しく使って、実際私がやっていたことは「距離なしの行動」
「相手が望まない解決策(?)の伝授」でした。
これもまた、他人に迷惑をかける事。 
神頼みを馬鹿にしてた私は、神頼み以下の事に功徳を求めていました。 大馬鹿です。

本当の「自他共の幸福を願う行動」って、ゴリ押しで宗教(考え方)を押しつけることなんかじゃない。
そして考え方を受け入れてもらうためにと、対話の他に親切心を働かせることでもない。
相手を尊重し、自分も大事にしながら、いい時も悪い時も・遠からず近からず見守り、
本当に必要なとき邪魔にならない「現実的な」アシストをする事だと思う。
そしてこの行動に「功徳」なんて、ない。 人として当然の行い(振る舞い)をしたっていうだけ。

他人を救う(この表現はそぐわないですが)ことに、ごほうび・功徳なんかいらない。
功徳を求めること自体もうおかしなことで、「功徳」頂戴となった瞬間から、人の尊厳が失われる。
覚醒から一年経過し、やっとそんな考えに至ることが出来ました。

創価の価値観では、「一般社会」が生きづらいのは至極当たり前のことです。
バリ活は「何を言っている、我々も一般社会に生きている!」と反論しそうだけど、全然違います。
一般社会に居るかに見えて、全く別の世界に隔離されて居るのです。
だからって、創価から抜け出す事を恐れないで欲しい。
艱難辛苦を組織の中・組織の活動で味わうなんて無益です。
一般社会で味わった方がずっと実りもある。
なんでも「祈りで解決」なんて思って生きていた頃より、今の私は元気だし毎日が楽しいです。

覚醒しつつも迷いのある方、一日も早く、人間らしさを取り戻しましょう。
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