家族という魔(3)

家庭内の対立軸が、実家における大問題で、母の教育ですっかり創価脳に育っていた私は
「父やきょうだい2人が信心をしないから・学会理解をしないから、うちの家族は仲が悪い」と
つい一昨年まで、ずっと思っていました。
あくまでも、信心や学会組織を理解しない父や2人のきょうだいが悪いのであって、
対立の原因を「母と自分が信心しているせい」にした事はなかったんです。
そして、私の青年部時代の活動モチベーションのひとつが”両親の不仲解決祈念”でした。
それには父の創価への理解が不可欠だと思っており、
あくまでも父に「こっち側」に歩み寄ってもらう事でした。

私は外部の主人と結婚してさまざまな気づきがあり、覚醒に至る下地が出来ました。
主人の家族を見ていて、私が育った家庭が随分といびつなもので、私自身がその影響を大きく受けて
生きづらさを感じるようになっていた事に気が付きました。
義実家は、日本人らしい宗教観です(浄土宗で、神社も参拝)。
当然のことながら、誰も宗教祭祀・政治思想でもめる事はありません。
最初は、単純に義実家が仲良し家族なんだろうと思っていました。しかし長く関わるにつけ、これは
宗教の問題ではないか?と思うようになりました。
創価が私たち家族の和楽の邪魔をしているのでは?と気がついたのです。

結婚の際、私の父は主人と会う前に
「相手の親御さんが創価の信心を了承しているのか?無理なら結婚はあきらめなさい。
 親御さんのOKが取れていないなら、会う必要はない」と言いました。
アンチ創価の父の口から、こんな言葉が出た事に驚きながらも、私は主人にこの件を話しました。
私から直接義両親に尋ねる事になり、実家を訪れた際
義両親は「若くして信仰を持っているなんてすばらしい。私たちも信仰を持っている。
おたがいの信仰を尊重し、押しつけ合わず、侵さないようにしましょう」と言ってくれました。
つまり、容認はするが、家庭内折伏はしてくれるなという意味です。
それでもはっきりと「創価の嫁なんていらない」と言われなかっただけ、私はありがたいと思いました。
父にこの事を話すと「最初が肝心なんだよ。あとでわかってそんな嫁いらないって、返品されても
 困るからな」と言っていました。
いま思えば、父は一般人の良識をもっていたからこそ、私や母が創価の信心を持っていることで
一般家庭の人と無用なトラブルをおこさないように、最初に筋を通し・注意を払ってくれたのでしょう。
また、私が新しい家族の中で、信仰のせいで悲しい辛い思いをしないようにとの、娘を思う親心だったと
思います。

独身時代、実家に住んでいた頃、父と和やかに会話をした記憶が殆ど無く、結婚後やっと普通に
話せるようになりました。
父は、私の主人や子供(孫)を前にすると、本当に柔和なリラックスした表情で、笑顔で話していました。
そんな父をみたことが、独身時代一度も無かったので本当に驚きました。
父の笑顔を引きだしてくれた、主人と子供たちに感謝しました。
だけどいま思えば、父は誰に対してだってそんな笑顔を向けられる人だったんです。
母と私が「創価学会」という組織に属し、猛信的色眼鏡で父をみていたから、父も私や母に対して
厳しい姿勢で挑み、お互いにわかりあえなかっただけなんだと、脱会を決意して以降に解りました。

父は、私たちに「目を覚ませ!」と、言い続けてくれていました。
「お前たちは、組織にだまされている」と、しょっちゅう言われました。
一番身近な父のその言葉を、父の存命中、全く素直に受け止める事は出来ませんでした。
そこには母の刷り込み
「この信心は正しい。正しいが故に魔が競う。
 お父さんの強固な反対姿勢は、その”魔”なのだ。
 お父さんに魔が入って、私たちを怒鳴ったり脅したりして、信心をためしているのよ。
 だけど、それに恐れをなしてひいてはいけない。一歩も引いてはならない。それは不幸の始まりになる。
 私たちが、反対に屈せずに信心を貫けば、お父さんが理解する日はきっと来るのだから」と。
これも、おそらく、母が幹部から聞いた指導のウケウリでしょう。
私は、こんな組織に都合のいい教えを、幼少期から叩きこまれていました。
なので、父の言葉を「魔のたわごと」と受け止めていたのです。

家族の反対を「魔」扱いするなんて、そもそもどうかしています。
女子部時代に聞いた体験発表で、アンチ創価の父に最後まで活動を反対され続け・その父が病死したとき
「父が猛反対してくれたからこそ、私は強い信心を貫く事が出来た。父に感謝した」というものがありました。
当時は、そんなものかなと思いながら感心して聞いてましたが、こんな発想じたい、おかしい。
究極どっちが大事なの?って話で、生みの親よりも信心=この時勢では学会と師匠の池田老人って事でしょう。
こんな結論、人の尊厳を完全に失っています。
これのなにのどこが「人間主義」なのか。もう、理論的に破綻してる事は解ってるので問い詰めませんが
親や家族に反対されても創価の信仰を貫くなんて、そんな事は馬鹿げています。
そんなことしても幸福になりません。損はしても得は一切ない。
人生において、取り返しのつかない後悔が増えるだけです。
もし、親や家族に信心を反対されながらも「永遠の幸福境涯のため」「世界平和のため」「一家和楽のため」
と、創価の言いなりに信心に励んでいる人がいたら、すぐにやめて欲しい。
家族と良好な関係修復に努め、笑顔で向き合う時間を過ごす方が、人生においてどれほど建設的かと思います。

父の急逝時、私はまだマインドコントロールのさなかにいました。
最後まで組織理解を示さなかった父の死を、私は悲しいというよりも「残念」だと感じていました。
私の結婚後、やっと普通に話が出来るようになったのに。
もっと色々、話したかったと思いました。

マインドコントロールのとけた今は、父に申し訳ない思いでいっぱいです。
ずっと、本当の事を訴え続けてくれていた父を、色眼鏡で見てきた。
「この信心の凄さが解らない、可哀相な人」と、上から目線で思っていた。
けど頭が悪いばかりに組織に騙され、いいように使われ搾取されて可哀相なのは、私の方でした。
もっと早くに私が覚醒していればと、後悔してもきりがありません。
あらゆる出来事を思い返すと、鬱になりそう。だからもう、私はそれら煩わしいことに蓋をすると決めました。
私には私の家族や家庭があって、子供は日々育っていて、つまらないことで成長を見逃したくない。
立ち止まっている暇はないからです。

そして、父の死後と少し遅くはなりましたが、組織の矛盾に気付けて本当に良かったと思っています。
父が一番心配したのはきっと、私が新たに主人と築く家庭を、実家と同じものにしてもらいたくないって
事だったと思うので。
私と主人が信心で対立し、子供の一番身近な存在である私が子供に洗脳教育をし、創価一色にし、
父親を「学会や信心を理解できない、可哀相な人」なんて思わせてしまう、そんな不幸な歴史を
繰り返してもらいたくはない。
父が私に訴えたかったことだと思います。

40年以上かかって間違いに気がついた。
戻らない過去を悔いるよりも、前を向いて、やり直したい。
それが、ずっと真実を訴え続けてくれた父への供養になると信じています。
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