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実事求是(3)

「偽」本尊と意識して以降、三唱を仏壇にむかってではなく
東の方角を向いてしていました。
自宅の仏間は東方向に家具が置けないので、仏壇は別の方角にあります。
しだいに和室に入ることすら億劫になり、気分が重くなって、お水がえもしなくなりました。
単純に気の問題だったと思いますが、暫くのあいだ家の中にいるとき、車酔いのような症状に
悩まされました。
子供が起きている時間は気が張っているのか、そのような症状はないのだけど、
子供達が寝静まって主人が帰宅するまでしばし一人になるときなど気分が悪くなるのです。
これはきっと「偽」のせいだと思っていました。 怒ってるんじゃないかとw
偽だなんて私が決めつけて三唱もしなくなり・御供えもお水もあげなくなったから、
私を困らせてやろうとしてるんじゃないか?と思ってました。

御本尊様問題と向き合う中で、私の信仰の基礎がオカルトに支配されている事に
気が付きました。
とにかく”祟り”を恐れていたのです。
バリ活時代、外部の友人がおまじないやらお守りなどに執心している様子を見て「馬鹿みたい」
と思っていたけど、自分だって同じ穴の狢でした。
原因は実家の母や組織幹部から聞かされた罰論。
御本尊様を粗末にしたら、どうなるものか。母からこれでもかと酷い話を聞かされてきました。
母も同じく誰かから刷り込まれたんでしょう。
そんな刷り込みによって、40年以上にわたってお曼荼羅(御本尊様)を脅威に感じてきた私です。
ただの巻き物だとは思えません。
そういえば、長子が3歳くらいの頃、夫と仏間でボール遊び(といっても、小さなゴムボールです)を
していたのを見て私は「ちょっと!何やってんのよ!」と大声で注意した事がありました。
夫と長子は、きょとーんとした表情で私を見ました。何がいけないんでしょうか?って顔です。
「他にも部屋があるのに、なんでここでやるの?御本尊様のある部屋でそんなことしないで」と二人を
追いだしたんです。当時すでに未活ですが、御本尊様への絶対心はありました。
夫にも仏間で子供と遊ぶのは止めてくれと頼みました。
理由も説明し、夫はたまたま子供と追いかけっこして仏間に入ってしまい延長で遊んでいただけで、
今後は気をつけると返事をしました。
私はこの時、一般家庭と創価の育ちの違いを感じました。
自分の育ちでは、仏間でボール遊び(他の遊びも)なんて許されませんでした。
仏壇にうっかりボールが当たったり、バタバタ走りまわる=衝撃で御本尊様が揺れては困るという考えで。
お曼荼羅が揺れるのはよくないと聞かされていました。命が揺れるからです。
お曼荼羅を巻きっぱなしにするのも良くない。自分自身の命が巻かれてることと同じ。
「自分の命と思え」と教わってきて、特別な力のあるお曼荼羅と信じ切ってきただけに
いくら「偽」とはいえ、私はこれが何の力もない単なる巻き物だと考える事は中々出来なかったです。

御本尊様について調べ始めると、創価の枠の中におさまっていた当時は知らなかった事実が
ざくざくと出てきて、インターネットってすごいわ! と、思う毎日でした。
御本尊様について詳しく調べている方が、ネット上に研究結果を記載してくれている事が
とてもありがたく、また、皆さんすごいなぁと感心しました。
十分に、学術的探求の対象になりうる事なのだと、このとき初めて知ったような次第です。
それだけ謎で、未だハッキリしていない部分が多いということなんですね。

なんせ創価で教えられた教学や日蓮大聖人の事は
「学会で教えていること以外に正しいものはありません」という紋切り型でした。
正しいものはこれしかないんだから、正しくない他のものなんて態々学んだり・知ったりする必要は
ないですよ!っていう。それは、何に対してもでしたね。 
よほど自分たちの教えにボロがでること恐れ、会員を盲目へと陥れていたのでしょう。
そうとしか考えられません。

真筆御本尊様(の画像)をネットで気軽に見られる事に対しても私は驚きました、そういえば。
創価では絶対に、御本尊様の相貌を写真や映像(ビデオ)に撮っちゃいけないって教えられてました。
理由は聞いたこと無かったですが、そういうものなんだと思い込んでたんです。
だからネットで画像を見るなんて、最初は悪い事をしている気分で落ち着かなかったですw

調べ始めてすぐに、戒壇の大御本尊様が後世の偽作であるとの疑義を目にしました。
こんなことも、昨年までまったく知らなかったのです。
真贋に関しては私にはもうどうでもいいんですが(日蓮正宗に帰依するつもりはないので)
あれこれ知識を得るうち、やはり創価が御本尊下付を始めてしまったのはマズかったと思いました。
この事実だけで、じゅうぶん脱会理由になるなって。

戸田先生が「これ(御本尊様)だけはわれわれ(学会)は作るわけにゆかない」と言っていたのに。
師弟不二をごり押しする自称戸田の一番弟子な池田老人が、あっさりそれを裏切るってありえません。
私的に、宗教団体が勝手に(独自に)印刷・製造したという点が解せなくて。
正宗がいう血脈相承はちょっと横に置いとくとして、御本尊様を独自に印刷・製造する行為自体が、
”信心があるなら誰人もOKで許される”というのならば、極端にいえば私が作ってもイイって事です。
最近じゃ、日蓮大聖人御真筆をインターネットで閲覧することも可能。
それらをパソコンに取り込んで、プリントアウトして、それなりの表装を施して自宅で御本尊様として
おまつりしても構わない、って拡大解釈も、出来てしまうような?(やりませんけどね)
御本尊様を印刷する事は、べつに創価学会だけに許された特権ってわけじゃないのだから。

折伏について考えた時も思いましたが、結局創価にとっての本尊は「金儲けのためのツール」だった。
だから、偽本尊云々の前にもう、何の威厳も格もないモノなんですよね。創価発行の御本尊様って。
雑誌広告に出ている、幸運のペンダント、あれと変わらなくしてしまった。
こんなこと言うと、バリ活が口から泡吹いて全力で否定しに来そうだけどw
「師弟不二の精神がある学会の御本尊だから、大聖人直結だから間違いない!正規品なんだ!」って。
残念ながら、それは組織内部・信者間でしか、通用しない理論です。
御書のどこにも、そんなこと書いてないから。
誰人にも、外部にもアンチにも「なるほどな」って、ぐうの音も出ないほどの証拠・根拠がない限り
創価の御本尊様の正当性を主張しても無理無駄だと思います。
永遠の指導者が仰る通り”仏法は道理”ですから。
自分たちにとってだけ都合のいいことを「道理」とは呼ばないのです。

創価が御本尊下付を開始した時期の私は、青年部なりたてでした。
無知で不勉強だったので、この暴挙がいかにそれまでの創価の文脈から考えてもおかしい事なのか
全然気づきもしなかったし、問題にも思いませんでした。
不思議なのは、戸田指導も見聞きしていたであろう古参会員はこの創価発行の御本尊様について
「いただけない」と思わなかったのか?ということ。
どうせうまく言いくるめられたのでしょうが、どう考えてもたかだか80年そこらの歴史しかない
民間の宗教団体が、インスタントに本尊を発行してしまうなんて、無責任にも程があると思います。

宗門側が絶対的に正しいとも、不勉強な私には言えません。
ただ、宗門にはそれなりの歴史(800年の)があるわけで、その間ずっと護ってこられ続いてきた。
創価学会が出来たのは昭和の話で、宗門との蜜月期間はたかだか数十年。
創価なんて姿形もない時代から、宗門には弟子旦那が常にいたわけで、それも800年もの期間。
信徒と、僧侶たちの、連綿とした繋がり・歴史があって今日に戒壇の御本尊様が伝えられている事は
さすが本山だな、と思います(現状の内部実態は別として・戒壇の真贋も別として)。
時代に翻弄される事があっても、細々とでも、ながらえ、人々によって護られてきたことは
間違いない事実です。

私は歴史が好きで、長く続いていることがら・伝統伝承というものは、本物だと考えます。
人々の心をとらえて離さないもの以外は、自然と時代に淘汰されていく。
創価の歴史は100年にもなっていない。まだ80周年そこそこ。
20年後にやっと100年超。
1世紀、存在し続けられるか? 私個人の考えでは、厳しいような気がします。
名前くらいは残るかもしれないけど、公称800万とはもう言えなくなるでしょうね。
そう考えると、組織には「覚悟」があるのか?と疑うのです。
これから何百年も先々、日蓮大聖人の教えを伝え続けて行く覚悟が、創価にあるのか?と。
その覚悟なくして、御本尊様を製造下付するなんてことは、本来許されないはず。
いまの創価は、池田老人の御威光がある期間限定のビジネス集団ってだけじゃないのか?
在家集団って、そういう意味で弱いと思う。 歴史伝統に裏打ちされるものがないし。
日蓮大聖人の仏法思想をベースにしてることになってますが、宗祖は池田老人なんですって
ハッキリ変更した方が、あと100年くらい、やってけるんじゃないですか?と思うくらいw
日蓮大聖人直結という、表看板は現状偽りがありまくるから、おろすべきだと思います。

近頃、Xデー間近なのか知りませんが、創価上層部の覇権争いが写真週刊誌に出たりと
きな臭い様相になっています。
池田老人が去った後の創価が、純粋な信徒の集まりに戻ることは、もう不可能でしょうね。
数の理論で、カネと権力を集約する旨みを知ってしまった上層部が、簡単に既得権益を手放すわけが
ないと思う。 
また、カネ目当てで群がって来ている一般社会(企業やメディアや諸外国の海千山千な人々)から
そっぽ向かれる事は「宗教界の王者」と謳ってしまった手前、耐えがたい事でしょうし。
そういったプライドをかなぐり捨てていちからやれるとは到底思えないです。

いろんな意味で、組織はもうダメでしょう。
良くなることはないだろうし、衰退の一途をたどり、破綻するような気がします。
宗門のように、何百年間も護って行くような対象が何一つない、組織には。
池田老人がお金を湯水のごとく使って集めたメダルや顕彰も、数が多けりゃいいってもんじゃないし
資産価値もさほどない。記念館をこさえたところで、興味があるのは会員と物好きな人のみ。
それに、ハコモノばっかり増やしちゃって、維持管理費が負の遺産となり、後継世代に借金残してるようなもの。
そんなものを、後継世代が果たしていつまでも、数百年にわたって「護って」いくでしょうか?
それほどの意味や価値をそこに見出せるだろうか?
人口減・会員減に伴って、いずれの時代には、組織の建物が居抜きで売りに出されるような
事態になりそうな気がします。

話が脱線しましたが、本尊について考えて行くうち、今度は
「本当にこの信心に功徳はあったのか?」という疑問にたどり着きました。次回記します。
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