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実事求是(4)

「この信心には功徳がある」「どんな願い事も叶えてくれる御本尊様」
創価のうたい文句でした。
私も友人に対し「どんな悩みでもご祈念していけば必ず解決できるよ!」と語ってきました。
そう言い切れたのは、それなりに「功徳体験」を自分が持っていた(と思いこんでいた)からです。

偽本尊問題にぶちあたり、私の中で確認を始めたテーマ
「本当にこれまで信心で願いを叶えて来たのか?」
(ここでいう「信心」は、御本尊様へのご祈念プラス”学会活動”を含みます)
具体的に祈念して叶った事を思いだそうとしたところ、これが予想外に少ない事に唖然としました。
もっとあったでしょ?と思うのに、思いだせず。

ぱっと思いだしたことと言えば、高校合格・転職2回・争奪戦のライブチケット入手・
友人を折伏したこと。職場の人間関係改善。
主人との結婚(次に出会った人と結婚します、と祈念して再会し、本当に結婚に至った)。

逆に、願っても叶わなかった事のほうが数多く思いだせました。
大学受験は第一志望に受かりませんでした(単純に実力不足です)。
恋愛ごとに関しては、ことごとくダメでした。
恋愛に関して、人の気持ちは、祈念でどうこうなるものじゃありません(今思えば当たり前ですが)。
ダメな物はダメ。 うまくいくときは祈らなくたってうまくいく。

父が組織理解をし、活動に出る事も長らく祈念したが結局叶わないまま、死んでしまいました。
きょうだいとつれあいの事も、信心して欲しいと祈念してたけど、反発を増すばかりでした。

女子部時代でいえば、祈念しまくったのに仕事の契約が最終段階まで行って取れなかったことや、
祈念してやっと獲得できた新規取引先に夜逃げされたことを思いだし、嫌な記憶がよみがえりました。
折伏したい人は沢山いて祈念してきたが、叶った人より、逃げられた人の数がはるかに多い。
くだらないことで言えば、某グループの解散ライブに行きたかったのにチケットが取れなくて
無理で、とても残念でした。

バリ活だったときの、最後の思い出でいえば「弟子の誓願1000万」も、祈っていましたが
860万票と、全然届かずだったしw

ただ、なりゆきでうまくいった経験は沢山ありました。
自分の思い通りのシナリオではないが、紆余曲折を経て最終的に自分の望み通りに
(自分に有利な結果に)なった経験。プロセスはすっとばしの、結果論てやつ。
「終わりよければすべてよし」それを「功徳」と呼ぶのだと、長い間、私はそう認識してきました。
また偶然思いがけず・予期せずイイ思いをした事も大なり小なり、幾度となくあります。
それらすべて「功徳」だと思ってきました。
世間一般の人のいう「ラッキーな出来事」は、私には100%「御本尊様と信心のお陰・功徳」で
願いをかなえたというよりは、なんとなく連続しているラッキーを「功徳、信仰に依る福運」と
捉えていたのだと解りました。

また、バリ活時代の私は自身におきたラッキーや境遇を”誰か(外部)と比べる”ということを
しませんでした。
女子部時代に幹部から聞いた指導(池田老人の言葉です)
「自分と他人を比べるよりも、昨日の自分と今日の自分を比べなさい」を信条としていた故です。
自分自身が以前より幸せかどうかを基準にするって、よっぽど自己実現の希求・理想が高い人以外は
小さな事柄で満足し、幸福感をえられるものです。 少なくとも私はそうでした。
これまた、よくできたマインドコントロール指導だったと気づいたとき、笑ってしまいました。
外部と「幸せ」や「立場」を比べだしたら、出自でこれほど人生は変わってしまうのかと
社会構造についての無力感を覚えます。信仰ではどうにもならないこともあります。
私の場合、覚醒以前に子供のお受験を通じてそのことに気づいたんですが、機会があればそれもまた
書きたいと思います。

覚醒後にスピリチュアルの「呼び寄せ」「言霊」的なことを(ネットの情報のみでしたが)
調べて行くうち、私がやってきた事はご祈念のようで実際は「呼び寄せ」行為だったのでは?
と思うようになったんです。
学会指導でいう仏法は、とどのつまりポジティブシンキングで、何事も前向きにとらえるというものだし。
そしてもう一点、たとえそれが自分の本当に望んだ結果では無くても
「まぁいいや、許容範囲だし」と受け入れて「功徳」だと思いこもうとしてきたのではないか?
という気づき。

あれこれ調べていく中で「ポリアンナ症候群」という言葉を知りました。

ポリアンナ症候群(ポリアンナしょうこうぐん、英: Pollyanna syndrome)は、心的疾患のひとつ。
ポリアンナイズム(Pollyannaism)とも。現実逃避の一種で、楽天主義の負の側面を表すもの。

一般的には、
「直面した問題の中に含まれる(微細な)良い部分だけを見て自己満足し、問題の解決に
 いたらないこと」
「常に現状より悪い状況を想定して、そうなっていないことに満足し、上を見ようとしないこと」
などを指す。(ウィキペディアより)


これって、組織内部(バリ活)に多いタイプじゃない?って思ってしまったんです。
池田老人の指導にあった「永遠の楽観主義」っていうのもまさにこれじゃんw

アンサイクロペディアの「ポリアンナ症候群」は、さらに詳しく具体例も書かれています。
中の項目に、創価脳の方々も思い当たる節があるのではないでしょうか。
リンクをはっておきますのでご覧ください。 

私はバリ活時代、一介のOLで、勝負師ではありませんでした。
試合やコンテストやコンクールや、そういった勝劣がつく世界とは無縁の人間。
例えばスポーツ選手なら最高のプレーをして優勝したり、賞をもらうとか、 芸術家ならコンテストに
入賞するとか世間から評価を受けるなど。
そういった「結果」「完全なる勝利」がわかりやすい世界の人は、祈りの結果をより実感しやすいのでは
ないかと思います。
女子部時代、ただのOL(営業職をした事もありましたが・・)な私には、そんな大それた物はありません。
結局、肝心な・心からの願い事(本題)がひとつも成就しなくても
日常生活の中でちょっとしたラッキーがあったら満足し、それを「信心(と学会活動)の功徳だ!」と
思ってしまって、それでよしとしていた、私自身も”ポリアンナ”だったということに
気がついたのです。

ガーン・・。これに気がついた時のショックは、かなり大きかったです。

たとえば中には全ての願いを完膚なきまでに叶えてきた、という活動家も1000人に一人くらい
存在するのかもしれません。 
でもそうなるともう、単純に「あなたは運が良い(+努力家)」ってだけなのでは?
「この信心は絶対」というのであれば、
確率統計的にある程度高めの割合で「確実に願いが叶っている」等しく会員皆がそう感じていないと
おかしいと私は思います。
まぁ、創価脳はこういうでしょうね
「功徳の出方は、過去世の宿業度合にもよるから、個人差があって当然」
だったら「この信心は絶対」とは、言えなくなると思う。
過去世なんて誰人にも見えないデータ出して来られてもな、って。今だからそう言えます。
覚醒前は、すっかり納得しちゃってました。過去世の宿業のせいにしてましたw
前にも書きましたが、思い通りにならない状況に「過去世の宿業」という理由が付くのなら
そのほうが楽だったからです。
理由が解らないことで悩むことほど、人間しんどいものはないと思います。

また、創価で言う「信心」は”おすがり信仰ではない”と、幹部指導でたびたび聞きました。
どこの神社がOOに良いとか、どこのお寺のお守りがOOに御利益があるなどなど、
「神様」や「仏様(=祀られている対象)」を選び、偶像にお願いするのは「他力本願」。
「創価の信心」はそれらと全く違い、御本尊様にご祈念していく中で自分の内側にある仏界(仏性)を
ひきだして、最高の力と知恵を自分の内側から引きだすから”おすがり信仰”とは違うんだ・
自身に内在する最高の生命をひきだして解決・勝利に導く、現実に即したものなのだーという説を
私は信じてきました。
(注:私は日蓮正宗のお寺で住職から説法を聞いた経験は1回もなく、創価学会の指導しか聞いた事が
 ないので敢えて「創価の信心」と呼びます)
だから女子部時代、安易におまじないを信じて旅先でマスコットやお守りを買い集める外部の友人を
「邪宗の金儲けに騙されちゃって、馬鹿だな~」と冷ややかな目で見ていました。
前にも書きましたが「他人を幸福にもしないで、自分だけご利益もらおうったって無理なんだよ」と
思ったりもしていました。
この、創価における
”自分たちは特別・自分たちは宗教を解ってる・最高の法華経を知っている・行じている”
という意識を持たせることこそが、実は巧妙なマインドコントロールの一つだったのだと
覚醒後に気が付きました。
ものすごい、崇高な行いをしてるんだよ!って誤った自信と自覚と使命感を持たせること。
バリ活は皆、誇りを持っていると思う。 かつての私もそうでした。

けれど、結局は創価の信心も、突き詰めたら他力本願と自己啓発の組み合わせなんですよね。
自己の力を引き出す云々・・は、自己啓発セミナーでもやっている手法で、御本尊様や読経、
唱題というフィルターがなくても可能な事なんですよね。
創価の信心と自己啓発とは違う!とバリ活は反発しそうだけど、同じです。
自分を暗示(自己暗示)にかけている点で同じなのです。
「祈りですべてを変革してゆく」と謳っているけど、これも一種の自己暗示です。
私の青年部当時、札付きのワルだった男子部が信心を始めて更生・仕事で成功し、社会に実証を
示した系の体験が多く語られてましたが、これも自己啓発・暗示で心が定まった効果によるものだと
今の私はそう理解できます。
そして、身近な部員さんにも信心で苦境を乗り越えた(かに見えた)人がいました。
けど、信心していても・いるのになんにも変らず、年がら年中同じ悩みを会合で話す人もいたりして
私はそれが「信心の厚薄」で決まると思いこんでいましたが、それも違ったんだと今は解るのです。
(長くなるので、その件はまた後日書きます)
バリ活当時は体験発表を耳にするにつけ「無限の可能性を開きゆく、この信心はなんてすごいんだろう!」
とウットリしていました。
大白蓮華でも、私はどのページよりもまず会員の功徳体験のコーナーを読むのが好きでしたw

他力本願な寺社参詣・御祈祷を受けたり、お守りを買うという行為の方がいくらかマシだと
覚醒後は思うようになりました。 
自己完結で、誰にも迷惑かけてないから。
それに外部の人は単純におすがりしてる訳じゃない(中にはおすがりのみの人もいるでしょうが)。
正しい努力プラスアルファで、最後の仕上げに心を定めにお参りに行くという方が殆どだと思います。

創価の信心は、確実に他人に迷惑をかけます。 
誰かを幸せに導く(=入会させる)事こそ、自他共の幸福となると思いこまされているだけで
実情は組織の搾取・集金先を増やしたってそれだけなのです。
(そう言われたくなければ、組織は即刻、新聞購読・財務・選挙の支援無理強いをやめることですね)

結局、学会って、なんだったの?と考えました。
巨大なネットワークビジネス(一見そうはみえないのに、現実かなり性質悪め)だったって感じ。
この考えに至るまでの期間は、覚醒から約2ヶ月ほどでした。

”創価の信心で願いは叶わない、創価の学会活動は単なる組織の経済権力維持活動で御利益などない”
ここまで頭の中で整理がついても、私の「ご本尊様への絶対心」は揺るぎませんでした。
次回、その件について書きます。
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