実事求是(6)

誇大妄想に気がついたきっかけは、被災地に住む友人と今年になってやっと連絡が付き、
彼女の壮絶な体験(九死に一生を得た)を聞いた事でした。
一瞬の判断がからくも「生」へと繋がった、もし少しでも選択を違えていれば親子ともども
助からなかった、そんな話でした。
また、助かった直後も死の危機にさらされたが、そこも機転と、幸運が重なった事で
乗り越え生きられたという体験でした。

彼女は震災から2年が経過しても、生き残った事に対する安堵感なんてなくて
大きな悲しみとやるせなさが常にあると話してくれました。
さっきまで一緒にいた職場の同僚や、朝挨拶を交わした近所のママ友、子供の友人たち、
数多くの人達が命を落としてしまった中で
「どうしてこんな私が生き残ってしまったんだろう?って思う時もある。
 だけど自分は生かされたのだから、生きてやるんだって思ってる。
 亡くなった人の分までとか、そんなおこがましい事のためじゃない。ただ自分を生き抜こうと
 思ってるよ」と言いました。

これはもう、その場でその出来事に遭遇した当事者しか解らない事だと思いました。
彼女が現実に生きて助かった事は、私には嬉しいことです。 
しかし「嬉しい」と言ったらそれさえ不謹慎になってしまうような・・うまくいえないのですが。
生き残った事に責めを感じるというのは、私なんかでは理解しえないこと。
返す言葉が見つかりませんでした。

すでに創価から覚醒していた私ではありましたが、彼女の経験を聞いて
私が3度の命拾いを「特別な事」のように考えていた、その印象が変わりました。
私は「生かされた経験」を、特定の信仰に絡め、特別なものとして捉えてきた。
”生かされたのは御本尊様のお陰”だと言い聞かされ、自身もそう思って信じてきた。
比較対象ではないにしても、友人が体験したそれとは比べ物にならないし・彼女は信心していません。
まずそこに感じたのは「落差」でした。
信心してなくても、九死に一生を得る(しかも壮絶な環境下で)という現実の前にひれ伏したく
なったというか。 
これが、テレビ番組のドキュメンタリーなどで見る「知らない人」の体験なら、ここまで影響を受ける
事も無かったと思います。
リアルで知っている、青春時代をともにした友人の経験と言葉だから強くゆさぶられたんです。

基本的・当然のことながら、信心していても不慮の事故で死ぬ事はある・大病を患い、
長期治療の甲斐無く死んでいくことがある、それは実際見てきたし承知していました。
逆に信心が無くても・あるいは日蓮仏法ではないものを信じていても、奇跡的な命拾いをする人や、
癌が治った人が存在する事も知ってました。
解ったうえでもなお、「それとこれとは違う」と思ってきた自分が居ました。
”同じ勝利でも、御本尊様に祈念して勝ち取った勝利と・そうでない勝利は質が違うのだ”的なことが
創価ではよく語られていました。
どう違うのか? 
「正しい(創価の)信仰に裏打ちされたものか否か」ということです。
けど、信仰に裏打ちされた勝利と、そうでない勝利を比べること自体おかしいのです。
勝ちは勝ち、負けは負け。それ以上でも以下でもない。
にもかかわらず、私は自分の命拾いを「信仰に裏打ちされた体験」として特別に思ってきた。
創価の「誇大妄想」に、私もとりつかれて居た事に、このときはじめて気が付きました。
誇大妄想とは、イコール優越感です。
他とは違うんだ!こっちのほうが格上なのだ!と思いこむ(思いこまされる)こと。
これぞ創価の「選民思想」です。自分たちだけは特別なのです。

私の「御本尊様に助けられた命」という思いこみも、この選民思想によるものじゃなかったか?
絶対感の正体は、実は「優越感と選民思想」ではないか?
そう気づいた時、ショックというよりは、「うわー・・」って感じでした。

また、彼女の「自分を生き抜く」という言葉が刺さり、改めて「生きる意味」について考えました。
父の死の際にも考えたけれど、途中で曖昧になっていたテーマでもあったので。
父が亡くなったとき、突然の死の意味をいくら考えてもわかりませんでした。
マインドコントロール下にあった私はその死から「メッセージ」を読み取ろうとしたけれど
結局あれこれ思い付いても、しっくりくるものはなく、そのうち意味なんかいらないと思うように
なっていました。

このとき初めて、父の死からメッセージを読み取ろうとしたことを
無意識に「生きる意味=信仰と結び付けたことがら」を私が求めようとしていたのだと
気が付きました。 いわば大義名分です。
当時創価のマインドコントロール下にあったから、人間には絶対に「生きる意味」が必然だと
思いこまされていました。それも、全部信仰へと繋がって行く事柄で。
創価では、哲学(信仰)を持たない人間のことを見下します。
哲学の無い人生なんて糸の切れたタコと同じ、虚しい人生・果ては不幸な人生になってしまうと、
もっともらしく語ります。
そして「人生における最高の哲学をもつこと=信仰=偉大なる師匠に仕え学ぶ事=師弟不二」と
押しつけていくのです。
時間をかけて囲いの中で、生きる意味=創価に仕える事・師匠の理想を実現する事と差し向けて
いきます。

私がそれまで・40数年にわたって「生きる理由・大義名分」にしてきたことは
「御本尊様に助けられた命だから、法を広める使命がある」でした。
結婚前はバリ活で、友人への対話も積極的に行い、その大義名分を果たしたつもりになっていました。
が、結婚後は未活に転じ、こちらで出来た友人へ創価である事は隠して生活。
それでも私は、法を広める使命を忘れてしまった訳ではありませんでした。
直接創価への勧誘はしないにせよ、悩んでいる人がいたら日蓮大聖人の言葉をひいて励ましました。
それが大聖人の言葉だとは伝えず「本で読んだんだけど」みたいにぼかして伝えて。
苦し紛れでも広い意味で”大聖人の言葉を伝えている”と自分で納得しようとしていたんです。
学会活動しない事の負い目を、少しでも払拭しようとしていたんでしょう。
創価を否定しても、個人信仰を続けようとした理由も突き詰めたらそこにある。
私の生きる意味が、日蓮大聖人の仏法を語る・広めるためだと「思い込んで」いたから
それをやめてしまったら、私の生きる意味・大義名分がなくなってしまう。
だから手放すわけにはいかないと潜在意識の中で固執していたんじゃないのか?と、思い当たりました。

けれど、覚醒後の私はさほど「私の生きる目的、使命は法を広めることだ!」と意識していません。
もっと重要なテーマがあり、そちらに忙しいから。
目の前にいる自分の子供達に「我が家の幸せ、安らぎ」を感じてもらうことです。
自分が経験できなかった家族だんらん、両親揃っての休日の外出、心をこめたあたたかい食事、
習い事への付き添い、お友達づきあい、各種行事、その他もろもろ、やるべきことが山ほどあり、
日蓮大聖人の法をよそさまに広めている暇はありません。

私の生きる意味も、使命も、親や誰かに決めつけられたり・押しつけられたものでは
おかしい。
自分で決めればいい事なんだと、覚醒から一年近くしてやっと芯から解ったような次第です。
そう考えたら、不思議なほど御本尊様への絶対心(固執)がほどけていました。
どんなに疲れていても東への遥拝は、たとえ3分でも欠かさなかったけど(やらないと不安でした)
夏になる頃には、やらなくてもまったく平気になりました。

今現在の私にとっての日蓮大聖人は、歴史上の人物として気になる・関心のある存在です。
さまざまな角度から掘り下げ、日蓮大聖人ご自身のことを知りたくなりました。
末法の御本仏としてじゃなく、鎌倉時代の一僧侶としての大聖人を知りたいのです。
創価の書籍に書かれている大聖人しか知らないので、おはずかしながら。
法が正しい事の証明のためとか、そういった類の学習では無く、あくまでも知的好奇心を
満たすためのものです。

そして御本尊様は、偽であろうと何であろうとお曼荼羅だ、と捉えられるようになりました。
2年後に完成する新居へ引っ越すさい、仏壇処分と同時に脱会届と共に本部へ送る予定ですが
池田老人Xデーがそれより早ければ、前倒しでするつもりです。


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ここに書いた事はあくまでも私の経験と結論で、誰人にとっても正解になるとは思っていません。

また、信仰を全否定するものでもありません。
自己完結で他人さまに迷惑をかけず、他人をむやみに勧誘せず、押しつけもせず、
自分の心と向き合って平安が保たれる、そんな信仰ならば、どんな新興宗教だろうと既成宗教だろうと
やったらいいと思います。

ただし、創価は上記のような信仰態度では確実に「敗者」扱いされ、闘うよう仕向けられます。
だから、勧誘を受けて迷っている人が居るなら考え直してもらいたい。
現状迷いながら疲れながらも組織にいる人には、覚醒してもらいたい。
人生を宗教まがいの社会悪のためにではなく、「自分のために生きぬいて」欲しいから。
これからも私の経験をもとに、書いていきたいと思います。
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