報恩感謝(2)

休み明けこちらに戻ってからも、彼女とメールのやり取りが続きました。 

私は彼女に対し「脱会するつもりだ」とは、ひとことも言ってなかったんです。
「信心はするけど、学会活動はもうしない」って伝えたつもりでした。
だけど彼女は私に「不幸になって欲しくない」とメールをよこしてきました。
「学会、先生から離れるのは自ら不幸を選ぶのと同じです」と。

これっておかしな話だなと、覚醒していた私は違和感を覚えました。
なんで、学会活動しないと不幸になるって、決めつけるの? 
それこそ、日蓮大聖人に対しての「不信」じゃないのか?
私は、(日蓮大聖人の教え・法華経の)信仰を捨てるとはひとことも言ってないにもかかわらず、
創価の活動をしない事=不幸になるって、そんなのおかしい話だよね?と思ってました。
いつから日蓮大聖人の教えは、創価の専売特許になったのよ?wと。

創価じゃなければ日蓮大聖人の仏法を正しく行じていけないなんて、大聖人様は一言も仰ってない。
創価が勝手に「うちが本家です」と言っているようなもの。死人に口なしみたいな感覚で。
ごくシンプルで簡単なことだと思うのですが、これがなかなか理解できないのはどうしてでしょうか。
学会2,3世となると親からの洗脳教育で疑う事を禁じられ、「罰論」と「功徳」が障害となって
いるからなのか。
うまれたてのヒヨコが初めて動くものを見てそれを「親」と信じるがごとく、学会正義を疑う余地もなく
信じ込まされた結果なのかもしれません。

バリ活な彼女との対話を通し、決定的に相入れない部分がありました。それは「師弟観」。
繰り返しですが私は師弟観皆無です。
女子部で薫陶wをうけていた時代、幹部は耳にタコが出来るくらい「師匠のために」を
連呼していました。
「私たちの先生」これもよく耳にしました。
いい子に見られたく・ずるかった私は、内心全く「師匠!」などと求める心が無くても
周囲の会員に向けて”先生を尊敬申し上げてます”という、ポーズはとっていたのです。
でも、活動をするにあたって「先生のために」などという思いは、皆無でした。
俗な性格だと思いますが、対話も折伏も活動を頑張る事も、誰でもなく「自分と身近な人のため」。
勝利と称される、現実生活の充実だって、池田老人の為に達成する目標では無い。
あくまでも自分の為。 それと、この仏法が正しいと身近な(外部の)人たちに証明するため。
そこはまちがっても「創価の正しさを証明するため」ではなかったんです。
池田老人のことも、組織の事も、二の次でした。
彼女は私の事を誤解していたんでしょう。同じく池田老人を「心の師」として女子部時代を
闘った同志と、勘違いしていたんだと思います。
「先生の御心を知るには、もっと多くの指導や書籍を読むべきです。読めばわかります!」とも
メールに書いてきました。
読んだことあるよ。 女子部の頃は課題図書のように、あれを読みなさいこれを読みなさいって
打ち出しあったから。 白蓮時代は感想文や手紙も書かされたよそういえばw 
中でも女性抄は繰り返し読んでいました。
当時は「いい事が書いてあるなぁ」と思っていたけど、そのどれもが夢見る夢子の読み物だったなと
昨年、捨てる前に再読してそう思いましたw
現実問題、そんな綺麗事ばっか通らないよという事柄。究極の理想論。

彼女とのやり取りで、あまりにも先生先生うるさいので
「申し訳ないけど、私の師匠は先生ではない。
 その時点でもう、今の組織にそぐわない人間だと思いますよ?だから非活でおとなしく
 してるほうが 組織の為にもいいんですよ」と返信しました。
すると彼女は
「そんな事は無い。師匠は弟子が立ちあがるのを常に待ってくださってる。今からでも遅くないです」
とw
いやいや、待っていらねぇ、そんなもの。 つか、私は弟子じゃないんだってば。
これは、どこまでいっても平行線だろうなー・・とメールのやりとりも疲労感が増すばかりです。
組織で言う「師弟」に、何の感銘もうけず、重要と思ってない私に、さんざん師弟を説かれても
まさに馬の耳に念仏。

また、彼女が語る組織・信仰とは=池田老人である事も、間違いなく。
まず池田老人ありきで語られるので、私には全く響いて来ませんでした。
どうしてそこまで夢中になれるのか、さっぱり理解ができません。
一体、みんな池田老人に何をしてもらったというのでしょう?
女子部時代、大きい会合で運営につくとパンと牛乳をもらえる事がありました。
「池田先生からです」と幹部が紹介し、みんな大喜びでしたが、当時から私は醒めてました。
池田老人のポケットマネーな訳が無い。お金の出所は、絶対に財務(広布基金)にきまってる。
みんなのお金が回り回ってパンと牛乳に化けたっていうだけだ。 
それを「池田先生からの差し入れ」としてたって事は、財務はやっぱり「広布のため」と言いつつも
現実は池田老人への献金だったということですよね?
また、接遇任務に行ったとき、お弁当が出たのですが、上品な仕出し弁当でした。
あまりの豪華さにびっくりし、いつもこんなの食べてるんですか?と一緒になった職員に聞いたら
にっこり笑ってました。
帰りには先生からとお土産(小さい菓子折)をもらいました。
自宅に帰って母にあげたところ
「これはOO県の同志が持って来たものを、先生がわけてくださったんだね」と言いました。
某地方の銘菓だったのです。
だったら先生からっていうよりはOO県の同志のお土産がまわってきた、というのが正確だと思い。
矢野氏の本を読んだ際、全国から集まる物品をそれぞれ誰に上げるかを池田老人が決めたと書いてあり
私が貰った菓子折もそれなんだなって解りましたが、恩を売るタイプなんですね。
「忘恩の輩」とか「恩知らずは畜生以下」などの言葉からも性格が解るような・・。
だからこそ、宗門を呪詛せよというような号令をかけることもできたんでしょうね。
冷静に考えたら、私からは独裁者だとしか思えないんですが、それでも先生や学会に「恩」を
感じている多くの活動家は、何をもってしてそう言うんだろう? 

彼女に「報恩感謝の理由」を尋ねたところ長い返信が返ってきました。
逆境にあったとき先生の指導に勇気づけられた・同志が温かく受け入れ、一緒に祈念してくれた。
そんな内容でした。

一般社会でも、言葉に勇気づけられるという事はあります。うたの歌詞に励まされるって経験は
多くの人にあることでしょう。
でも、じゃあその歌をうたっている人が「私に報いなさい」なんて絶対言いませんよね。
中にはいるかもしれないけど、私は少なくとも聞いたことが無いです。
歌手(シンガーソングライター)の多くは歌わずに居られない、という方が殆どだと思います。
誰かに歌わされている訳ではなく、自分の内側からわきあがるものを表現している。
それが結果的に人気やセールスにつながった時、多くの歌手は「ありがとう」と聞き手に感謝を
表します。
報いなさい、こう仕向ける時点で義務感をおぼえるのは私だけでしょうか?
なんにつけ押しつけがましいのです。
「私がやったんです、全て私です、私一人でやってきたんです!」机をばしばし叩きながら吠える
池田老人の姿を私は忘れる事ができません。
心の奥底からわき上がる慈悲で、誰かを救わずにはいられないという、いてもたってもいられない
思いで日蓮仏法を広めてきたという境智の人であれば、こんな言葉がでてくると思えません。

彼女にそのことを尋ねたところで返信が途切れました。
彼女の御身内が検査入院~再入院され、看病で多忙との事で。
当時の私は遥拝ごん行唱題を続けていたので、彼女の御身内の病気平癒を祈念していました。
こちらからは連絡せず、何かあれば実家の母から情報がくるだろうと思っていたら
GW明けに、身内の方が闘病の末に亡くなられた事を知りました。
母が葬儀に行ったとメールをくれてわかったのですが、暫くは落ち着かないだろうと思い
四十九日法要が終わったタイミングでメールをしました。
このたびはご愁傷さまでした、一般的儀礼あいさつ文を。
彼女からの返信はなく、選挙前で多忙なんだろうなと思い、気にも留めていませんでした。
後日(選挙後)、母からお叱りの電話がかかってきました。
彼女は私とのメール対話を幹部に相談したらしいのです。
幹部は「相手にしたらダメ」と、メールのやり取り自体をやめるように言ったとのこと。
それでずっと返事を送って無いけれど、まだ学会組織についてるんですか?(脱会してませんか)と
心配して母に尋ねてきたというのです。
なんで私、いつもおかーさんに言いつけられてしまうんだろう?w
最近の母は「あなたと話してると、私の信心がおかしくなるから、もういいわ」と会話を
遮る事がありますw
みんなどこかで「自分が信じ正義としてきたものは、もしかしておかしいのか?」と思いながらも
ハッキリ確かめたり・覚醒することが怖いのかもしれません。
また幹部の対応も、以前と変わったなとハッキリと感じました。
池田老人が表に出ていた当時は、反対因子には徹底して対話(言い負かす)を推奨していたのに。
もうそういった時流じゃなくなったという事は、綻びを認めざるを得なくなったから
「逃げるが勝ち」で思考停止へ持って行ってるとしか、私には思えないです。

創価の報恩感謝が厄介なのは、感謝するだけじゃすまないってところ。
「ありがとう」を言うだけじゃだめなのです。感謝で終わらせない。
組織が重要視してるのはむしろ「報恩」のほうです。
先生のお陰、組織のお陰で、自分はここまで立派になれた・健康になった・成長できた。
それを「返せ」って言う・・w
返さない人の事を「忘恩の輩」って貶すんだよね・・w

報恩感謝って、ぱっと聞くとイイ言葉だけど、組織においては物凄く、いやらしくあさましい。
必ず見返りを求めるのです。 無償の愛なんてものはそこにありません。
師匠が弟子に、感謝しなよ、さぁ何か(金・無理なら労働力・もしくは票)よこせなんて、
普通言うか?!
少なくとも大聖人様はそのような主義では絶対になかったと思います。
まさに主師親として、弟子たちを我が子をいつくしむように包み込んで、成長・繁栄を手放しで
喜んで下さったでしょう。それだけで、いいじゃないかって思います。

また「報恩(感謝)しないと地獄に落ちる」的刷り込みも、マインドコントロールの一つの手法。
感謝の思いで組織に報いることこ=師弟の道として教え込まれているのです。
目は死んでても「組織に感謝」っていう、バリ活の多い事。
本当にすごいシステムだなーと、感心してしまいます。でも絶対誉められるもんではないですねw

主師親とは、見返りを求めず・大慈悲で・後進の幸せを願い尽くす存在をいうのではないでしょうか?
「現代では池田先生が主師親の三徳を備える存在」だなんていう、トンデモ説もあるみたいですが。
(大白蓮華 昭和41年発行の号にそのような記載があるそうです)

「報恩感謝」無知な私は、すっかりこれが日蓮もしくは創価の言葉と思いこんでいましたが
調べたところ、親鸞上人の言葉だそうですね。
そしてこんなことが書いてありました。
”厳密には恩に報いるのではなく、受けた恩徳に対して如何ともしがたい感謝の気持ちが芽生えて
 どうしても報いたくなることを示す。”
そう仕向けられたり、恩を貰ったんだから返すのが当然・恩を忘れるのは畜生以下なんて言われる
筋合いの物では無いようです。

覚醒手前の多くの人の悩みはこの「忘恩」ではないかと思います。
組織への御恩返しが、なぜ学会活動や新聞啓蒙や財務や選挙運動でないとダメなのか考えてください。
そこまでしなければならないほどの「恩」を創価や池田老人から受けたのでしょうか?
あなたが今日を生きていられるのは、本当に創価や池田老人のおかげなんでしょうか?
家族や友人や会社(仕事)の支えは二の次なのでしょうか。

あなたの「報恩感謝」の思いは、”どうしても報いたくなる思い”からのものですか?
ありがとうの言葉では済まない恩について、人生の大切なものをさまざま引き換えにしても
報いなければならない恩について、今一度考えてみて欲しいです。
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