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宿業について考えた(1)

創価の教義で「すべての因は自分にある」とよく語られます。
いわゆる宿業というものですが、過去世の罪業が現世に報いとなって出てくるという仏教の考え。
”どうして私がこんな目にあわなきゃいけないの?”と思えるような不幸な・不条理な出来事に
対し、それが「過去世からの宿業」であり「自分持ち」だと聞かされた時、一般社会人の方々は
すぐに納得できるでしょうか?
私は学会3世でうまれたときから学会員なので、この考え方が実に自然なものだったんです。
多くの創価脳の方々も同じくだと思います。

理由のわからない、理不尽な苦しみに「宿業」という名前と理由をつければ一瞬楽になります。
なんでこんな目にあうのか? どうして自分がこんな苦しみと向き合わねばならないのか?
そんな中々答えの出ないことを、ぐるぐる長時間考えるよりも、理由が解った方が
気は楽でしょう。
そして創価では「宿業」を打破するため・宿命を転換するために、学会活動に励め・他人を
折伏せよ(創価入会に導け)と、けしかけていくわけです。

コメント欄の御返事に書かせていただいた内容ですが、
世の中には信心などなくても、ふつうに幸福に平穏に暮らしていらっしゃる方々がいて、どうして?
と不思議に思った事が女子部時代にありました。
そのことを幹部のおばに尋ねたところ「私たちは業が深いから」という答えが返ってきました。
私たち学会員は、みーんな宿業が深いんだ。だから法華経で宿命転換していくんだよ、と。
そして信心がなくても・学会員でなくても幸せそうに見える人たちだって、いつ宿業の嵐が吹き荒れるか
わかったものではない。幸福はずっと続くとは限らないんだと教わりました。
無知で若かった私は「そうなのか!」と納得してしまいました。
私も女子部のみんなも、業が深いんだね!とw

けれど40代を過ぎた今、覚醒した頭で振り返ると
こんな子供騙しで納得させられていたなんてと、情けない限りです・・。

日蓮大聖人は過去・現在・未来という「三世の生命」を説いています。
ヒトの生命というものは「今生の寿命期間」だけに見えているけど実は永遠である。
ヒトには前世あり・今世あり・そしてこの肉体+寿命が尽きたのち、来世(生まれ変わり)が
あるという考え方。
当然のことながら前世と未来世を見ることは常人には不可能です。
その、見えないものを信じた上でないと「宿業」というものも、中々信じがたい物だと思います。
繰り返しですが私は生まれながらにして叩き込まれてきたので、この法則はごく当たり前のもので
東から太陽が昇り西へ沈むのと同じく、理由なんてなく「そういうものだ」と信じていました。

女子部の頃、面接の席上だったと思いますが幹部から
「自身の一凶はなんだと思う?一人ずつ言ってみなさい」と質問がありました。
一凶とは、最大の悪とでも訳せば良いでしょうか。 
「自身の一凶」はイコール自覚している最大の宿業・いのちの傾向性という事です。
私はいつもこの「自身の一凶」が何なのかわかりませんでした。
いや、別に自分が完璧な人間だと思っているわけじゃないんですよw
悪いところは山ほどあるけど、ありすぎてどれが一凶なのかわからない。
もう、自分の存在自体が「一凶」なんじゃないかと真剣に考えた事もあるくらいで。
わかりませんと答えると「その迷いが一凶なんでしょう。お題目を唱え抜く中で自分の一凶が
何であるかを追求していきなさい」と幹部から言われました。
このやりとりを最近思い出し、ムカつきましたw
なんでそんなに上から目線か?という事もありますが、本人の内面の最大悪を聞きだして
一体どうするつもりだったのかと。
他の人がなんと答えて、幹部がそれに対し何と言ったのか全然思い出せないのですが。
なんというか、この時代(1990年代)の幹部からの個人指導って「総括」みたいでした。
精神的リンチです。
「彼氏と別れろ」って数時間にわたって詰めるのもそれだったし、まさに。
今はさすがにそんな事してないと思いますけどね。
このように、自分より年上の・組織の中で「幹部」とされている自分より立場が上の人間に
暗に「あなた自身が悪い」「あなたの中の最大悪を追及せよ」と責められる。
学会育ちの女子部はここで「何言ってんだ!自分がモテないからって後輩に八つ当たりすんな!」
とは考えません。 
「ああ、先輩のおっしゃる通りだ。私が全部悪いんだ」と思うのです。
だけど大好きな彼と別れられない、どうしよう、弱い自分が情けないと泣くのです。
又は、自分の一凶がわからないのは、私の信心が足りないからだと、自責するのです。
そうして弱い心を・足りない信心を埋めるべく、活動に打ち込んで行く。
なんとも上手く出来たサイクルだったんだと、ほとほと感心します。
結局、みんな「自我」を奪われていたんです。
自分は「宿業」を背負っている、という「負い目」が自我を塞ぐ。
そこにつけこまれ・組織に利用されていたと言っても過言ではないと思います。

「全ての原因(みなもと)は自分にある」
この考え方が100%悪いとは言いませんが、創価の場合は組織に利するよう使われていた。
日常的におこる些細なトラブル・アクシデントに対しても「お題目が上がって無かったからだ」
「会合を休んだからだ」「折伏ができてない・新聞啓蒙ができてないからだ」などと、宗教行為や
学会活動に絡めて自分を責める。これが常態化するとどうなるか。
真面目な活動家の方に多いのは、会合&活動を休むという「負い目」で鬱が加速する事でしょう。
会合に出られないのは・活動が出来ないのは「弱い自分のせい」だと考えてしまうのです。
実際はそうじゃないのに。 
組織動向・幹部の言動、その他もろもろに矛盾や疑問を感じたことが発端で活動を拒否しただけ。
けれどまじめ過ぎる人は、それを「自分がの心が弱いから・信心が足りない・自分が悪いからだ」と
思ってしまう。
それでますます自分を追い込む。 本当はそうじゃないのに。
悪いのは悩める学会員ではない。 悪いのは組織そのもの。
ここにハッキリ気が付くまでに遠まわりされる方も、かなり沢山いらっしゃると思います。
その過程で心身を病む方も多いでしょう。
なぜに、このシンプルな結論にショートカットでたどりつけないのか。
それは基礎として叩き込まれる「宿業」という概念ではないかと私は思ったのです。
罰論が怖いタイプよりも、この「宿業」ベースの自縄自縛に陥る人が多いのではないかと
皆さんのコメントを読んでいて感じた次第です。

鬱病は「自責の念が強い」ことが症状のひとつとしてあげられるそうですね。
私は、子供時代から自責の念が強すぎました。 後悔ばかりしていた。自分のとる行動すべてが
裏目に出ている様な気がして仕方が無かった。
成人以降、友人と会った後、心から「楽しかった、いい日だった」と思えた事が無かったです。
あんなこと言ってしまったどうしよう、気にしてないかな?こういうところ、もっと気を使えばよかった
etc・・・。
上記したことがら、覚醒前までの常でした。
学会活動を全部放棄して、一般人のふりをしてママ友や女友達と付き合っている時もその状態。
会っている時はとても楽しいんだけど、一人になってから考え込んでしまうんです。
けど、友人は変わらず連絡をくれるし、離れて行かれないから大丈夫だったのかな、と安心する。
そんな繰り返しでした。
覚醒して一年が経過し、最近はっとしたんです。
そういえば、このごろ人に会ったあとの自分を責めてないわ、と。
シンプルに楽しかった、有意義だった、と思えているようで
無意識でしたがランチや自分の習い事に行った日は夜、家事の時に鼻歌をうたっているらしいです
(子供が教えてくれました)。
もう、びっくりでした。 我がことながら、えっ、すごいなぁと思いました。
普通の人が聞いたら「なにいってんの?」かもしれませんがw

これは飛躍しすぎかもしれないけど、まじめな学会員・教義が絶対正しい!と信じて疑わない
学会員の大半が、自覚のない「うつ病」なんじゃないでしょうか?
自分では普通だと思ってるけど、身体に不定愁訴がある・・そういった状態を「仮面うつ病」と
呼ぶそうです。
身体症状によって精神症状がマスク(仮面)されているという意味で、慢性的な身体の不調はあるけれど
人と会ったり・出かけたりすること(メンタル面)は全く億劫でないという状態。
うちの母なんてまさにこれだと思いました。 精神的には明るくて、活動こそわが人生!と張り切って
いますが、不定愁訴は止まず。
大病こそしていませんが、ずっと通院していますし薬を手放せない暮らしです。
70代の今に始まった事では無く、私が小学生くらいの頃からなので30年以上。
信心してるから私は元気なの!と母はいうけれど、単なる「から元気」なんじゃ?と思います。
私も女子部バリ活時代、よく立ちくらみで失神したり、ダウンしていました。
(ちなみに低血圧ではありません)
思い当たる節もなく、原因がわからなかったのですが、結婚後は全くその症状が出ていないのです。
調べたところ立ちくらみの原因も自律神経の乱れで、ストレスが関係しているそうです。
やはり、私も仮面うつ病だったのかもしれないなと思います。

最近思い出した事ですが、覚醒前にたびたび、色んな人(外部)から
「そんなに自分を責めないで・責めなくていいのに」と言われた事がありました。
交際当時の主人からも言われた事があります。
それぞれ何に対してだったのか記憶が無いのですが、多分ものすごく些細な事だったんでしょう。
些細な事でも全部「自分が悪い」とネガティブになり、悲壮な顔を見せたのではないかと。
そんな自分を振り返り、可哀相になります。

また、幼いころから自責ばかりしていなければ、もっと自分を肯定的に見てあげていれば
違った生き方もあったのではないか・・と考えてしまいます。
自己の無限の可能性をひらきゆく妙法~云々、会合でしょちゅう聞かされ、そのとおりだ!なんて
頷いてましたが、本当に「自我に自信と誇り」を持って生きてた人がどれだけ居たかと思い返すと、
全く思いだせない。
「創価学会員である自身に自信と誇り(という勘違い)」をもった幹部には一杯会ったけどw
創価をとったらどうなのさ?って人ばかりでした。
私の人生は、まさに産後デビューという感じなのですがw ママ友世界の方が自信と誇りを持って
生きている人に出会う率が高かったです。
そういった人達に共通しているのは親から大事に育てられてきた・沢山の「機会」を与えられて
育って来た・また自分で自分の道を選んできた、という点です。
一般人と自分を比べ落胆の連続ですが、私はどうやら母親主導の創価の世界で
「自我と自信を殺がれる生き方」を叩き込まれてきたんだなーと思い当たりました。
信仰が無ければ、信仰を柱にしなければ一人で立てないよう骨抜きにされてきた。
信仰を持つ「優越感・特別感」は、それがなくなったら命取りだから執着をもち「絶対感」に育つ。
そりゃ、一般世間・社会が生き難いわけだわ! と、納得してしまいます。
そして未来ある子供達をそんな風にしてしまってはいけないと強く危惧するのです。

幸せになるための信仰であるはずなのに。
宿業という名前の、不幸の原因を解決するための信仰であるはずなのに。
自分が悪いと、自分ばかりを責め、無限ループに陥って行く。もがき続ける。
そんな生き方のどこが「自受法楽」になるのか。私にはさっぱりわかりません。

そして多くの真面目な・私は僕は業が深いんだと悩める会員の皆さん、もう自分を責めるのは
やめましょう。
何も自分を責めなくていいのです。
自分を解放してあげて下さい。 
自縄自縛の言葉通り、その縄をほどくのもあなた自身です。

(2)に続きます。
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