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宿業について考えた(2)

己の不幸の原因が、前世におかした罪業によるもの=「宿業」であるという考え方を
ベースにした教えが創価のお家芸「宿命転換」「人間革命」です。

この「宿命」「宿業」を考えるにあたり、必ずといってよいほど出てくる教えがもうひとつ
あります。
それが「願兼於業(がんけんおごう)」 天台宗の妙楽大師の言葉です。
創価の方なら皆さん知っている言葉だと思うので詳細は略します(外部の方は恐縮ですが
ぐぐってみてください)。
この「願兼於業」という言葉、私も今回ブログに書くにあたって初めてちゃんと調べました。
それ以前は創価の幹部が指導で語った意味が正解だと思いこんでいました。
しかし、ちゃんと調べてよくよく咀嚼してみると、妙楽大師や・その教えを御書のなかで引いて
自身の立場の比喩とした日蓮大聖人の思想と・創価で語られる内容はズレがあると
感じた次第です。

私が女子部時代に聞いた「願兼於業」について。
ある部員さんが、自身の家庭環境に悩んでいた。暴力をふるう無職の父親。
貧困で、いつも争いが絶えない家庭内。
なんで信心をしているのに、我が家はこんな状態なのか。なぜこんな家庭に私はうまれて
きたのだろう?と嘆く部員さん。
その部員に対して「あなたが置かれているその環境は、あなた自身が願って生まれてきたものだ。
信心をするために、お父さんを信心によって宿命転換させてあげるために、あなたは生まれてきた。
お父さんを救い、あなた自身も仏となる。
あなたにはお父さんを変える使命があるんですよ」と。
だから信心に励みなさい、学会活動にまい進しなさいと指導は続きます。
子供は親を選べない、なんて言葉がありますが、願兼於業の考えにおいてはそうじゃない。
どんな残念な親のもとであっても・不遇な環境下であっても、子供自身が「そこに生まれたい」と
願い出てきた、生まれながらにして背負った”負の宿命”であるというのです。
しかも、本人が前世で善行を積んで、清浄な来世に生まれる予定である所を、濁世にいる親を救うため
わざわざ清浄な来世への切符を捨ててでも濁世に生まれおちるのが法華経に説かれる「願兼於業」です。
なんとも自虐的でドMな世界観なのですが(他に表現が浮かびませんでした)
私はこの話を創価の会合で聞いた時、目からウロコでした。
私自身も「なんでこんな家庭にうまれてきたのだろう?」この指導を聞くまでずっと考えていました。
創価の信心に反対で、敵対心むき出しだった父ときょうだい。 母や私に対し、風当たりがきつかった。
家庭はいつもぎくしゃくで、5人で仲良く笑顔で出かけたり・食卓を囲んだ記憶がない。
学会活動絡みのことでは容赦なく文句を言われ、選挙の時期には不機嫌になり、罵詈雑言を
父から浴びせられる事もあった。
女子部の会合で帰宅が遅くなると怒られた。非常識だ、夜中にほっつきあるいて、事故に遭いたいのか?
今はそれが心配からくる言葉だったと解りますが、当時の私からすれば「苦言」でしかなく。
家族や友人の幸せを願いながら・一家和楽を目指して頑張っている事を理解されず悲しかった。
常に不機嫌な父の顔色を伺って暮らしていた私は、母も私もきっと業が深いのだ・
そしてこんなに身近に法華経を信仰している家族が居ながらも目覚めない父は、更に業が深いのだと
思いこんでいました。

ところが、こんな信心反対の父親の下にうまれてきたのは「願兼於業」。
私が願ってこの父親を選んでうまれてきたのだ、という考え方に驚き・また納得してしまったのです。
これを聞いて以降の私は、父がどんなに不機嫌になろうとも怒ろうとも
「この父親を選んで生まれたのは私自身なのだ、恨んではいけない」と自分に言い聞かせていました。
今思えば、馬鹿だったなと思います。
父が不機嫌だったのは、私が非常識な行動をとっていたからなだけであって。創価の学会活動という
不条理・不合理きわまりない活動に執心している事に対するやるせなさと怒りだったんでしょう。
一時期、女子部の活動を休んでいた数年間の父は至って普通に私に接してくれていました。
結局は学会活動をしていることが父に無用のストレスを与え、怒りっぽくなっていただけなのです。
それを「魔の所業」だの「私自身が背負った宿業」だの思わされ、組織活動から離れないように
仕向けられていた。そのことに全然気づかなかったし、疑問にも思わなかった。
まったくの馬鹿でした。

よく、家族反対のなかで信心をしている人にはこんな指導がなされました
「反対することであなたを信心強情にしてくれている。(反対する)家族が信心をさせてくれてるんだよ」と。
こんなのトンデモだと今はわかります。
これが組織隷属への呪文で、呪縛手段だということに中々気づけないのはどうしてなんでしょうか。
私が思うに、やはり最初に「宿業」という負の遺産(?)を背負って生まれてきているのだという
考えをベースにしているせいじゃないかと思うのです。
いわば宿業という見えないものを「脅し」として使っている。
法華経にそう書いてあるにしても、組織隷属のためのツールになっているんです、完全に。
先に脅しありきで来られてしまうので、抗いようが無い。
その脅しが目に見えない・得体のしれない物(宿業)であるだけに、怖いと感じる。
輪廻転生を全く信じない人であれば、冷静に考え、こんな思想自体を排除できるのでしょうが
見えない世界だからこその脅威を感じる人の方が多い様な気がします。
霊感商法もこのテのもので、霊能力があるとされる人物から「悪霊がとりついている」なんて
言われたら怖くなり・思い当たる節もあれば、霊能者の言いなりになってしまうんでしょう。

思いだしましたが、私が出会った福運貯金を連呼する婦人部長も
「宿業がどんな形で出てくるかなんて誰にもわからない・あなたがなんともなくても
 お子さんやご主人や、孫の代で出たら後悔しない?」と脅しをかけてきたことがありましたっけ。
これも今思うと、ものすごくおかしい。
なんで私自身の宿業が家族に出るのか?宿業って自分もちじゃないんだっけ。
願兼於業の法則でゆけば、悪世に堕ちた私を救わんがために子供が願って私の下に生まれてくるって話?
孫は私の子供が悪世に堕ちたのを見て、見捨てるわけにいかないから願ってまた生まれてくるって話?
なんなのそのエンドレスw
全てが繋がっている、と言いたいのかもしれないけれど、これもまた都合のいい脅しの手段のような
気がしてならないのです。
たとえば私や子供がバリ活で自身になんともなくても孫の代にそれが出たら、誰を責めるのか?
自分たちの過去世を責めるの? それとも孫自身の過去世の宿業?どっちなのよ?!
もういい加減にしろよって気にもなる。
学会活動に励めば三世に渡って護られる、孫末代まで・・なんて耳当たりのいい言葉の裏を返すと
「活動をおろそかにした場合は三世にわたって祟られる。孫末代まで」になる。
そんなハイリスクを背負ってまで、学会に帰依する必要ないじゃん! 今の私はそう思います。

かといって、私が全く前世を信じない訳でもなく、現在過去未来を否定もしません。
仏法は道理、現在の結果は過去の因を見れば明らか。それを否定はしません。
ただ、宿業があったにせよ・それが現世に悪い形で出てきて不遇だったり不幸に見舞われたにせよ
それを「学会活動で乗り越える」なんて無用というか、ナンセンスだし意味もないと言いたい。
新聞推進や選挙活動や財務や池田老人を思いながら題目を上げたり他人を入会に導くなどの活動で
不遇や不幸を転換できるわけがない。
もっと現実を見るべきだと私は考えます。
信仰はあくまでも心の問題で、現実的な手立てや行動の一助となるものであるべき。
決して手段ではないはずなのです。
そこを「宿業」「宿命転換」などという言葉をつかってもっともらしく、組織に利する行動へと
向かわせようとする、そんなのどう考えたって詐欺じゃないでしょうか。
創価のサイトを見てもそこにはひとつも「新聞推進で宿命転換」「真心の財務で経済革命」
「党と候補者の名前を語って宿命転換」とは書いてありません。
あくまでも御書を学び、仏法を語り、お題目を上げる活動が中心の信仰のように表向きは
なっています。だけど実際の現場は前述した事柄が中心となっている。
なんでおおっぴらに書かないんでしょうね? 本当のことなのに。
実際、組織の柱とも言える・しかも命題となっている活動なのにw

今回、願兼於業についてもっと書きたかったのですがまとまりきらず・長文になりそうなので
別の記事で改めて書こうと思います。
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