過去への執着ー時間軸の逆転

「とある出来事」を通じ、強いネガティブな感情に苛まれた私でしたが
その間、頭の中を占領していたのが「過去(の出来事)に原因を探すこと」
(過去への執着)でした。

義母さんがどうして嵌められてしまったのか?
何のきっかけ?どうしてあれだけの金額に膨れ上がってしまったのか?
近隣に住むきょうだいの誰か一人でも、異変に気付けなかったのはどうして?
何故に、最後まで誰にも相談しなかったのか?
(ちなみに、家族が問いただしても詳しく話さないため、真相は闇の中です)
これ以外にも、たくさんの疑問がありました(次回書きます)。

すべての疑問は私が考えたところで、解る訳のないことばかりです。
なので「自分の知っている事柄(過去)から妄想を膨らませる」 結局やっているのはそんな事。
その出来事をなんとかして「理解」したい、そのためにストーリーを知りたい(作りたい?)、
こんな動機があったかと思います。

創価脳は、ネガティブな出来事があれば、信仰の中身・姿勢に原因を見つけ出そうとする。
また、過去世からの「宿業」という、誰も見ることのできないものを原因にすることもありました。
「三世(永遠の生命)」など、過去→現在→未来・・という時間軸の教えを柱とし、
日蓮御書の一節(「開目抄」)をひいて
”過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば
 其の現在の因を見よ” を引用し、過去と未来の為にいま、信心(学会活動)に励んどけ!と
子供時代から、日常的に叩き込まれたものでした。
(余談:この引用部分、日蓮自身が紡いだ言葉ではなくて、教主釈尊の教説「因果教」なんですね・・
 てっきり「日蓮説」だと思っていました!←こんなことが多すぎるorz 切文教学の弊害かと)
そして「以前から真面目にコツコツ信心(活動)やってんのに、ネガティブな出来事が起きた」
という、一見整合性の取れないパターンに遭遇した場合に
(誰も見たことのない)「過去世の宿業」または「家族の誰かの宿業」を持ちだすのも
組織内の定説であったと思います。
幹部指導で必ず「宿命転換の時来たりだよ!」と云われるのも、上記所以でしょう。

「いま」があるのは、「過去」があるから。
「過去」が「いま」を作っている、という認識。
だからこそ過去に原因を探る・・これは至極当たり前で、創価脳でなくとも、一般人の多くも
やっていることでしょう。
過去の経験則から物事を分析することは、自然な行いとして定着していると思います。

「とある出来事」にあうずっと以前から、覚醒後に私が漠然と悩んでいたのは
「過去への囚われ」でした。
「信仰の内容」やら「過去世」という(組織に都合のいい、嘘の)正解に求めなくなった分、
覚醒後は堂々巡りが増えたのです。
現実的な手立てをもって、問題が解決したにしても、その原因を過去に探し・分析したくなる。
「過去」「おきてしまったこと」そして「過去の出来事の意味」への執着を手放すことが難しく。
ネガティブと思われる出来事に対して、それは顕著でした。
なかなか気持ちを切り替える事が出来ず、いつまでも引っ張られるのです。
「あの時あんなことが起こった・・また、同じ事がおこるんじゃないだろうか?」と不安になったり。
「あの時あんな風にしてしまったけど・・他に方法があったのではないか?」
「あの時あの人にこんな事いわれた・されたけど、あれって何だったんだろう?」
「あの時ああしたから、今こうなってしまったんじゃないだろうか?」
「あの時あんなこと、言わなきゃよかった・やらなきゃよかった!あのせいでこうなったんじゃ?」
「あの時こうしておけば、こうはならなかったのかもしれないorどうなってただろうか?」
たいていは「後悔」。 そして何気なく流してしまった事に、重大な意味が隠されていたのでは?
という置き去りにした原因探し。
それで腑に落ちるときもあれば、何の答らしきものも見つからないときもある。
勿論、ポジティブな出来事に対しても
「過去のあれが今こうなってよかったんだ!」「過去こうしておいたから、結果出た!」など、
過去と結び付けて今を納得するのが大好きwでした。
まったく後ろばっかり振り返って見てる・うしろ向きの人生だったのです。
(↑ただ、第三次覚醒前はそんな自覚、ありませんでしたw これは現在の評価です)

「とある出来事」に対して過去をいくら掘り返しても、主人公は「私」じゃないので
(当事者は義母さんですから) 当然答えなど出ず、疑問と疑惑が深まるばかりでした。
そうするとますます気分も滅入りますし、いい事なんかひとつもないw
ここでもある日突然、苦しさMAXになり、ふと
「どうして私は、過去に囚われてばかりいるのだろう?いつまでも考えてしまうのだろう?」
と疑問が浮かんだのです。

だって”過去”に”今起きている事”の原因があるって教わったからじゃん!

それ、創価の教えだけどねw
いやいや、世間でも因果律は定説じゃん・・いや、待てよ?となり。
思い付きで検索してみたのですが(キーワードは失念)これまで目にした事のなかった
時間軸の新説を発見し、驚きました。
認知科学者である苫米地英人さんの「時間は未来から過去へ流れる」というものです。
wikiの「時間」カテゴリにその説が掲載されていたので、リンクを貼ろうと思っていたのですが
先ほど確認したら消えていました(残念)。 
某サイトから一部抜粋しますが、

現在は一瞬で過去になります。
今、現在だったことはちょっと前の未来です。
今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になるのです。
当たり前のことですよね。現在の行為が過去になるのです。
つまり現在の結果が過去です。
あなたのいる位置が現在とすると、あなたに向かって未来がどんどんとやってきては、
過去へ消えていっているわけです。


このサイトの一番後半部「二度とやってこない過去と未来には何の関係もない。」にも、
少し説明がありますので参考にご一読ください。

この説を読んで、目からウロコでした。こんな考え方があったなんて!!と。
ただ自分の中で「感覚」として落とし込むには、少し時間がかかりました。
やはり、50年近くも固く握りしめてきた概念・思考のくせはそう簡単に逆転できず・・。
どうしてもイメージとしては「これをやったから(過去)~こうなった(結果・現在・未来)」が
スタンダードで。
過去に因(理由)があるのだ・・とのベースが固定常識化しすぎており・・頭が固いんでしょうねorz
或る時たまたま、しっくりきた事があって、それはとある公演を見に行った時でしたが
数か月前にチケットを買って(過去)→見に行った(現在・未来)ところ、出演者事情で
公演が延期、見る事が出来なかったのです。
”あー、こういうことか・・”と。
チケットを買った時点で、中止になる可能性なんてほぼ考えません、通常は。
「見る事が出来て当然」という結果を求めてチケットを買いました。
でも、中止になった。
この(未来の)公演が中止になる因を、(過去に)私や出演者側が何か仕込んだわけじゃない。
たまたま、その当日にそうなった。 これは未来が流れてきたんだ、と非常に合点がいったのです。
リンクを貼った苫米地さんの解説の中に「川上から流れてくるボールの色」の話がありますが
これと同じ事だ、と理解ができました。
赤いボールの次に青いボールが来る絶対の法則性は、ない。結果は偶々。
”過去に意味は無い・結果に過去なにしたかは関係ない”ってこういう事か!と。
いったんこれが感覚として解ってくると、全部辻褄が合うようになりました。
予測のできるアクシデントも、全くないとは言いませんが、出来ないアクシデントのほうが
世の中多いのではないでしょうか。 
これだけテクノロジーが発達しても、巨大地震が正確に予知できないのと同じです。
なぜ東日本大震災や、九州の震災があの日に起きたのか?を、過去に遡ったところで
近似するデータが出てきたにしても、確たる理由や原因づけにはなりません。
これを創価脳だと「いやそうじゃない、一念三千・因果具時じゃ!」とか持ち出すんでしょうがw
そんなこと言ってるから現実を変えられないのだ、という事をもう知った方がいいと思います・・。
そして、創価ロジックを抜けてなお、私が「過去」にこだわっていた、その奥底にあったものも
この昔叩き込まれた教学「一念三千・因果具時」なかでも「究極の因は過去世にある」との
刷り込みだったと行き当たりました。
ただ、「因果具時」は、未来を同時に含んでの事なので「未来から過去へ」という
時間の流れの解釈があてはまるのです。要は、捉え方・解釈の違いでしょう。
宗教依存を強める目的があったか・なかったかは知りませんが、過去世の変換(宿命転換)や・
過去現在の罪障の消滅を教義に取り入れ・より強く「過去」にフォーカスさせたのは
一体誰なのか・・これはなかなか興味深いテーマかと思います・・。
私は掘り下げる暇がないので、どなたか調べてくださいw(←他力)。

以前の私の時間軸(過去から未来へ時間が流れている)イメージは、
過去という時間に背中を押されながらずんずんと未来へ進んでいる・・というもの。 
振り返るといつも、そこには過去があって、そっちばかり見てる、後ろ向きの人生でした。
後ろばかり見ていても、過去がちゃんと背中を押してくれるので前に進んではいるのです。
ただ、「いま」、後ろばかり見ているが故、「前(未来)」の展開を自分でどう描くか?という
事に対しては、かなり意識が低かったといえます。
思いあたった事ですが、私が一切の創価流日蓮教義を否定して以降、あらゆる先の出来事を
「楽観視」しなくなっていました。
それまで握っていた選民思想の拠り所が打ち砕かれ、根拠が無くなったと思った故
(そもそも、根拠なんか不要だったという事を心理を学んで知るのですが、それは後日)
必要以上に用心深く・楽観主義を持たないよう・無意識に現実主義~やや悲観主義寄りに
なっていたのです。 
それが更に、過去にばかり目を向ける因になっていたのかもなと。皮肉なことですがw

しかし、「時間は未来から過去に流れている」という説を知ると。
私のなかで浮かんだイメージは、時間が・未来が前方から突風のように吹いてくるイメージ。
すると、前を見ます。何が飛んでくるかわからないから、しっかり前を向かなければ。
後ろばっかり見てたら、いいものも・避けるべきものも見逃し、いいものをキャッチできず・
悪いものにぶつかって倒れてケガするかもしれないw
これはもう、後ろなんて見ている場合ではない。絶対前向いとかなきゃダメだな!と。

先ほどリンクを貼ったサイトから一部抜粋しますが
未来に何が起きるかで、今何が起きるかということがあるから、過去に何したかは、一切関係ない。
時間は未来から過去に流れる。すべて未来の因果が現在を作る。
過去の因果は過去に流れていくだけで、なんの関係もない。

この苫米地氏の言葉が、すっかり腑に落ちて。
だって、これまでいくら過去に囚われて原因・犯人探しをしたところで、100%正解なんて無かった。
100%納得できる答えなんかなかった。
創価脳の頃は、100%納得できる原因がないときは(見たことのない)「過去世の宿業」ってことに
しておいた。 
得体の知れない理由が解らないものに対して、名前と理由が付けば
ひとまず気が楽になるから。
しかし、これが実は「過去世なる、実態のない事柄による自分責め」であったと
今なら理解できますし、これが創価(宗教)依存の鎖になっているんだと解ると、もう・・。
そんな、奴隷みたいな生き方やめようよ~。と、言いたいのです。
殊に、自分も誰もみたことない「過去世」の罪障消滅なんて、無意味だってことです。
現世の過ちについては、自省すべきは自省し、潔く認め謝罪をし、区切りをつける。
その過ちを「未来がうまくいかない糧」として、えんえんと握りしめていく必要はありません、
それは足枷になるだけだから。
向かい風でやってくる未来のチャンスを、躊躇で受け取れなくなることだってあるからです。
(ただ、心理を学んでいくと、「未来がうまくいかない糧」を自分が握りしめておきたくて、
手放したくなくて、やってる場合もある・・と出てきます。 
”うまくいかないほうが、自分にとって都合がいい”という嘘のような本当の話ですw
このテーマもまた、別の機会に書きたいと思います)

また、別の角度で見れば「これだけやったのに結果が出ない」も、同じかと思います。
努力(過去からの積み重ね)は必ず報われる・・とは、残念ながら限らない場合もある。
別の何かだったらすんなりうまくいくのに・たまたまそこに拘ってるから結果がでないだけ、
そんなことだって人生にはあります。
また、結果が出ない・・でも自分にはこの道しかないんだ!と、結果なんて関係なく
自分の情熱と意志のみで継続したら、ある日とつぜん開花・思いがけない結果がやってくる、
なんてこともあります。
そう考えるとやはりある程度、結果(未来)というものは決まっていて・その結果が
良くてもダメであっても、その人物にとっての「最適」が用意されている・・と考えても
いいのかもしれません。
何が起きても、受け入れる。抗わない・問題化もしない。最適なのだから。
(・・と、これはエックハルト・トール氏の「ニュー・アース」に絡んだ話なのでまた後日)
このバイオリズム的な流れに信仰を絡め、
(ネガティブであっても)「最適」を「宿業の嵐」なんて捉え、信心根本!と振り回されすったもんだ、
最終的にはすべて「信仰のおかげ」としていくのは、私は違うんじゃないかなぁ・・?と思います。
ただ、人それぞれ・好き好きがありますので、信仰のおかげにしておきたい人はそれでいいと
思うし・くれぐれも自己完結でお願いしますね~!と、思います。

過去になんて、原因も意味もない。
終わってしまったことに、過ぎたことに、いついつまでも執着を持たなくていい。
また、過去世の罪業なんて誰も見た事ないものにおびえなくていい。
いかに早く意識を切り替え・心の整理をつけ、ただ自分の機嫌をとって生きてゆくか。
自分とまわりの世界を信頼し、新しい未来の流れにのってゆく。
それが心地よく自分を生きていく術だと、いまの私は思います。

この本にも「時間は未来から~」の説明が漫画で描かれていて
非常に解りやすかったです(151ページから)

立ち読みしなさい! [ 苫米地英人 ]
価格:1512円(税込、送料無料)


↑この本においては、夢を叶えるための方法として
「過去を向いて、できないことへの理由探しをしている間に、未来から流れてくるチャンスや
 必要な情報をキャッチできず不意にしてしまう。だから過去は関係ない、前だけ向くこと」の
重要性が説かれています。 
他にも”コンフォートゾーン”と”ホメオスタシス”の説明は、創価脳がたいして自己実現が
できなくても、組織を抜けられない構造そのものだと思いました。 
本書はあくまでも、夢を叶える為の指南書で、全体通して読むと???な部分もあるのですが
いろんなものごとの見方を知ることが出来、勉強になりました。 
大きな図書館にだったら、置いてあるかも知れません。

この苫米地氏の時間軸解釈を調べているうちに出遭ったのが
エックハルト・トール氏の「ニュー・アース」でした。
「ニュー・アース」を読むと、さらにこの時間軸の逆転についての理解が深まりました。
そして「ニュー・アース」の中に書かれたある事をやってみたことで
以降、過去に答えを求めたり・振り返ってクヨクヨしたり・イライラを蒸し返したりwすることが
劇的になくなり、本当に心地よく気分よく暮らせるようになりました。
これまでいかに自分が後ろばっかり見て、自分で自分の首を閉めながら・気分を害しながら
生きてきたかが、今になるとわかり、ぞっとします・・。
人生半ばを過ぎてしまいましたが、今ここに気付けて本当に良かったと心底思います。

次から「ニュー・アース」に答えがあった、私の長年の悩み
「過去への執着」その正体について書いて行きたいと思います・・が、
一記事では紹介しきれないボリュームのため「ニュー・アース」についてはカテゴリを設けます。
解説?とまではいきませんが、私なりに元創価脳wの琴線に触れる教えを紹介して
いきたいと考えております。
(違う記事が先に上がることもあるかもしれませんが、ご了承ください。)

Category: Notice&Replace

被害者意識の底にあったもの

前回、一切その内容に触れませんでしたが「とある出来事」とは
義母さんの金銭トラブルでした。
家族にとって全く寝耳に水の出来事であり、昨年末の時点では子供達の協力で
なんとか解決へ・・という状況でした。
しかし、今年に入って新事実が発覚し、私は義母さんの人間性を疑い・酷く恨みました。
この「とある出来事」裏テーマは「遅れてきた嫁姑問題」です。
結婚して十数年、嫁姑問題なんて無関係と思えるくらい”表面上は”良好な関係を保って
きました。
遠方に住んでいる点も大きく関係しているかもしれませんが(しょっちゅう「会う」事はない)、
そこは本当の理由ではなく、実際のところ「思考のくせ」で、私はあらゆるマイナス感情を
抑圧してきただけだったと、この出来事を通じ、理解したのです。

金銭トラブルの内容は、投資詐欺(義母さんは被害者)です。
昨年秋、私はその穴埋めとは知らず、義母さんにまとまった額のお金を貸したのです。
(補足:このお金は私が自宅で某教室を開くための準備資金でした)
不動産取引に絡んで必要になった・・という話でしたが、実際は義母さんが投資詐欺と知らずに
友人を勧誘してしまい、その友人に対する損失補てんに充てたようです。
私だけでなく主人・他のきょうだい・配偶者にも借入し・それ以前に所有不動産担保の借金が
あった様子で、金策尽き所有不動産が差押にあい、発覚。

義母さんは親から継いだ権利収入を得ており、常々羽振りのいい人でした。
(補足:この権利収入も、既に人手に渡っていました)
けして威圧的ではないのですが「お金にものを云わせる」傾向があり、
すべて義母さんを通してから事を進める・・という暗黙のルールが家族内にありました。
ぶっちゃけて言えば、子供たち全員、義母さんを(金銭的に)アテにしていたという事です。
旅行に行く・何か値の張るものを購入する・などなど、義母さんに伝えれば「こうしたほうがいい」
「こっちで手配してあげる」など、意見はするけどお金も出すという感じ。
(補足:この状況は昨年、金銭トラブルが発覚する直前まで継続していました。
 つまりお金に困っているそぶりは一切見せなかったのです。まさに青天の霹靂でした・・)
私はその「お金にものを云わせる傾向」が、実のところ苦痛でした。
良い時もあるにはあったのですが、自分の好きにしようとしていた計画などを
(主人がうっかり義母に話し)変更を余儀なくされるといったことが、多々あったのです。
そしてどういうわけか、覚醒以前はさほど気に留めていなかったのに、覚醒後はそれが
異様に癪に障るようになったのです。
離れていながら、常に存在を感じ、支配されているような気分になることもあり。
主人にすれば、義母さんになんでも報告連絡相談するのは「日常茶飯事」で「あたりまえ」。
私からしてみれば信じられないことで(私は、実家母へほとんど何も相談しません故)、
「私達家族」のことに、どうしてそこまで干渉されなきゃならないの? 
私達だけで決めたり・好きにすればいいことじゃない・・。
遠方に住んでるんだから、ほっといてよ! という思いが、実際はありました。
けれどそういった気持ちや感情を、義母さんに対して出した事は全く無く。
(主人に対しては話したことも・喧嘩したこともあります・・全てのケースではないですが)
その理由は「創価脳にもかかわらず、家族として温かく受け入れてくださった」という負い目
そして「創価脳な嫁(だった)なのに、なにかと良くしてくださっている」という恐縮
また「当たり障りなく変わらず接してくださり、義父母のおかげで覚醒できた」という恩義
本音はすっぽり覆い隠し、常にものわかりのいい、従順な嫁像を演じていたんだ・・と
「とある出来事」を通じて気付きました。 
裏を返せば、「演じていた」なんて、まったく自覚なく無意識で、気付いてませんでした。
また、義弟のお嫁さんの一人が義母さんに意見し・時にバトルしていたのを知っていましたが
当時は「なんて事を・・波風たてなきゃいいのに」と、穏便に済まさないなんてバカだな・・と
思っていました。 実は自分が一番自分を馬鹿にしてきたのだと、のちのち気付くのです。

昨年末の時点では、私は義母さんに対し擁護の目を向けていました。
というのも、実家の母も(被害額は義母さんのそれには全く及びませんが)
幾度もマルチ商法に騙された事があり。高齢者において、こういった案件にひっかかる事は
決して珍しくないのかもしれない・・と考えたのです。
被害の大きさはショックでしたし、私が直接話を聞ける状況にはなく
(主人が家族会議の為に帰省。義母さん心神耗弱状態のため、被害の詳細までは語らず)
謎な部分が山ほどあり、義弟のお嫁さん方と連絡をとりあいつつも、憶測ばかりが飛び交い
精神的に疲れました。
けれど年も押し迫った頃、きょうだいが力を合わせ・弁護士さんにお願いも出来、
なんとか解決を見る事が出来そうだと解った時は心底ほっとし。
(補足:義父さんが心臓病&軽度認知症のため昨秋に老健入居しており、心身面の影響考慮し
 この件を義父さんには知らせていません)
自分の計画(教室開講を2016年初夏にしようと考えていました)は白紙になりショックだったけど、
この一件で義母さんによる「お金にものをいわせた支配」「過干渉」は終わるだろう・
また、毎年恒例(半強制的で実は疑問に思っていた)の大晦日~元旦にかけての義実家帰省も、
不動産売却に伴って無くなるだろう・・と、期せずして「私の思い通りの方向」へ進んでいる!と
感じたのです。
しかし↑実はこの2点は、「自分軸」さえ私が持っていれば、こんな大袈裟な事件がなくとも
さくっと解決できた話なのです。
心理学まわりではよく「思考が現実化する」との説を見聞きするのですが、
まさに、これってその事だったんだなorz と気付いたのは、つい最近の事です・・。
2015年末はなにひとつ「問題化」する事もなく、波乱はあったけど静かに終わった、と思って
いました。

が、年明けて2016年1月。 義母さんの話に大きな嘘が2点あることが解りました。
書くと長くなるので詳細省きますが、ひとつは私の信用問題に関わる事でした。
その件で私は義母さんの人間性を疑いましたし、ショックでならず。
電話で問い詰めたのですが、しらばっくれ、謝罪はありませんでした。
もうひとつは、主人と義弟ひとりが連帯保証人になっている借入があることが判明。
しかし二人とも、覚えが無いというのです。
弁護士から内容証明が届き発覚したのですが、書面に不思議な点がいくつかあり。
主人が義母さんに確認したところ「こちらで処理している話だから、任せてくれたらいい。
なにも心配いらない」と話したとのこと。
そして主人も義弟も、義母さんに任せる方針で自分たちはなにもしない・・というのです。
私はここで「問題化」するのです。
義母さんになんか任せておいていいわけないじゃない!! 大変なことになったらどうするの?
殊更ネガティブな、トリガースイッチが入った瞬間。過呼吸を発症したのは、この頃です。
そして(主人義弟に頼まれてないのに勝手に)弁護士に相談・ネットで調べたりし、
主人と義弟にその結果を話しましたが、2人とも「義母さんに伝えておく」というだけorz
なんで!? 自分たち(私を含む)で問題解決しようとしない? 
イライラ・ざわざわ・辛い気持が募っていたところ、2月に入り今度は訴状が届いたのです
→つまり義母さんは、なんの手も打っていなかった様子でした。
この訴状を見た時点で、私の中でぷつんと糸が切れたようになり。
主人を「そらみたことか!」的に責めたのですが、そんなことでは何も解決しない(当然)。
どうして私がこれだけやってあげ・忠告したのに、主人も義弟も無視したの?
こんなに真剣に心配してる私よりも、義母さんを信用したの?
そんな人たちの為に、なんで私がこんなに悩まなきゃならない?とえんえんと考えていた時、
ふとひらめきが。
「これって、私が悩まなくてもいい問題じゃないの?」と。
そう気付いたら、なんだか急にすべてがばかばかしくなり、一切その問題に関わらないと決め、
私は無視を決め込むことにしました。 問題を手放したわけです。
(そしてこの件は難なく解決。裁判で保証人無効が認められ、相手が訴訟を取り下げました)

そうはしたものの、義母さんへ憎悪の念が止まらず、日々苦しんでいました。 
主人にそういった気持ちをぶつけたこともありますが、主人は落ち着いて
「祥蘭の気持はわかる。だからもう無理しなくていいし、付き合わなくていい。
だれにも母の気持ちや、なぜそうしてしまったかなんて解けない。本人にしかわからないこと。
考えても仕方ないことなんだから、もう悩まないでくれ」と答え。
正論なんですが、それじゃ私の気持はおさまらないんだよ!!と、負のスパイラルに巻かれ。
悲しみ悔しさ苛立ち・・様々な感情が混濁し、途中で解らなくなってきて。
心理学に答えを求めてみよう、と思ったのは、そんな自分の苦しさの正体を
知りたくなったからです。
冷静に状況をみれば、私達の生活に実害はひとつもない。普通に日常生活は出来ている。
困っている事といえば「自分の気持ちがおさまらない」そこだけでした。
要は感情論で「被害者意識がおさまらない・ネガティブな感情に囚われすぎる」。

心理学の手法で「被害者意識」の底に在るものを見て行きました。

義母さんに、ひどいことされた!(=信用問題にかかわる事)
裏切られた! 信じられない! 
どうして私が、こんな目にあわなきゃならない? こんな気持ちに苛まれないといけないの?

私が何か悪い事したっていうの? 
私、ずっといい子にしてきたじゃん! 我慢してきたじゃん! ←はっ!と気付き。

どうして我慢をしてきたんだろう? 誰にも頼まれていなければ、強いられたわけでもない。
私が勝手に(無意識に)そうしていただけ。

それは、義母さんに優しくしてもらってたから。
創価脳な嫁なのに、文句も言われず、いじめられることもなく、良くしてくださったから・・。
(→”創価脳な嫁は、もれなくいじめられる”という、思い込みをもっていた自分に気付く)

私は、創価脳なのに(→創価脳という勝手な負い目に気付く)良くしてくださった義母さんに
感謝していた。
覚醒できたことだって、あたたかく見守ってくださってたからだと(勝手に)恩義を感じていた。

だからこそ、悔しい。
私は恩義を感じてたからこそ、意に介さないことだって我慢してきたし、
いい子にしてきたんじゃん!だのに裏切られたから悔しいんだ・・。
 ←エエッ?!と気付く。

「恩義を感じた相手には、自分の本心をも押し殺して我慢・追従しなきゃいけない」って
誰が決めたの?!
その意味不明なルールの元って何よ?

うわーっ・・まさか・・。
「忘恩の輩」とか「恩知らずは餓鬼畜生にも劣る」って戒め?
これ創価時代の刷り込みじゃん!!!


ガーン・・orz

底に眠るものを見つけたら、別角度(盲点)も見ていくのですが
「恩義を感じている相手・対象が自分を裏切る」可能性について、考えたこともなかった・・と
思いあたり。
「恩義を感じた相手の絶対神聖化」
「恩義ある相手には、意に介さない事があっても絶対服従」
 
↑これ、どう考えても創価脳じゃん!と。
池田老人命の会員の皆さまも、このパターンでしょうきっと。

我慢なんて、無用だった。
私が勝手に恐縮・負い目感じて、そうしていただけ。
もし、本音で義母さんと接していたなら、私はここまでネガティブな感情に振り回されずに
済んだかもしれない・・出来事の受け止め方も、変わったのではないか?
と、気付いたのです。
そもそも、借金だって鉄の意志で断ればよかった。
(義弟嫁のうち一人=義母と時にバトルしていた子は、義母さんの借入を断っていました。
 みごとな「自分軸」の持ち主だと思います・・)
憶測だけど、義母さんが私の信用問題に関わる事で裏工作(?)しようとしたのだって、
私が「絶対服従」の様相を見せていたからかもしれない。
”祥蘭なら怒らないだろう・・”的に、軽く見られていたか。でも、これも元はといえば自分だ。
それ以外のことだって、気に入らなければはっきり断ったり・自分の意見を正直に述べて
ディスカッションすればよかったんだ。 なにも「負い目・恐縮・恩義」なんて感じずに。
自分が”被害者ヅラ”していることの裏にあったものが、はっきりと見えたのです。

この”被害者意識”の大本が「他人軸」による思考性だということです。
怒りに触発され、「本音の部分」が出てきたら、私はずいぶんと自分に嘘をついてきたことが
わかりました。
(これって、創価がただの集金ブラック企業だったと気付いた時と全く同じなんですよね・・)

自分の本心を覆い隠し、感情に蓋をしてきたものに気が付いた。
それが創価時代の刷り込みによる「思考のくせ」だったと知り、唖然としました。
そして、これは徹底的に自分の「問題」と感じる事・感じてきた事を洗い直してみる
必要があると痛感したのです。

そして、被害者意識の底にあったもの「負い目・恩義・それは創価時代の刷り込み」を知ると、
さーっと波が引くように、昂ぶっていた怒り・ネガティブな感情が静まって行きました。
自分でも非常~に不思議な・これまでにない感覚でしたが、これが「答えは自分の中にある」
という事なんだと、理解しています。
怒りの底にあったものがわかったことで「腑に落ちる」という感じでしょうか・・。
このあたりの話は、また別の機会に書きます。

きっと、もと創価脳の方・学会2、3、4世は、自分に嘘をつき・欺く事がうまい(?)はずです。
そのような洗脳を生まれながらにして家庭内・組織で受けているからで、
心を病む「他人軸」な人が多いのも、其処に原因があるのだと私はみています。

この「他人軸」と「自分軸」についても、いずれもっと詳しく書きたいと思います。

次回は私を長年悩ませてきたテーマ「過去への執着」についてです。

Category: Notice&Replace

気付き&入れ替え はじめに

今日から、第三次覚醒について書いて行きます。

昨年末「とある出来事」に遭って,さまざまな気付きがあった・・と
何度か書いてきましたが、その内容は多岐にわたります。

シンプルに自分の中で閃いた疑問を追及して行ったら、心理学に辿りつきました。
そこで元創価脳ならでは(と思えた)な、「思考のくせ」に気付きました。

また、私が覚醒後もずっと悩み続けてきた思考習慣”過去への執着”に関しても
ある書籍との出会いで、答えを見つけることが出来、本当に楽になりました。

第三次覚醒後、正直な話、私は創価組織のことがどうでもよくなってしまいました。
もう、真面目に語る事はばかばかしいし、お笑いネタとして、扱うくらいでちょうどよい。
このブログ当初の方向性は主として「創価の家族問題」を扱ってきました。
これからは、その色は薄くなります。
かなり方向性は変わると思われ、新しいブログを立ち上げてそちらで書くのが良いのでは?
と思ったりもしたのですが、考え直しました。
もし、覚醒してなお、私と同じような内容で悩まれる方がどこかにおられて、
私の気付いた事をシェアすれば、その方の心の重荷がちょっとだけ、軽くなるかもしれない。
堂々巡りをふと止める事が、できるかもしれない。なんらかのヒントになるかもしれない。

また、このブログを立ち上げてから、数々のエピソードやお気持ちを聞かせていただく中で
「覚醒後の、心のありかた・おきどころ」に戸惑う・すっきりしない・・とのお声が多数ありました。
それが何処でも、自分の心がすっきりまるくおさまる場所へ向かえば、それがその人の
正解だと思います。
私が書くことがみんなの正答だとは思いません。人それぞれ、正答があると思います。
これから綴っていく内容は、参考程度に読んでいただければ幸いです。
逆に言うと、覚醒後なんの悩みも問題もまったく無く、自分らしく快活に楽しく生きられてます!
って自信を持って言える方は、読まなくて大丈夫です。

当初ブログを立ち上げた頃の思い
「仏罰におびえる誰かに、そんなもの無いんだと、一歩を踏み出す小さなヒントになったら・・」
と同じく
「創価ロジック脱出後も迷い悩める誰かに、自分の中に答えを探す小さなヒントになったら・・」
この思いで、此処で続けていく事にします。


@@@@@@@@@@@@

昨年後半に、想定外のアクシデントがありました。
今まで遭遇した事が無かった種類の、ネガティブな出来事です。
昨年中は突然の出来事を確認・追うだけで精いっぱいで、「問題化」していませんでした。
それが、今年に入って精神的な疲弊・新たな事実を知ったことによる強いショック等で
完全に「問題化」し、過呼吸になりました。
鬱の一歩手前といってもいいと思います。
辛い気持ちに覆われ、何故こんな事になったのか・どうして私が悩まなければいけないのか?
と、えんえん苦しんでいる時にふと閃いた事がありました。
「これって、私が悩まなくてもいい問題じゃないの?」と。
そう気付いたら、なんだか急にすべてがばかばかしくなり、一切その問題に関わらないと決め、
私は無視を決め込むことにしました。
その問題がどんな結末を迎えようと、知った事ではない。
私に全く影響が出ないとは限らないけど、そうなったらそうなったとき考えたらいい。
(これが「問題解決のために、問題を手放す」です。結果、見事に解決しました)

とにかく「自分の問題」として抱え込むの、やめよう! そう決めた時・・

「あれっ?!」
「なんで私、今まで、なんでもかんでも、自分の問題にしてきたんだろう?」

こんな疑問が、50年近く生きてきて、初めて浮かんできました。
やりたくて、やってきたわけじゃないから、疑問が浮かんだ。
(やりたくてやっているなら、問題ないはずで、疑問なんか浮かびようがありません)
疑問がわいたという事は、裏に自分では気付いていない何かが潜んでいる・・と感じ。

過去にさかのぼって思いだしても、私は他者におこったトラブルの相談にのっているうち、
いつのまにか前にしゃしゃり出て、解決する役目となるパターンが非常に多かったのです。
女子部時代、部員さんのトラブルを解決した事、多数。
部員同士・または四者との些細な喧嘩の仲裁から、悪徳商法に騙された部員さんの
クーリングオフの手続きや、しつこい彼氏と別れたいという部員さんの盾になり、
相手の男を説得してみたり(・・いや、説得と言うよりほとんど喧嘩でしたが・・)
挙げるときりが無く。
一般の友達づきあいでも同じく、仲裁交渉や手配や付き添い、色々しました。
また、実家の家族内でも同じだったかもしれません(父亡き後、母の創価問題は私一人が
背負っていくんだ・・と思い込んでいた事など)。
結婚し、ママ友づきあいが始まってからも世話焼きというか、
頼まれても・頼まれなくても「私がやらなきゃ」←どういうわけかこんな考えで、動いてきました。
ただ、いつでも前向きな気持ちですべてに取り組めたわけでなく
「あれっ?なんで私がやってるんだろ・・?」と、突然複雑な気持ちになる事もありました。
それが顕著になりだしたのは、実は覚醒後(2012年以降~)で、
創価脳時代は、さほど苦ではなかったのです。
自分の時間をつぶして動いても、たいして感謝されることもなかったりw 
なんで私が?と、明らかにイヤなのに断れず、引き受けてやってみたり←これが園ママとの
つきあいの中で顕著になり・疲れ、ここ2年ほどつきあう人を厳選していました。
その効果か、この2年はわりあい感情の起伏なく・穏やかに過ごせてきていた中、
突如降ってわいた「とある出来事」は、ネガティブ要素満載の出来事でした。
(ここまで読んで、勘と記憶力のいい読者様なら思い当たるでしょう)
「殊更ネガティブという罠」という記事を、以前UPしましたが
この罠に、はまりかけたのです。

2015年後半、ネガティブな出来事に出遭った私は、解決策を信仰に求めることは
全くなかったものの、トリガーボタンを押された状態になったことは確かです。
「私がなんとかしなきゃ!」
「何が何でも、この問題を解決しなきゃ!」との、強い焦燥感と問題意識と独りよがりの責任感。
もし、私が覚醒していなければ、これが私自身の問題ではないにもかかわらず
ジタバタドタバタ、周囲を巻き込みながら動き・祈り倒していたことは間違いなかったでしょう。
そして問題を注視し続け・神経をすり減らし・体力もそれなりに消耗しながら、問題解決まで
執着を持っていたと思います。 
そして良い結果に終われば「信心のおかげ」。悪い結果に終われば「意味のある出来事」とする。
このパターンにならっていたでしょう。
しかし、今回の私は幸いにも覚醒していました。 
にもかかわらず、途中までは創価脳トリガーパターンにハマっていたのです。
「(自分自身の問題ではないけど)何が何でも、私がなんとかしなきゃ!」と思った。
これこそが、創価ロジックを抜けてもなお固く握りしめていた「思考のくせ」に起因する
ものであった、と気付いたのは3月のことでした。

心理学の手法で、その「思考」に至った理由づけ・根底にあるものを見て行きました。
”他人の問題なのに、どうして自分がなんとかしなきゃ!っていつも慌てて動いていたのだろう?”
最初は中々、わかりませんでした。
それが「習慣化」していたから・条件反射みたいなものだったから、理由がでてこないのです。
単純に「人の役に立ちたいから」なんて、私はそんな模範解答の理由、持ち合わせておらず・・。
(人の役に立ちたいと、純粋に思っていたならば、そもそも疑問は湧きません)
なんだろう、この違和感?
人の役に立ちたい・・じゃないのなら、一体なんなんだ?!
つらつらと、過去にさかのぼってその時に感じていたことや感情を思い起こしていたら
ある時「ふと」理由が出てきました。
”私、周りの人たちを「かわいそう」「無力」「非力」もっといえば「馬鹿」だと思ってたんだな・・”と。
裏を返せば”(周囲より優れた)私が周りの困ってるみんなを救わなきゃ!”と思ってたということ。

しかし、私は有能な弁護士でも、スーパーマンでも、創造主でもありませんw 
単なる一介の、過去はOLだったし、今はふつーの主婦。
そんな「ふつー」の私が、なんでそんな大それたこと・上から目線で思ってしまったのだろう?

ああ、これしかないわ「選民意識」
ドヒャー!!!!!!

↑ちなみにここに至るプロセスはかなり端折っています、実際ほかにも思い当たる節があり
それは「依正不二」という教義です。
もと創価脳な方ならおなじみの教義ですが、一応紹介しておくと
”自分と自分の周りを取り巻く環境は、別のものではなく一体。
 身の回りでおこる出来事は、全て自分自身と繋がっている・無関係ではない”
→周囲になにごとか起こると「宿業が出た!」と捉えるのが当然の創価脳。
私においても、自分に近しい人が遭遇したトラブルは我がこと同然=自分の問題として同一化、
だから「何が何でも解決しなきゃ!私の問題だから、問題を無くさなきゃ!」と、なっていたんだ・・と、
初めてその仕組みを理解しました。

うわー・・こりゃ、疲れるわ。 ていうか、実際疲れてたよ・・。
今回、私はかろうじて創価ロジックを抜けていたから「なんで私が悩んでるんだ?」と
途中で気付けたんだ(同一化を免れた)。
これ、創価脳のまんまだったら、問題を手放すなんて絶対にしない・できない。
しんどかろうが辛かろうが、がっぷり四つ相撲とってたよね~・・。と、ぞっとしました。
※これはあくまでも気付きの一例です。

また、この「(他人の問題を)私が解決しなきゃ!」は別の側面を持っており、
問題が自分の思惑通りに解決を見ると「やってやったぜ!」という達成感・高揚感や
「私はすごい」という喜び・自己肯定感を生む場合もあります。
それがさらに選民意識を高めることにもつながるのでしょう・・そして、他人の事に首を突っ込み
「必死」になっている、熱心な会員の大半は上記「成功パターン」の虜になってしまっている・・
だから、自他共の幸せ!と言いながらも、実際自分の事はすっとばしで他人のことに
必死になるのでは?と、気が付きました。
(↑他人を、組織 や 部員さん や 下種先 に置き換えてもOK)
そう、一番の問題は「自分自身」なのに。 自分(軸)がないから、他人に求めるのです。
(↑そしてまさに、これは私の事でした)

創価脳の人というのは、たいていが「お人よし」ですよね。
それは、もともとそうだったわけではないし・特別そんな気質の人ばかり集まってるという訳じゃ
ないのです。
創価教学による「刷り込み」・福子と呼ばれる、学会2,3,4世においては徹底した
家庭内プロパガンダ。
それが思考の「もと」となる部分に在るから、お人よしな言動・振舞いと繋がっているのだと
ハッキリと気付かされました。
「もと」とは信条や、思考に至る理由づけですが、それらの奥底を突き詰めれば
実はそれは、自分の本心からの思いではなく「刷り込み」「勘違い」「他人にもらった理由」
だったりするのです。
つまりはやっぱり「洗脳」で、自分が自分を見失った状態で振舞っていることになります。
私が今書いているのはほんの「さわりの部分」です。 他にも色々あります。
創価ロジックを抜けたとか、完全非活になってやったぜ!とか、脱会したところで
このパターンを崩せていない人は、相当数おられると思います。
そしてこのパターンを握っている限り、生きづらさを感じる事が多くなっても無理はありません。
だって「本当の自分」の声に従って、行動しているわけではないから。
理由づけがあくまでも「他者・外部・自分以外」由来だから。どのみち無理が出てくるのです。
これが積み重なってくると、再び創価に戻ることはなくとも、苦しさから、別の何かに救いを求め
依存するようなことにもなりかねない・・。

以前もちらっと書きましたが「自分軸」を失わせるような洗脳を受けている私達は、
「他人軸」になりがちなゆえ、答えをどこか他処に求めがちなのです。
すべての答えは、自分の中にあるにもかかわらず・・です。
(このくだり、まるで日蓮の「この御本尊まったくよそに求むる事無かれ~」なんですが・・
 私は、日蓮が法華経というツールを介して伝えたかった「ほんとのところ」は
 結局自分軸のことだったんじゃないか?と、思ったりしています。
 長くなりますので、それは今後追って書いて行きます) 
こういった事柄に気付き、洗脳とは、想像以上に、恐ろしいものだと驚愕しました。

「意識の変容」がなければ、このトリガーパターンを崩せない事を、心理学を学んで知りました。
自分が感じている問題・苦しい・つらい・なんで私だけ?私ばかり?という疑問、
ネガティブな思いの一番奥底を見つめればそこに、必ず原因がある。
長年の組織による刷り込み・家庭内プロパガンダによってプログラミングされた思考回路に
いったん自分で「気付く」ことで意識が変わる。
気付けたらそこで自動的にリプレース(入れ換え)になります。
「思い込みだった・間違いだった・本当は自分はこうしたかった」と気付ければOK。
すると問題が問題で無くなり・問題化しなくなるのです。

そして、「自分軸」。
「本当は自分はこうしたい」に気付くこと。
これこそが自分も他人も大切にできる生きかたに繋がっていると、私はそう感じました。
自分を大切に・優先出来ない人は、結果的に他人も自分も傷つけます。

創価ロジックを抜けてもなお、創価仕込みの「思考のくせ」を握っていた・・と気付いた時の私は
ショックでした。
こんなアンチブログを3年もやっときながらw 私なーんも変わってなかった?嘘でしょ?!とw
いうなれば・・創価脳アプリを全部たたきだしてやったぜ!と得意げになってたけど、
実はOS入れ変えてないから、小手先の問題は解決できてるけど、同じ事繰り返すよー的な。
カビ掃除をして表面上は綺麗になったけど、実は見えないところで深く菌糸は張っていて
根こそぎ退治しない限り、いたちごっこですよーみたいな。
本当に、創価の刷り込み・洗脳は生半可ではないと私は痛感しています。
3年経過して今頃やってきた気付き(notice)・・「思考のくせ」を入れ換える(replace)ことを、
第三次覚醒と呼びたいと思います。

次回から「とある出来事」を通じた気付き・・「元創価脳ならではの思考のくせ」
について詳しく書いて行きます。


@@@@@@@@@@@@

冒頭に書きました、書籍を紹介しておきます。
私が覚醒後ずっと悩み続けてきた思考習慣が「過去への執着・悔恨」でした。
「とある出来事」に関しても、この「過去への執着」「おこってしまった出来事への追想」で
日々心が重くてどうしようもなかったのです。
悩み続けてきたことの答えが、こちらに書いてあり、霧が晴れるように楽になれました。
素晴らしい本なのでお勧めします。

ニュー・アース [ エックハルト・トール ]
価格:2376円(税込、送料無料)



けっして怪しい本ではありませんw(アマゾンのレビューを読んでみてください)
仏教について書いてあるわけではないのですが、近しいというか、連想させる内容もあります。 
この本についても、おいおい詳しく書いて行きたいと思います。

もし今、「強い悔恨」「ネガティブな追憶」「執着」云々で悩んでおられる方がいらしたら
一読をお勧めします。
電子書籍版もあります(私はiBooksでDLしました)。
(注・決してまわし者ではありませんw)

Category: Notice&Replace