ニュー・アース 第二章(5)

欲望:もっと欲しい

エゴは所有と自分を同一化するが、所有の満足は比較的薄っぺらで短命だ。
そこに隠れているのは根深い不満、非充足感、「まだ充分じゃない」という思いである。
エゴが「私はまだ充分に持っていない」というのは、「私はまだ充分じゃない」ということなのだ。
これまで見て来たように、何かを持っているー所有ーという概念は、エゴが自分に堅実性と
恒常性を与え、自分を際立たせ、特別な存在にするために創り出したフィクションである。
だが所有を通じて自分を発見することは不可能だから、その奥にはエゴの構造につきものの
「もっと必要だ」というさらに強力な衝動が存在する。
これが「欲望」である。エゴは、もっと必要だという欲求なしに長い間過ごすことはできない。
だからエゴを存続させているのは所有よりもむしろ欲望だ。
エゴは所有したいという以上に欲したいと願う。だから所有がもたらす薄っぺらな満足は常に、
もっと欲しいという欲望にとって代わられる。
もっと欲しい、もっと必要だというのは、自分を同一化させるモノがもっと必要だという
心理的な欲求である。ほんとうに必要なのでは無くて、依存症的な欲求なのだ。(
中略)
あるエゴは自分が欲するものを知って、冷酷に断固として目的を達成しようとする。
ジンギスカン、スターリン、ヒトラーなどはその並はずれた例である。
だが彼らの欲望の奥に在るエネルギーは同じく強烈な反対方向のエネルギーを生み出し、
結局は当人たちの破滅につながる。そして他の多くの人をも不幸にする。

前述の並はずれた例でいえば、地上に地獄を生み出す。
ほとんどのエゴは矛盾する欲望を持っている。また時が移れば欲望の対象が変化する。
欲しいのは今あるものではない、つまりいまの現実ではないという事がわかっているだけで、
実はなにが欲しいのか解らなかったりする。
苛立ち、焦燥感、退屈、不安、不満は、満たされない欲望の結果だ。
欲望は構造的な物だから、精神的な構造が変わらない限り、内容がどうであろうと
永続的な満足はあり得ない。
(中略)
「私に(me)」「私のもの(mine)」「もっと(more than)」「欲しい(I want)」「必要だ(I need)」
「どうしても手に入れる(I must have)」「まだ足りない(not enough)」というような思考の形は、
エゴの内容では無くて構造に付随する。エゴの内容、同一化の対象は変わっていくだろう。
自分自身の中にあるこの思考の形に気付かない限り、それらが無意識にとどまっている限り、
あなたはエゴの言葉を信じてしまう。
無意識の思考を行動化し、見つからないものを求め続ける運命から逃れられない。
なぜならこのような思考の形が作用している限り、どんな所有物にも場所にも人にも条件にも
満足できるはずがないからだ。
エゴの構造がそのままである限り、あなたはどんな内容にも満足できない。
何を持っていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。いつももっと満足できそうな
他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、
探し求めずにはいられない。
 (p103- 109抜粋)


近年、断捨離や、極力モノを持たずに暮らすミニマリストという概念が広く知られるように
なりました。
若い世代の消費行動は、私が若かった時(80年代後半~90年代バブル)とは全く違ったものに
なっているなぁ・・と感じます。
少なくともバブル当時は「所有」が豊かさの象徴で、目指すべき処のように思われていました。
時代と共にエゴが小さくなったのか?と一瞬思わなくもないのですが、
エゴの形が「私はトレンディ(死語w)だ」から「私はミニマリストだ」というアイデンテティに
変わっただけなのかもしれません・・?! 勿論、皆がみな、そうだとは言いませんが。
私はバブルをかじった世代で、当時「買い物依存症」なる言葉を週刊誌等メディアで、
さんざん見聞きしていた記憶があります。 
「所有」では満足は追いつかない。常に「欲しい」が勝っている状態・・買い物してきた紙袋を
開けることもなく、クローゼットに突っ込み、タグを切らない状態の・一度も着たことのない洋服が
山ほどある・・過去、そんな友人も身近にいました。
虚栄心からの買い物~所有ではなく(←私はこちらのタイプでした)、
ただただ「いつも(なにかが)欲しい」という一瞬の欲求を満たすため、買い続ける。
「買う」行動で手に入れてしまえば、品物になんて興味は無い・・こんなパターンも、エゴの仕業です。
これはまぎれもなく「不足」からくる行動。
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、根源的に満たされている真実を
知らない(気付いていない)
がゆえに、
不足を埋めようと、エゴに突き動かされていたのでしょう。


そして太字にした部分は、宗教を使った錬金術の虜になってしまったオジサンたちも
(オバサンもいるんでしょうかね? 大本営ってどうにも男社会にしか見えないんですが・・
 副会長だのなんだの、大層な役職名の付く人は、ほぼオッサンだし)
全くこれと同じだなぁ・・と思い、紹介した次第です。
もう創価の事はあまり書くつもりがないと言いながらもwやはりエゴまみれというと真っ先に
浮かんでくるのは、大本営の中の人&上層部のこと。
年がら年じゅう「拡大!拡大!」と下々に号令をかけ、世界何百カ国に拡がった!と言ってる割に
なかなか「これでもう十分です」とは言わないw この先も絶対言わない・言うわけがない。 
”まだまだ、もっともっと、いつもずっと全然足りない”そう言い続けるのです。
これをエゴと言わずして、何だというのか。 
数をもって勝ち誇るような姿勢こそ、エゴです。

”ほとんどのエゴは矛盾する欲望を持っている。また時が移れば欲望の対象が変化する。
欲しいのは今あるものではない、つまりいまの現実ではないという事がわかっているだけで、
実はなにが欲しいのか解らなかったりする。
苛立ち、焦燥感、退屈、不安、不満は、満たされない欲望の結果だ。
欲望は構造的な物だから、精神的な構造が変わらない限り、内容がどうであろうと
永続的な満足はあり得ない。”

↑太字にした部分は「わだかまり」だと私が捉えた部分です。
そして、生まれてこのかた~創価脳だった頃も・アンチになってからも
ずっと私は「そこはかとない不足感」に包まれ、時に「わだかまり」を持って生きてきたんだなぁ・・
って事に、ニュー・アースや、現代の覚者の教えに触れて初めて気がつきました。

人それぞれ、出自もおかれた環境も違いますが、すべての人が平等に「恩恵」の下にあると
ひとつだけはっきりしていることがあります。
それは、「生かされている」という奇跡を「いま」経験していることです
そして実はこれが、何物にも代えがたい「満たされた」状態であるという事実です。
前回記事でもとりあげた、エックハルトの言葉

”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに見えなかった”
”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。”


まさにこの言葉どおりの、シンプルで深い「いのちある喜び」が「満たされた状態」です。
元創価脳の方なら知っているであろう言葉「輪円具足」とは、まさに上記を表現していると
私は思うのです。
尊極の生命、「ただ生きている」ことでもう、すでに完全で満たされた状態。
条件や環境は関係ありません。

輪円具足とは
”全てのものが具わって欠けているものはないという意、十界具足(十界互具) を表わす”
これはまさに、生命のこと。 
日蓮が活躍した鎌倉時代というのは、歴史に詳しい方ならご存知の通りですが
戦乱も、疫病や飢饉も頻繁にありましたし、ひとたび飢饉があれば数千人が命を落とし、
ひとつの村ごと消滅してしまう・・そんな過酷な時代。 今とは生存率が全く違うわけです。
生活環境だって今とは格段に違います、つまり今日を生き・あすを一日でも長く「生きる」ことが
現代よりもっともっと奇跡に近い、そんな時代であったと推察できます。
「命落とさず、一日でも長く生きる」←これが現世利益だったといっても過言ではないでしょう。
輪円具足を「またの名を功徳聚」とあるくらいですから、やはり「生存こそ功徳」だったのです。

現代はといえば、まず食糧難は回避できています。棄てるほど食べ物があふれている時代。
時々貧困で命を落とす方のニュースを耳にはしますが、ニュースになるくらいですから
レアケースです(数多かったら報道すらされないでしょう、一般人の離婚と同じで)。
基本的な「生存」に関して、鎌倉時代ほど恐れなくて済む時代だとわかるかと思います。
良くも悪くも、現代の人にとって基本的「生存」は当然のことであり、そのことを
絶対的+(プラス)とは捉えない。だからこそ、上積みの「何か」を求める。
生かされている奇跡や不思議は「あたりまえ」すぎて、エゴの前に見落とされています。

人それぞれ、条件や環境や、どこかしらに不足を感じ不満を憶え暮らしている。
その不足や不満は「生きている」状態がなければ経験はおろか、意識もできないことです。
そして、条件や環境にネガティブな感情をもつことについても「思考の背景」が邪魔をしているだけで
実際に「思考の背景」が変わるような出来事があれば、不満も悩みも一瞬にして消え去ることがある。

で、実は「不安」や「不足」や「問題」なんか無かった、そもそも無いと言ったら
まず誰も「信じられない!」「馬鹿言うな」と、怒り出す人もいるでしょう。
けれど少し立ち止まってみて、同じ人間でも「不安」「不足」「問題」のレベルが違うことに
気づけば、どうでしょうか? 感じ方は人それぞれ。
同じアクシデントにあっても平気でいられる人・少し落ち込んでもすぐ持ち直す人・
ショックからなかなか立ち直れずにいる人・・様々です。
どうして差が出るのかといえば、環境の違いよりは「思考の背景」の違いが大きいのです。
落ち込んでいる人も・腐っている人も・浮かれて調子に乗っている人も・平常心の人も
すべての人に、平等に与えられた「いま」この瞬間は「生きている」という事実。
「生きている」という揺るがない事実の上にあって、
どの状態を選択するかは自分しだいなのです。

「不安や恐れ」も「不足」も「問題」も、実際自分の思考=エゴが作り出した幻影ですから。
仏罰と呼ばれる概念も、いうまでもなく幻影です。

過去に書いたように、私の母は「一家和楽」という青い鳥を探してずーっとさまよっておりました。
私も同じくで、「信心に理解のない父と兄姉」に不幸不平不満を感じ・勝手にわだかまりを憶え、
母の青い鳥探しを手伝って(?)いました。
それが実は、青い鳥は家の中にすでにいて、母や私が「一生不退転」などと思いこみ・
握りしめてきた信心を手放せば、家の中の青い鳥に気が付けたという、お粗末な展開だったのです。
(が、これでよかった・私たちはこのことを「経験したくて」やっていたのだと、
 現在は納得できておりますので、創価を殊更恨んで糾弾してやる!なんて思いはもうありません。
 詳しくは、脱会の顛末とともに後日書かせてもらいます)
婦人部に嫌気がさして学会活動をやめたあと・選民思想で創価仏教を信奉していた頃も、
不足を感じていたから、怖かったから、安心がほしかった。
そして、創価信仰を持っていた頃はかろうじて「不足」を多少補えていたと、今は思えます。
ただしそれは「完全」ではありませんでした・・どのみちスタート地点・ベースにあったのは
「欠乏感」だったからです。
ゆる活だろうがバリ活だろうが、自分になんの不足も感じていないなら、わざわざ現世利益を
追求するような創価と関わらないはずで、そこは何かしらの「不安」「不足」「問題(意識)」が
あったから、救いを求めたのでしょう。
これはなにも宗教団体依存だけではなく、一般人で開運アクセサリーやグッズを節操無く
買い集める人も同じです・・そしてまさにこの「不安感」「不足感」「不完全と感じる心」は、
エゴの仕業です。
その「エゴ」に付け込んで、商売にしている人たちが少なからず存在しているということです。
なにも宗教団体だけではありませんw 騙されないように気をつけましょう。

”エゴの構造がそのままである限り、あなたはどんな内容にも満足できない。
何を持っていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。いつももっと満足できそうな
他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、
探し求めずにはいられない。”

では、エゴに振り回されないためには、欠乏感ベースにならない為にはどうすればいいのか?
答えは至ってシンプルで
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、
根源的に満たされている真実に気づく。

これだけです。

「そんなはずない!」「そんな馬鹿な!」「ええ?信じられない・・」という思考のおしゃべりは
「~と、エゴが申しております」で、ひとまず受け流してくださいね。

なぜ問題は問題でなく、条件や環境は関係ないのかについては、
この先に書いていきますが、多分かなり先になりますのでw
早く知りたい方は、エックハルト・トール氏の書籍を読まれることをお勧めします。

また、
「生きてるだけで感謝しろ、っていうの?贅沢言うなっていうの?」と思われそうですが、
(↑これは私が以前思っていたことですw 全く理解できなかった時期に)
決してそれが全てではありません。 
ただ、自分がいま「生かされている」事について、シンプルに奇跡を感じられたら、世界は変わります。
私がそのことに気付いたのは、実は最近です。
ある日突然「!」と、気づかされました。
本当に些細な話で恐縮なのですが・・今回書くつもりでしたが、まとめられませんでしたので
別記事で書きたいと思います。
リクエストをいただいている神社参詣と神棚の件と共に、次回とさせていただきます。

ニュー・アース 第二章(4)

所有という幻

何かを「所有する」、これはほんとうはなにを意味しているのだろうか?(中略)
多くの人は、死の床に就き外部的な物がすべてはげ落ちて初めて、どんなモノも自分とは
なんの関係もないことに気付く。死が近づくと、所有という概念そのものがまったく無意味で
あることが暴露される。
さらに人は人生の最後の瞬間に、生涯を通じて完全な自己意識を求めてきたが、
実は探し求めていた「大いなる存在としての自分」はいつも目の前にあったのに見えなかった、
それはモノにアイデンテティを求めていたからで、つきつめれば思考つまり心に
アイデンテティを求めていたからだ、と気付く。
「心の貧しい者は幸いです」とイエスは言った、「天の御国はその人のものだからです」と。
「心が貧しい」とはどういうことか?
心になんの持ち物もない、何も自分を同一化(アイデンテティファイ)していない、という事だ。
そういう人はどんなモノにも、また自己意識と関係するどんな概念にも、アイデンテティを
求めていない。それでは「天の御国」とは何か?
それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。その喜びは、何かに自分を
同一化するのをやめて、「心の貧しい者」になったときに感じることができる。
だからこそ、東洋でも西洋でも古くからのスピリチュアルな実践で、あらゆる所有が否定されて
きた。しかし所有を否定しても、それだけでエゴから解放されるわけではない。
エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンテティを求めて
生き延びようと図るだろう。
(中略)
そのアイデンテティを通じて、自分は正しくて他者は間違っていると考えることが出来る。
あとで取り上げるが、自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の
主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。

いいかえれば、エゴの中身は変わってもそれを生かしておく構造は変わらない。
これに関係して無意識に想定されているのが、所有というフィクションを通じてモノに自分を
同一化すると、物質が持っているかに見える堅実性や恒久性のおかげで自分にも大いなる
堅実性や恒久性が付与されるはずだという事だ。(中略)
エゴはまた所有と「大いなる存在」を同一視する傾向がある。われ所有す、ゆえにわれ在り、
というわけだ。そして多くを所有すればするほど、自分の存在も豊かになる、と考える。
エゴは比較の中に生きている。私達は、他人にどう見られているかで、自分をどう見るかを決める.
誰もが豪邸に住んで誰もが豊かなら、豪邸も富も自意識を高めるのには役立たない。
それなら粗末な小屋に住み、富を放棄して、自分は他人よりスピリチュアルだと思う事で、
自分のアイデンテティを取り戻すことが出来る。他人にどう見られるかが、自分はどういう
人間か、何者なのかを映し出す鏡になるのである。

エゴの自尊心は多くの場合、他者の目に映る自分の価値と結び付いている。
自己意識を獲得するには他者が必要なのだ。そして何をどれくらい持っているかでほぼ自尊心が
決まる社会で暮らしていると、それが集団的妄想であると見抜けない限り、自尊心を求め
自己意識を充足させようとしてむなしい希望に振り回され、一生、モノを追い求めることになる。
モノに対する執着を手放すにはどうすればいいのか?そんなことは試みないほうがいい。
モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える。
それまでは、自分はモノに執着していると気付くだけでいい。

対象を失うか危険に晒されなければ何かに執着している、つまり何かと自分を同一化している事が
わからないかもしれない。
失いそうになって慌てたり不安になるなら、それは執着だ。
モノに自分を同一化していると気付けば、モノへの同一化は完全では無くなる。
「執着に気付いている、その気付きが私である」それが意識の変容の第一歩だ。
(p96-103抜粋)


「大いなる存在」とは、原書ではpresenceやbeingとなっています。
私は「生命そのもの」と解釈しています。

生きている、生かされている、呼吸が自分のコントロールに依らず、なにものかによって
生まれおちた瞬間から死の時まで、えんえんと続いている事・・この「生の奇跡」について
日常驚きをもって・また喜びをもって意識している人は、どのくらい居るでしょうか?
数分間、自意識で息を止めることはできても、自分でコントロールして心臓を数分間とめるなんて
ことは不可能です。
呼吸と心臓の絶え間ない動き、これこそ「神の所業」と言えると思います。

普段なにげなさすぎて・あたりまえすぎて気付いていないだけで「呼吸している」この状態は、
実は奇跡的瞬間の連続で・ものすごいラッキーな事なんだと、
普段から意識している人は(大病や大事故や九死に一生の経験から生還した人を除いては)
あまりいないのではないか?と、思うのです。

かくいう私も、30代手前で生命の危機を感じるような出来事を経験していたにもかかわらず、
「ニュー・アース」を読むまで、「生かされている」という状態、生命の存続の奇跡については
すっかり忘れ去っていました。 
「ただ生きている」その事があたりまえになりすぎていて、ありがたみなんか全く薄れていたのです。
それどころか、生きているがゆえに起きてくる様々な出来事に対して不満を持ち、わだかまり、
怒り、妬み嫉み、見下し、被害者意識で対象を攻撃し・・勿論、喜びも笑いもありましたが、
「生きていればこそ」の大前提、その奇跡への喜びはすっ飛ばしたところで↑これらの感情・想念に
振り回されたり・抑え込んだりーと、まさにエゴに振り回されていました。

”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに
見えなかった”

”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の
喜びのことだ。”


この2つが、「ニュー・アース」の結論で総論といっても過言ではないと思います。

「生きている」「生かされている」自分がどれほど尊い幸運な存在なのか、
人はエゴに囚われている間、そこに気付くことができません。
何ものを持たずとも、ただ存在する・そこに「ある」ことだけでもう完全で素晴らしいのに、
自分がどれほど尊くすばらしく、幸運な存在であるかを全て「アイデンテティ」に求めようとする。
以前から書いている通り、あらゆる「外付けパーツ」の増強で、自分という存在価値を
見出そうとするし、
他人の「外付けパーツ」と比較しては優越感をもったり・劣等感を持ったりする・・そんな繰り返しで
生涯という時間は消費される。
そして死の間際に立った時、それら「外付けパーツ」が、自分ではなかったことに”やっと”気がつく。
(以前も書いた通り)命尽き眼を瞑る時には、「外付けパーツ」はおろか、自己の肉体さえも
失うのです。 
ただ「いま」ここで呼吸をし、「生存」していられる、これこそが「大いなる存在の喜び」なのだと
エックハルトは教示しています。
つまりは、生存しているという状態、今ここでもうすでに、誰人も幸運で幸福であり・尊いのです。
そしてこの事が「今にある」と繋がってくるのです。


「生きて存在してるだけで幸福なんてありえねぇ!」と思うのは、エゴに囚われている状態です。
幸福に条件付けをしているあいだは、「存在している」だけで幸せだなんて思えるはずもありません。
あれがない、これがない、それもない。だから私は幸せではない・完全ではない・・と
自分がいかに「不足」しているかを、わざわざ探しだそうとします。
また、誰かと比較して「あいつよりは幸せだけど、上には上がいる」と考えたりもします。
そして恐ろしい事に、エゴは満足を知りませんから、一瞬「良かった」とか「最高に幸せ」と
思えるような出来事や瞬間にめぐり合う事があっても、次の瞬間にはすぐ
「よろしくない」「足りない」という状態を想像し・引き寄せます。 
それがエゴが存在するためのエサだからです。
私の文章力では、なかなかこのあたりを簡潔に・わかりやすく書けなくてもどかしいのですが・・(汗)。

で、物質面や社会的評価に依らずとも「自分たちは幸せの直道を歩んでいる!」と
胸張る「ぼろは着てても心は錦」タイプの信者たちは、
”エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンテティを求めて
生き延びようと図るだろう。”

まさに↑このパターンで、「信者というアイデンテティ」にハマっていると言えるでしょう。
宗教団体組織内における役職にこだわったりしがみついたり・昔OOだったと主張するタイプも
ここに当てはまるかと思います。
”自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の
主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。”

創価脳な人に、この部分↑ぜひ繰り返し読んで暗唱してもらいたいなと。
ただ、これこそが創価脳のアイデンテティで存在する理由みたいなものですから困ったもんですねw

このあともエゴについて、事細かに解説が続いて行くわけですが
「ニュー・アース」を繰り返し読み、「大いなる存在」のなんたるかが理解できるようになって
やっと解ったことがありました。
それは「幸せになれますよ」との触れ込みによる宗教がいかに嘘っぱちか、という事についてです。

大前提として、「生きているだけで丸儲け」を自覚できていれば、新興宗教なんて要りません。
ああしてこうして・何時間も仏壇の前に座って足腰の痛みに耐えながらw祈らなくたって、
外部他者にうとまれながらも「この教えは素晴らしいの!新聞読んでみて!」なんて言わなくても、
大丈夫なのです。
だって、息をしている・心臓が動いている、しかも勝手に。
それだけでもう「ラッキー」で「幸せ」なのですから。

そんな大前提の幸運を・自分が生かされている不思議・奇跡をまず感じてみれば、
悩みごとや一見「不幸」に見える事柄には、殊更フォーカスしなくなるのです。
勝手に心臓が動いている・呼吸が連続している、この奇跡をおこせている幸福に比べたら
目先の悩みやアクシデントはとるに足りず、いずれ「過ぎ去る」ものだ、と解ってきます。
できごとは四季や天候や車窓に流れる景色と同じ。
それが通り雨か台風か豪雪かは、時と場合によって違ってはくるでしょうが「事象」にすぎません。
そこにどんな「意味」を持たせるかは、自分次第になります。

「問題を問題化しない」ことをこの記事で書きました。
そもそも、生きている事それじたいが「ラッキー」です。
その大前提を放り投げて・なきものにして、「問題」を「問題化」し騒ぎ立て・
宿業や罰論なんかわざわざ「不幸探し」をしているようなものなのです。 
あえてもう、こまごまは書きませんが・・。
信仰の原動力が「不足」からくることは、元創価脳の方なら誰しも経験がおありだと思います。
「~しなければ」「~であるべき」「~じゃないから、こうなりたい」 全部、不足です。
そこにフォーカスしている間は、どれだけ頑張って不足を埋めたところで、また次なる不足が
やってきます。
何故なのか? エゴに取りつかれているからです。 
エゴにとりつかれているときは、どこまでいったって「満足」なんかありません。
そして信仰の原動力=エゴそのもの、です。
そこを克服するのは本当に単純なことで「エゴに気付く」
「生かされているという得難い幸福・幸運に気付く」 これだけです。

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ところで、ブログタイトルを変えました。
ブログの趣旨を変えた6月にしたかったのですが、当時タイトルが思いつきませんで
今頃になった次第です。
すごくどうでもいい余談ですが、don't trust///の /// はどういう意味ですか?と以前に
質問されたことがあったのですが、本当は ・・・ としたかったのです。
それが、かなキーを押していなかったため、英数キーで///と入力されてしまっただけで
実はまったく意味はございませんw 今頃の回答ですみません)

そしてご報告、2016年内に脱会届を正式に提出することになりました。
しかも、実家の母も同時です。
なぜそうなったのかについては、来年以降、落ち着いてからご報告させていただきます。
いま言えることは、私はとくに何かを母に対して働きかけていません。
母に対しては、ほんとうに何もしていないのです。
ただ自分が「今にある」こと、わだかまらず「今を受け入れる」ことをやってきた、それだけです。

もともと、脱創価からはじまったこのブログですが、やっと卒創価となりそうです。
私にとっては、エックハルト・トール氏の書籍との出会いが、とても大きな転機となりました。
また、そのた現代の覚者の教えに触れたことで、肩の力が抜け楽になりました。
今後はタイトルどおり「わだかまらない生き方」について
「今にある」「いまを受け入れる」ことについて、私なりの方法とその結果を綴っていきます。

ますます、創価への被害者意識や文句は読めなくなると思いますがww
それでもよければ、引き続きお付き合いください。


「ニュー・アース」第二章(3)

なくなった指輪

スピリチュアルな問題について指導するカウンセラーとして、ある女性がん患者の元へ
週に二度ずつ通っていた事がある。その女性は四十代の教員で、医師から余命数か月と
宣告されていた。
(中略)ある日訪ねてみると、彼女はひどくがっかりし、怒っていた。
「何があったのですか?」と尋ねたところ、ダイヤの指輪が無くなったという。(中略)
きっと毎日数時間、世話をしにくる女性が盗んだに違いない、病人に対してよくもそんな
無神経なひどいことができるものだ、と彼女は言った。
そしてその女性を問いただすべきか、それともすぐに警察に通報したほうがいいか、と私の
意見を求めた。
どうすべきか指図はできないと答えたが、しかし指輪であればどんな品物で在れ、
今のあなたにどれほど重要なのかを考えてみてはどうか、と私は助言した。
「あなたはおわかりにならない」と彼女は言いかえした。
「あれは祖母からもらった指輪でした。毎日はめていたのだけれど、病気になって手がむくんで
はめられなくなったんです。あれはただの指輪じゃない。騒ぎ立てるのも当然じゃないですか、
そうでしょう?」
その返事の勢いや声にこもる怒りと自己防衛の響きは、彼女がまだ十分に「いまに在る」
心境になれず、おこった出来事と自分の反応を切り離して別々に観察するに至っていないことを
示していた。
怒りと自己防衛は、まだ彼女を通じてエゴが発言しているしるしだった。
私は言った。「それじゃ、いくつか質問をします。すぐに答えなくていいですから、自分の中に
答えが見つかるかどうか探してみてください。(中略)」
「あなたはいずれ、それもたぶん近いうちに指輪を手放さなくてはならないことに
気付いていますか? それを手放す用意ができるまで、あとどれほどの時間が必要でしょう?
手放したら、自分が小さくなりますか?それがなくなったら、あなたは損なわれますか?」
最後の質問の後、しばらく沈黙があった。
再び話し始めた時、彼女の顔には安らかな笑みが浮かんでいた。
「最後の質問で、とても大切なことに気付きました。自分の心に答えを聞いてみたら、
こういう答えが返ってきたんです”そりゃ、もちろん損なわれるわ”
それからもう一度、問い返してみました”私は損なわれるだろうか?”今度は考えて答えを
出すのではなく、感じてみようとしました。そうしたらふいに「私は在る」と感じることが
できたのです。こんなふうに感じたのは初めてだわ。こんなに強く自分を感じられるなら、
私はまったく損なわれていないはず。いまでもそれを感じられる。
穏やかだけれど、とても生き生きとした自分を感じられます。」
「それが”大いなる存在”の喜びですよ」と私は言った。「頭から抜けだした時に、初めてそれを
感じられるんです。それは感じるしかない。考えたって解りません。エゴはそれを知らない。
だってエゴは思考で出来ていますからね。その指輪は実は思考としてあなたの頭の中にあり、
それをあなたは自分と混同していたんですよ(中略)
エゴが求め執着するのは、エゴが感じることが出来ない、”大いなる存在”の代用品です。
モノを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたら、それはエゴだと気付かなくては
いけません。(中略)
喪失を完全に受け入れた時、あなたはエゴを乗り越え、あなたという存在が”私は在る”
ということが、つまりその意識そのものが現れるのです」(中略)
身体がますます衰弱していった最後の数週間、彼女はまるで光が内側から輝きだして
いるように明るかった。いろいろな人にたくさんのモノを分け与えたが、その中には
指輪を盗んだと疑った女性も入っていた。
そして与えるたびに、彼女の喜びはますます深くなった。
彼女の死を知らせてきた母親は、亡くなった後で例の指輪がバスルームの薬品戸棚で
見つかったと言った。手伝いの女性が指輪を返したのか、それともずっとそこに
置き忘れられていたのか?それは誰にもわからない。 だがわかっていることが一つある。
人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える、ということだ。(中略)

自分の所有物に誇りを持ったり、自分より豊かな人を羨んだりするのは
間違っているのか?そんなことはない。誇りや目立ちたいという思いや、「もっと多く」によって
自己意識が強化され「より少なく」によって自分が小さくなると感じるのは、善でも悪でもない。
エゴだというだけである。
エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。(p87-94抜粋)


このパートを初回読んだ時は、全く腑に落ちませんでしたw
愛着ある高価なアクセサリーが忽然と消えたら、そりゃ慌てるし、誰かを疑いもするだろうし・・
たとえ余命が幾許であっても・・盗まれたり・紛失したら辛いし、引きずるに決まってるじゃん!と。
エゴについて全く理解していない状態でしたので(エゴに囚われまくっていたので)
執着感ばりばりの私が、1回目はそう感じて当然だったと思います。
当時の私は、「とある出来事」で義実家や主人がいろんなもの(財産)を失っていくのを見て、
なんともいえない不穏な気持ちに苛まれていた時期でした。
不動産が人手に渡り、「管理物件」という看板が立っているのを見た時(春休み)も
忸怩たる思いがありました。
それらが「わたし」のものではないにもかかわらず、です。 
(余談ですが、私が義母さんに貸したお金は主人が戻してくれました)
「とある出来事」さえなければ、あれもこれも失わずに済んだんじゃないか・・なんでこんな事に
なったんだ!と、過去を責めていた頃で、まさにエゴにグルグルと巻かれた状態でした。

しかし、さまざま「いまに在る」を実践した数か月後に読むと、違和感なく受け入れることが
出来ました。
ふと思い出したことですが、20代半ば、私は腕時計を紛失したことがありました。
腕にはめていたはずのそれが、通勤帰りに「ない」と気付いて真っ青になり、すぐ電車を折り返して
会社までの道のりを探しまわりました(&社内も)。 
駅と交番に紛失届も出しましたが、結局戻ってこなかったのです。
その時計は父方の祖母が大学進学祝いでくれたものですが、高価な品だったため
父が「学生には分不相応。社会人になったら使いなさい」と、暫く父に預けていたものでした。
社会人になったとき手渡され、父も知っている特別な品物だっただけに、私は紛失した事を
ずっと黙っていました。 絶対に怒られる・大目玉をくらうと思い、言えなかったのです。
(これには父と父方祖父母の関係性や家庭環境もあるのですが、畏敬の念をもって
 父は祖父母に接していましたし、祖父母の前で姿勢を崩すのを見た事がありません。
 私達にもそのように接するよう・祖父母には敬語を使うよう教育されていました。
 私にとっての祖父母は親しみのわく存在ではなく、どこか遠い存在で、
 成人してなお、祖母からもらった大切な時計を失うなんて「とんでもないこと」だったのです。
 簡単にいえば、現代のような「フレンドリーな家族関係」は全くありませんでした。
 このエピソードを書くまで全く思い出しもしませんでしたが、改めて見るとちょっと特殊というか、
 こういった生育環境も私の「思考の背景」を作った材料の一つで、長らく囚われ続けた
 「絶対感」の基礎にあったものではないかと、思い当たりました・・)
十年以上経過してから、「あの時計、実は昔、紛失した」とカミングアウトしたところ
父は「災難を除けてくれたんだろう。失くした事をそんな深刻にとらえなくてもいい」と言ってくれ、
拍子抜けしたと同時に、とても気持ちが軽くなった事を思い出しました。
それはずっと私が一方的に・片思いのように抱えてきた罪悪感が、解放された瞬間でもあり。
父のエゴが軽かったのか・私のエゴが重たすぎたのか?w それは解りませんが、
腕時計がなくなっても「わたし」が損なわれることは、確かに無かったのです。

「罪悪感」とは、上記したように、自分がひとりでに抱え込んで勝手に重くなって身動きとれなく
なっているもの・・と、言えます。
もっと後の章で例を引いてエックハルトが解説してくれますので、ここでは一旦おきますが、
自分が気にするほど相手はなんとも思っていない(逆にいえば、自分に覚えのないようなことを
相手がしっかり覚えて恨みに思っている)パターンがある、ということを知っておくといいかも
しれません。

また、主人や義実家においても、半年経過し気付いてみれば、モノやお金を失いはしましたが、
以前と事情は様々変わったものの、義実家の皆も私達も「いま」驚くほど普通に・平穏に
暮らしています。
まだ一年経過してないにも関わらず、怒り悩み苦しんだ日々が、もう遠い昔の出来事に思えるくらい
私の中で「風化」しつつあります。恨みつらみは、嘘のように消えました。
私においては、「とある出来事」に出会わなければ、ずっとエゴに囚われて悩ましい毎日をおくり・
現実問題のはけ口に創価問題を使ってw悪口言って憂さ晴らしで過ごしていたかもしれません。
「とある出来事」のおかげで、エックハルトの本と出会う事が出来、エゴについても理解し、
さまざまな執着を手放すことができました。
それが本当に幸いなことだった、と感じています。
エゴに囚われたままだったら、(私のものではない)義実家が失ったあれやこれやを恨めしく思い、
「義母さんさえ騙されなければこんな事にならなかったのに!」などなど、いつまでも過去をネチネチ
蒸し返しては、いまごろ機嫌悪く生きていたことでしょうw
何よりも、わだかまりなく生きることが出来るようになったのが最大の収穫で
人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える、ということだ。
この言葉の真実味を実感しています。

本パートでは「指輪」(高価で大切にしていたもの)を題材にしていますが、なにも物にとどまらず、
特定の人間関係であったり・仕事・ステータス・恋愛・趣味・その他もろもろ全てに通じてくる話です。
それらを失ったとしても「わたし」は損なわれない。
なぜならそれらは「外付け」であり「わたし」ではないから。外的要因だから、です。
これが腑に落ちない間は「エゴ」にとりつかれ囚われている、という目安になります。

エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。


ここを読んだ時「ほお!」と、大変おどろいたのを覚えています。
自分個人の問題じゃないなら、他人(エゴ)事なの?!そりゃ面白い、とw
そして私がすぐ実践を始めた事があります。それは、腹立たしいことや不愉快な想念が
浮かんできた際や・プライベートな日記を書いていて、わだかまりが文章に表われてきた際、
語尾に「~と、エゴが申しております」 と付け加えてみる事でした。
つまり、自分の意見じゃありません、エゴの意見です、という事にしてしまうのですw
これをやってみると、とても客観的に見ることが出来ますし、なんか面白い。
例えば「OOむかつく! と、エゴが申しております」とか
「XXいい加減にしろよ!と、エゴが申しております」という風に。
これは妄想の暴走を止めるのにも、とても効果があるのです。
憶測に対して「~じゃないか?、ってエゴが申しております」とすれば、あれっ?! 
それ、真実じゃないよね・・。確かめもしていない、勝手な想像だよね?
相手に聞いてみなければ、わからない事だよね。
なにわだかまってんだろう・・確認すればすむことじゃん!・・と発想の転換に役立ちました。
「~と、エゴが申しております」を習慣化すると、わだかまる時間も不毛な脳内会議も
どんどん短縮されていくのです。 
あ、いま自分はエゴに囚われてるな・・と気付き、その時点で思考を止めることができます。
ただ、ここで勘違いしてはいけないのは「善からぬことを考えている私が悪い」と我慢するのとは
違うという事です。 思考を止めるとは=自分の感情を、押し込めることではありません。
あくまでも、いま「こういう気持ちを抱いてるんだな(エゴが)」と、気付くだけでいいのです。
客観視しても、怒りやわだかまりが消えない時は
「自分(エゴ)が何をじぶん(真我)に解ってほしいのか?」を考えます。根問いです。
相手ありきの事柄であっても、自分が何を解ってほしくてその状態に在るのかを客観視して
答えを出す。

そこでわだかまりと一心同体になってイライラ・モヤモヤを続けていても、時間がたてば忘れますが、
根本的に解決はしていないので、またいずれおなじことを繰り返します。
ほんとうの自分の気持が解れば、相手に伝える事なくともあっさり溜飲が下がったり・
解決してしまうものなのです。 本当です。 これは経験した人にしか解らないと思いますが・・。

思考を止めることが習慣となれば、悪い・よからぬ想像が肥大化していくことを防げるという事で、
するとどうなるか、そこには平らかでなだらかな心の状態「いま」に在るが常態化するのです。
「~とエゴが申しております」とすると、自分がいかにくだらないことに腹を立てているのか・
自分が考えたり想像をめぐらしたところで、真実なんてわからないことに怒っているのか・
わだかまっているのか、とてもよく解って、時に脱力しますし、笑えます。 
まさに「自己観察」です。
あくまで私の場合ですが、この方法は効果的だと感じました。 
エゴを克服されたい方は、一度お試しください。

余談ですが、私が「~とエゴが申しております」を実践しはじめて一カ月くらい経った頃、
ふと「こんなに悩まない・考えないなんて、私はこのさき馬鹿になってしまうんじゃないか?」と
頭の中のおしゃべりが来ました。
そして「えっ・・?!私、悩んだり考えたりしない人=馬鹿だって思ってきたんだ!」と
古い思い込みに気付いたのです。 
我ながらビックリしました。若いころからよく周囲(外部)に「祥蘭は考えすぎだよ」とか
「あまり悩まないようにしてね」と、アドバイスされる事が多かったんですが・・。
確かにいつも何かを考え・大なり小なり悩むことが常でした。現状に満足するという事が無い時期も
ありました・・特に、30代手前で女子部の活動に戻った頃。
そして「すっごくよく考えてるんだね!」「いろんな(社会の)問題に関心が高いんだね!」と
他人から言われることに、ものすごい優越感を覚えていた事も思いだしました。
決して、そう言ってくれた方が私を「誉めた」とは限らないのに(暇なのね、にオブラートをかぶせて
そう言っていただけかもしれないのに)おめでたいことにw私は誉められたと勘違いして
喜んでいたのです・・。ほんと、我がことながら、面白くて笑えます今はw
私は、どこかで「悩まない・考えない人は馬鹿」という強い思い込みを握ってしまっていた。
だから、常に頭を忙しく働かせ、悩まなくていい事を悩み・考えなくていい事を考え思いをはせ・
問題にしなくていい事を態々問題化し・なにもかも自分の問題にして背負いこみ抱え込み・・と
やってきたんだなぁ~と。 なぜなら、馬鹿だと思われたくないから。馬鹿になりたくないから。
そら、疲れるわ!とw
そして、この「悩まない・考えない人は馬鹿」というメンドクサイ思い込みが何由来なのか?と
考えると・・やはり、創価教育(家庭内プロパガンダ)ではないかと行きあたり。
「悩みが無いのが幸せではない」 ←こんな言葉、子供時代からずーっと聞かされてきました。
ためしに”悩みが無いのが幸せ 創価”でぐぐると、上記が池田老人の指導だと判明しました。
やっぱり・・w

悩まなくても、考えなくても馬鹿ではありません。 当たり前のことですが。
そして、自分がいかに悩まなくても考えなくてもいい事を「態々」悩み・考え・問題化し、
勝手にわだかまり、無駄な時間を過ごしてきたのか・・と気付いて、唖然としました。
私が何度か「生きることがとても楽になった」と書いているのは、
この無駄に「悩み・考える」という時間が・無駄なことにエネルギーを使うことで精神的に疲弊し
パフォーマンスを下げることが、無くなったからなのです。
本当に気持が穏やかになりましたし、細かいことにいちいち腹も立たなくなりました。

「悩み・諸問題を考え」ている時は、決して楽しくはありませんし、わくわくもしません。
建設的では無い方向へむかったり、ただ嘆いてみたり、何かを叩くくらいしか出来ないのです。
問題点をあげつらうばかりで解決策を示すわけではない、そんな人をメディアやSNS上で
公人私人にかかわらず、よく見かけますが、そういった人たちは総じて楽しくなさそうですし・
わくわくともしていないでしょう。
一つ言えるのは、そういった人たちは「悦に入る」ことでバランスを保っているんだな、という
ことです・・そして過去の私も、創価問題に対してその傾向が大いにありました。
いうまでもなく、その思考性はエゴのなせる技です。
同じ「思考」であっても、楽しいことや・わくわくする事に時間を使えばいい。
そのほうが、ずっと平穏で心豊かであることは間違いないのです。

もと創価脳の方で論じ好きwなお方は、上記のような思い込みがないか少し振り返ってみると
何か発見があるかもしれません。ご参考まで。

それと、お問い合わせがあったのですが
私が本文紹介に書いているページ数は、電子書籍版のページ数です。
実物(書籍版)の方とは違いますので、ご了承ください。

私があれこれ語るよりも、いちど読んでいただく方が
きっと何万倍も早いです↓まだのかたは是非。
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(次回に続きます)

「ニュー・アース」第二章(2)

頭のなかの声

私が初めてアイデンテティの移行を体験したのは、ロンドン大学の学生の時だった。(中略)
あるとき地下鉄で、三十代はじめとおぼしき女性が向かいに座った。(中略)
地下鉄は満員だったのに彼女の両隣には誰も座らない。理由は、彼女がどうも正気には
見えなかったからだ。何やらいきりたって不機嫌な声を張り上げ、休みなく独り言を言っている。
自分の頭のなかの考えに夢中で、周りの人々にも状況にも全く気付いていないらしい。(中略)
私は好奇心に駆られ、方向が同じあいだはあとをつけてみようと思った。(中略)
もしや、彼女は私と同じところを目指しているのか?そう、確かに彼女はセネート・ハウスに
向かっていた。教員か学生か、あるいは事務員か司書なのか?それとも心理学者の
調査プロジェクトの被験者?答えはわからなかった。(中略)
私はいま目撃したことに衝撃を受けていた。
二十五歳でそれなりに成熟した大学生だったから、自分は知的な人間だと思っていたし、
人間存在のジレンマに対する答えは全て知性を通じて、つまり思考によって見出すことが
できると信じて疑わなかったのだ。
気付きのない思考こそが人間存在の主たるジレンマであることをまだ悟っていなかった。
教授陣はすべての答えを知っている賢者で、大学は知識の殿堂だと振り仰いでいた。
あの女性のような正気とは思えない人がその大学の一部だなんてことがあるだろうか?
図書館に行く前にトイレに入った時も考え込んでいた。
手を洗いながら、あんなふうになったらおしまいだよな、と思った。すると隣にいた男性が
ちらっとこちらを見た。私は思っただけでなく、口に出していた事に気付いて愕然とした。
なんてことだ、もうすでに同じだ。自分も彼女と同じように絶え間なく心の中でしゃべり続けて
いたのだろうか?私と彼女にはわずかな違いしかなかった。
彼女の思考に圧倒的な優位を占めているのは怒りらしいが、私の場合は不安、それだけだ。
(中略)
一瞬、私は自分の心から離れて、いわばもっと深い視点から自分を見ていた。
思考から気付きへの瞬間的な移行だった。
私はまだトイレにいたが、他にはもう誰もいなかったので、鏡に映る自分の顔を見つめた。
そして自分の心から離れたその一瞬に、声をあげて笑ったのだ。
狂気じみた笑いに聞こえたかも知れないが、それは正気の笑い、恰幅のいいブッダの
笑いだった。
「人生なんて、お前の心が思いこみたがるほど深刻なものじゃないよ」この笑いはそう語って
いるようだった。
だがそれもほんの一瞬のことで、たちまち忘れ去られた。
それから三年間を私は不安な鬱々とした気分で、思考する心に自分を完全に同一化して
過ごした。(中略)
だが、私はまだ、思考を培う以外の選択肢を見つけることができなかった。
思考は意識のほんの小さな側面でしかないことに気付かず、エゴについて何も知らなかったし、
ましてやそれを自分の中に見抜くことなどできはしなかったからだ。(p73-79抜粋)


上記内容は、この記事に貼った動画のなかでも語られています。
エックハルトが「頭のなかのおしゃべり」に初めて気付いたエピソードです。
トイレでのくだり部分を読んだ時、私にも似たような経験があるなぁ・・と思いだしました。
実際声に出すか・出さないか/行動に出るか・出ないかの違いだけで
どんな人間にも意識のない思考・衝動が存在しています。
意図せず無意識に本音が「声」になって口をついて出て、すっごく焦った、という経験のある人も
きっといると思います。 
声じゃなくても、ため息とか・舌打ちをうっかりしてしまって「やべぇ!」といった場合も
あるでしょう。 
焦るのはそれが、エゴの声(反応)だから。
エゴの声とは「他人に知られたら恥ずかしい・気まずい・よからぬ内容」とも言えるかも
しれません。

エックハルトが、鏡に映る自分を見て、声をあげて笑ったというクダリについても
自分で自分の尋常でない緊張っぷりや・怖がりぶりに気付いた時、情けないのと可笑しさで
おもわず笑ってしまう・・という状況と同じではないかと。 これも、誰しも経験があると思います。
まさに「我にかえる」状態です。
笑っている自分が「真我」であって、極度の恐怖や緊張に囚われたそれは「エゴ」の姿だ、と
考えるとわかりやすいかと思います。 
(自分を俯瞰で見ているもの=真我、思考が離れることなく完全一体化した状態=エゴ)
「はっと我にかえる」ことが「気付き」と呼ばれる状態かと私は解釈しました。
解りやすい例でいえば、創価脳が組織や爺様の悪口でもいわれようものなら、
条件反射や脊椎反応で道理の通らないことを言いかえす姿=エゴに囚われた状態でしょう。
逆も同じことで、創価話題や創価脳の言葉に脊椎反応し、怒り鬱憤、なにか一言言わずには
いられない!と応戦してしまうアンチも、エゴに囚われた状態です・・気をつけたいと思いますw

エゴの中身と構造

エゴイスティックな心は完全に過去によって条件づけられている。その条件付けは二つの面から
行われる。中身と構造である。(中略)
あなたのアイデンテティの中身は環境や育ち、文化によって条件づけられる。
子供が豊かでも貧しくても、動物に似た木切れの玩具でも精密な電子玩具でも、なくしたときの
苦しみと言う点では同じだ。どうしてそんな苦しみが生じるか、その理由は
「私の、僕の(my)」という言葉に隠されている。これが構造である。モノとの結びつきによって
自分のアイデンテティを強化したいという無意識の衝動は、エゴイスティックな心の構造に
しっかりと組み込まれている。
エゴが生まれる最も基本的な精神構造の一つがアイデンテティである。
「アイデンテティフィケーション(同一化)」という言葉の語源は「同じ」という意味のラテン語idemと、
「作る、為す」という意味のfacereだ。何かにアイデンテティを求める、同一化するというのは、
「それを同じだとする」という意味なのだ。なにと同じだとするのか?
「私(I)」である。私はそれに自己意識を付与し、それが私の「アイデンテティ」の一部になる。
最も基本的なレベルのアイデンテティの対象はモノだ。(中略)
私はモノに自分自身を見出そうとするが、しかしそこに完全に同一化しきって没入することは
できない。それがエゴの運命なのだ。
(p79-81抜粋)


エゴ=あらゆるモノ・コトに対する執着心であり
自己存在の証明=自己顕示欲・・虚栄心も、エゴに含まれていると思います。
基本的なレベルのアイデンテティの対象はモノだ、という事ですが、確かに虚栄心のカタマリの
ような人は、所有物(モノ)にそのエナジーを強く反映しています。
そういえば、晩年顕彰集めに暴走した名誉欲の塊みたいな爺様(とその周辺)もいますねw
どれだけメダルが集まっても、そこに完全に同一化しきって没入することはできませんし、
一部の支援者をだまくらかす事は出来ても、お金で買い集めているという事実を知れば
誰一人として、その大量のメダルを「誉れ」だとは思いません。
「どうだ凄いだろ!」と思っているのは、エゴと無意識状態の支援者だけです。
また、モノとは違いますが役職やポジションにしがみつき、永遠に降りようとしなかったり、
聞いてもいないのに「自分は組織幹部だ(だった)」「こんなにあれこれやってきた」
「全部私がやってきたんです!」と過去の栄光(?)、功績をアピールする人も、
エゴ臭きついなーと感じます。 

アイデンテティとしてのモノ

広告業界の人間は、ほんとうは必要ないモノを売りつけるためには、それを持っていると
自己イメージが、あるいは他者から見たイメージが変化すると消費者に思わせなければ
ならないと知っている。言いかえれば、自己意識に何かを付け加えられます、ということだ。
(中略)このとき無言のうちに想定されているのは、この製品を買えば不思議な作用が働いて
あなたは彼ら(注:広告塔)のようになれる、もしくは彼らのイメージとそっくりになれる、
ということだ。だから多くの場合、人は製品を買うのではなくて「アイデンテティの強化」を買う。
(中略)いわゆる消費社会が成り立つのは、人がモノに自分自身を見出そうとする努力が
どうしてもうまくいかないからである。エゴの満足は長続きしないから、さらに多くを求めて
買い続け、消費し続けなければならない。

勿論私達の表面的な自己が生きている物理的な次元ではモノは必要だし、暮らしに不可欠で
ある。住まいも服も道具も乗り物も必要だ。それに美や固有の質のゆえに高く評価される
ものもあるだろう。私達はモノの世界を毛嫌いするのではなく、尊重しなければならない。
(中略)
エゴがモノに同一化しようとするとモノへの執着や強迫観念が生まれ、そこから進歩の唯一の
ものさしが常に「より多く」である消費社会と消費構造が生まれる。
これは自己を増殖させることだけが目的であって、実は自分がその一部である組織体を破壊し
自分も破壊する結果になると気付かない癌細胞と同じ機能不全である。(中略)
スピリチュアルな実践として自分を振り返り、モノの世界との関係、とくに「私の(my)」
という言葉を付されるモノとの関係を見直してみることをお勧めする。
たとえば自尊心が所有物と結び付いているかどうかを判断するには、注意深くて正直で
なければならない。あるモノを持っているというだけで、なんとなく自分が重要人物だとか
優れた人間だと感じないか?
他人の目や他人の目を通じて自分自身に映る自分の価値を引きあげるために、
さりげなく自分の所有物をほのめかしたり、見せびらかしたりはしないか?
誰かがあなたより多くをもっているとき、あるいは大事な物を無くした時、恨みや怒りを感じ、
自分が小さくなったように感じることはないか?
(p81-87抜粋)


「他人にどう思われたいか」「自己顕示欲」ありきのモノ選びは、軸がぶれがちで、
次から次へと珍しい新しいものが出れば欲しくなり・際限もありません。
「他人に見せる」ことが第一目的になれば、たくさん持っていると思われたい・新作が出たら
誰よりも真っ先に持ちたい・イイものが欲しい・・と、なるのが常です。 
そんなアイデンテティ強化としての所有・消費行動は、きりがないよとエックハルトは
教えています。
下線を引いた自尊心のクダリを読んで、私がまっさきに思い浮かべたのは、
某SNSの、いわゆるキラキラアカウント。
こんな事件もありましたが
そこまでしてSNSで、不特定多数の人に「自分」をどう思われたい・見られたいというのか?
これらも、エゴにとりつかれた、無意識状態の姿といえるかと思います。

エックハルトがネット上での出会い
(会ったことのない人物)のイメージが独り歩きする事について語っている動画です。
なかなか興味深い内容です。ごらんください。


人は「見た目」や「持ち物」前回書いた「外付けパーツ」に意識を奪われ・騙されやすい、
とも言えます。
相手の本質なんて全くわかりもしないのに、そういった付属物を見て勝手に想像を膨らませ
「素敵な人」「すばらしい人」なんて、思いこんで憧れたりしがちです。
爺様がメダル蒐集家になってしまったのも、外付けパーツの増強で「素晴らしい大師匠!」と
みんなに思われたかったからでしょうし・そうすることが「カリスマ性」を強化すると
信じていたからに違いないと思います。
一部会員はまんまと「世界に認められた偉大な師匠!」と、羨望のまなざしで見ているわけなので
狙いどおりだったわけですが・・ほんと困ったもんですね?!
「人間革命」なる小説のいち主人公を爺様本人だと思わせ、主人公の人物像は会員の想像で
どんどん膨らみ、さらに「偉大なる師匠」像にハクをつけています。
上で紹介した動画でも指摘されている通り、全ては「メンタルイメージ」なのです。
半分は組織の意図的プロパガンダ・もう半分は会員個人の思考が勝手に、作り上げたもの。
繰り返しですみませんが、私は「師弟観」がまるでない人間なので、バリ活当時も・アンチ以降も
師匠命!な創価脳の事が全く理解できませんでした。 
が、これが「思考=エゴ」のなした事だった、と知ればとたんに腑に落ちましたw
みんな、まさに「恋に恋する」状態なんですね・・件の3人もしかり。

また、エックハルトは「モノを持つ(買う)ことがよろしくない」と言っているわけではなく、
「モノを自己意識の肥大に使うのはエゴだよ」と言っています。
モノはモノとして自分の娯楽、趣味として楽しんだにしても、それらが「幻」である(幻になる)と
判っていれば、モノに対して軽やかな気持ちでいられる。
自己意識の一部だという考えをもってしまうと、執着や差別観がうまれる。
モノが自分の一部などという、誤った認識を持たなければ、強いエゴを発揮しないで済むと
いうことでしょう。
執着心(エゴ)を手放すために喜捨しなさい・・なんて、高額なお布施を要求する
宗教まがいの団体や・占い師・霊能者(頗る怪しい)がいるようですが、それは完全に詐欺で
間違ってると私は思います。
某ロックミュージシャンの洗脳騒動も記憶に新しいところですが。
エックハルトのいうように、本人の意識の変容ひとつでエゴはエゴでなくなるのです。
モノ(お金)との向き合い方・姿勢の問題であって、物理的に手放すという事とは
違うんじゃないかと。 「どうするか」じゃなくて「自分がどうあるか」の問題でしょう。
脱創価をしても、拠り所がないと不安で、上記した「まがい者」に依存し騙される方もいると
聞きました。気をつけてほしいと思います。 

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


エゴの性質については、まだまだ序の口でこの先も解説が続々出てきます。
結局のところ「思考」そのものがエゴであり、
思考を超えたところにあるのが「悟り」だということです。

当初、なかなか自分の思考が「エゴ」だなんて信じられない!自己否定されたみたい・・と
私は憮然としていました。 が、「ニュー・アース」を読み進めていくうちに・思考を止める・
思考に囚われないという状態を意識してみるうちに、なるほど、その通りだなぁ・・と
腑に落ちたのです。

前々回に少し触れた津留晃一さんの教えで
「出来事は高次で見れば良いも・悪いもない。中立である」というものがあります。
出来事そのものは中立だというもので、
人の思考がその出来事を「良い」「悪い」と意味づけ、判断つけているのが本当のところなのです。
そして繰り返しですが「思考とは過去からの条件反射」です。そこには裏付けがあります。
同じ出来事に対して、スルー出来る人もいれば・殊更執着を燃やす人もいるように、
それぞれ「思考の背景」が違うため、トリガーポイントも千差万別ということだと、
私は認識しています。

創価の矛盾について知った際、私にとっては天地がひっくり返るほどの衝撃でしたし、
何度も書いてきましたように、当時の私はショックから嘔吐したほどです。
「絶対正義」と40年余り信じてきたものが崩壊し、裏切られた!どうしてくれよう!となりました。
かたや、同じ母親の元で育った、学会3世意識のまったくない姉に
「創価がこうでああで、ウソつきだった・・」と話してみても
「そりゃそうだろうねー」「うん、それ知ってる」「まあ、宗教団体なんて金儲けが目的だよ」と
当然といわんばかりに、あっさりしたものでした。 
この差がいったい何なのか?私はここ数年謎でした。個人の資質も、もちろんあるでしょうが
これは確実に「思考の背景」の違いだったと、最近理解が出来ました。
姉にとっては最初から創価など「胡散臭い宗教ビジネス」が思考の背景だったのです。
はなっから信じてないからショックなんか受けません、あたりまえです。
私は運悪く「命よりも大事な御本尊」ありきの、創価は正義の団体だと叩き込まれ・信じて
疑わなかった。だからショックを受けた。 それだけの話だった、と今は言えます。
なにも特別なことではなく、「思考の背景」が変わっただけ。
私の思考が、創価への評価を「いい」から「悪い」に変えてしまっただけであり、
創価は大昔から、一定の人たちから見れば「胡散臭い宗教団体」でしかなかった、のが現実です。
(「じゃあ創価は悪くないのか!騙された方が悪いというのか!」と怒り出す人がいそうですがw
 高次から見れば「いい」も「わるい」もない、という話です。個人的感情論は挟みません)

そして、覚醒ですっかり「思考の背景」が変わってしまった私は、命より大事だった御本尊も手放し
現在は神棚をまつっています。 
たまたま、神道に心惹かれてそうしましたが、きっかけ次第でキリスト教へ傾倒することだって
あったかもしれないし、一周回って正宗へ帰依した可能性だってある。
(神道に惹かれた経緯については別記事で後日書きます)
心理学にふれたことも、エックハルトをはじめとした現代の覚者の教えに傾倒していることも、
これを他人が「良い」「悪い」とジャッジするのは、全く意味がありません。
だって全員、思考の背景が違うのですから。 
「思考の背景が各個人で違う」と理解できれば「高次で見れば出来事は中立」だということが
なんとなくでも、わかると思います。
まさに表も裏も・いいも悪いもぜんぶ繋がっている、「メビウスの輪」です。

私が創価の矛盾に気付いてアンチになったのが、2012年の9月でした。ちょうど4年が経過します。
40年以上、創価を信奉していた事や・創価脳の母vsアンチの父ときょうだいという構図の家庭に
生まれ育ったことを、私は「ものすごく不幸だった」と思ってきました。
その思いはアンチになってからの方が強く、消せない黒歴史、膨大な時間を無駄にしてしまった、
善意の他者を巻きこんで申しわけなかった云々・・他にも言葉にならない、イヤな思いがありました。
これらは確実に「思考の背景」となって、アンチ創価濃度を増していたと思います。
こんなブログを立ち上げたのだって、ただでは済まさねぇ!という気持ちがありました(何を?w)。
繰り返し書いてきたとおり「仏罰は無い」を証明しなくては!という思いもありました。
今年に入って精神的に大きな動揺(とある出来事)があり、エックハルトの本に出会えたことで
エゴのメカニズムについて理解を深めていくうち、再び「思考の背景」は変化しました。
今はもう、創価脳だった40年あまりは私にとって「黒歴史」ではありません。
「今、こうなるべくして、通った不可避の道」だったと思えるようになったのです。
そうであった事で、私は何かから守られてきた面もあると考えました。
創価脳じゃなかったとして生きた人生が、良かったか・悪かったかなんて、今となっては
解らないという事です。 そこをえんえんクヨクヨしたり・恨んでたって、どうしようもない。
そう生きた事に悔いなし!とまでは言わないけれど、過ぎた事に意味は無く、「いま」が大事。
これはこの記事で取り上げた「未来から流れてくるボール」の話と同じです。
それが腑に落ちたら、もう創価は問題でも恨み事でも無くなるし、お笑いネタになりました。
最近読んだバシャールの本で「パラレルワールド」という言葉が出てきたのですが、
”自分の思考背景が変われば過去の出来事への評価も全て変わる(次元上昇)”とあり、
こういう事なのかもな、と感じました。
勿論、一足飛びにこんな心境に到達できたわけではありません。過去記事をみてもらったら
解るとおりですが。
様々な出来事や思いを経、創価問題とは別のところで精神的に衝撃を受けた
(とある)出来事があり、「ニュー・アース」を読んでエゴの存在、正体、メカニズムを知って
私はこんな心境に至りました。
そしてエゴがどんなものか把握してしまえば、生きることが実に楽になりました。
また自分がいかに「思考」に囚われて、物事や周囲の人物・すべての事象への評価を偏りで
「ネガティブ」なものにしてきたかが解って、驚愕しました。
創価問題も同じことで(私はたまたま「ニュー・アース」と出遭う少し前に、母が自ら
非活への道を歩み出していましたが・・)実はなにも問題ではなかったし、私が悩まなくて
よいことだった、と解りました。
ただ、在る程度の期間そこで悩み七転八倒する経験がなければ、私は「いま」を迎えることが
出来なかったのでしょうし・早い段階で「ニュー・アース」を読んでも、理解できなかったんだと
いまはわかります。
(腑に落ちるべきタイミングが各々あるのだ、ということです。)
「いま」を生きることが面白いのに、いつまでも「済んだ事(過去)」「他人事(家族の創価問題)」に
悩んだり「問題化」していたら、勿体ない。
もっといえば「アンチ創価」をアイデンテティとして生きるのって、果たしてどうなのか?wと。
もちろんそれが「人生の楽しみ」だという人のことを、止めはしませんが・・。

「思考を止める」と、思考の裏付けとなっている過去からの様々な思い込み・
ビリーフ(無意識の信念)・固定化された価値観・先入観などが、働かなくなります。
エゴが働かなくなって初めて、真我が働くようになります。
先入観や思い込みのない、無の状態から出てくる本当の「思い・感情」です。

子供時代から特定の思考回路を持つように植え付けられてきた「創価脳」ですから、
自分で矛盾に気付くのは相当に難しい事で、気付けたことは「天啓(天からの啓示)」だったと
言えるほど、すごい出来事だと私は思っています。
集団的エゴ(=創価)から抜け出し、偏考で自縄自縛・排他的に生きる事から脱却できたのは
私にとってはありがたいことでした。
が、集団的エゴから抜け出してもなお、偏りを見せ、対象を憎み・恨み・間違いであると
叩き続けることを、まだ目覚めない活動家の家族や知り合いのことで思い悩んだりすることを、
えんえんやっているようでは、結局それもエゴに囚われた状況で、何も変わっていなかったのです。 
それはまさしく「エゴ」のしわざで、経験上私が思うに
なぜ執着するかと言えば、創価が正しいと騙されて信じてきた「わたし」は
間違っていなかった。
あくまでも「創価」が悪いんだ!「わたし」は悪くないんだ!と、エゴがわめいているのです。
「わたし」を悪者にしたくない!と、必死の抵抗をしていた。
ここでいう「わたし」とは、勿論「エゴ」そのもので、本当の自分ではありません。

そして創価に対するネガティブな想念・そこから出る言動は実際「あなた」の役目でも仕事でもない、
あなた自身が望んで本当にやりたくてやっていることではない。 
エゴがやらせていることだと、気付けばいい(気付いたら楽になります)。

次の章でエックハルトは教えてくれます「エゴは、あなたではない」と。

思考に囚われているうちは、どんな恨みもつらみも苦悩も、消えるはずがありません。
エゴは恨みたい・悩みたい・問題にしたい・モヤモヤしたい・わだかまりたいのです。
それこそがエゴが存在するためのエネルギーだからです。
エゴは存在し続けるために、怒りや恨みや鬱憤に燃料を注ぐような情報ばかり集めるし、
自然と引き寄せます。
社会に対する不安や不穏、混乱に関するニュースにばかり反応するようになる・
そのテの問題について「思考」したがるようになる。
そしてそれを多くの人と共有したいと、拡散する。
自分自身がネガティブ(エゴ)を発信し・それとおぼしき現実を寄せ付け・さらに拡散するという、
負のループ・機能不全に陥るのです。
SNSはまさに情報を引き寄せるためのツールですから、使用している方は気をつけて、
自分が何に強く反応しているかを、時々、自分を俯瞰で見てチェックしたほうがよいかと思います。
私生活にまで不安や不穏を引き付けるような事態になっては、意味がありません。

真の覚醒とは、両極を知って真中に戻る。エゴを超越することだと
いまの私は思っています。

創価の矛盾に気付けないまま一生を終える人も、その人がそれを幸福だと思うなら
幸福だと言えます。
信じているものに裏切られることなく、終わって行けるんですから。
「あいつは創価にだまされたまま人生終えて不幸だ」という評価は、外野が下す評価です。
本人の評価ではないので、その本人が「幸せだった」なら、それ以上でも以下でもありません。
物事の評価を下しているのは「自分の思考」でしかなく
その「思考」とは「過去からの条件反射」で、ほんとうの自分ではないのです。
(でも、外野から見てるとやってることは「馬鹿みたい」に思えてしまいますが・・
 それはエゴがそう感じているだけの話、らしいですw)

要は「自分の内側」に全てがあるということで、外野は関係ありませんし問題ではありません。
エックハルトをはじめとした現代の覚者(津留晃一さん、バシャール:ダリル・アンカ)は
そう教えてくれています。
それは仏教用語でいうところの「随自意」で生きましょう、ということです。

またしても長文になってしまいました。 気分転換にお花の写真でもどうぞ。
top17c.jpg
散歩道で発見した秋。

(次回に続きます)

「ニュー・アース」第二章(1)

第二章 
「エゴという間違った自己のメカニズム」


世界をありのままに見る

言葉は発音されても、あるいは声にならず思考にとどまっても、ほとんど催眠術のような
力を及ぼす。言葉の前で人は簡単にわれを失い、何かに言葉を貼りつけたとたんに、
まるで催眠術にかかったように、それが何であるかを知ったと思いこむ。
ところが実際には、対象が何であるかなどわかっていない。ただ、謎にラベルを貼っただけだ。
小鳥も樹木も、その辺の石ころでさえ、ましてや人間を究極的に知ることはできない。
計り知れない深さを持っているからだ。私達が感知し、経験し、考える事が出来るのは
現実の表層だけで、海上に出た氷山の一角よりも小さい。
その表面的な見かけの奥ではすべてが全体と繋がり合っているだけでなく、全てが拠ってきた
「生命の源」とつながっている。
石ころでさえ、花や小鳥ならなおさらのこと、「神」へ、「生命の源」へ、あなた自身へと戻る道を
示す事が出来る。
相手に言葉を付与したり、頭の中でラベルを貼ったりせず、ただ手にとって、ありのままを
見つめれば、驚異と畏敬の念がわきおこるだろう。
対象の本質が無言のうちにあなたに語りかけ、あなたの本質を照らし出す。偉大な芸術家が
感じとり、作品を通して伝えるのはこの本質だ。(中略)
言葉やラベルをはりつけないで世界をありのままに見れば、
はるか昔に人類が思考を使うのではなく思考に縛られたときに失った奇跡のような畏敬の念が
蘇る。人生に深さが戻ってくる。ものごとは再び初々しさ、新鮮さを取り戻す。最大の奇跡は
自己の本質を経験できる事だ。
その本質は言葉や思考や知的なラベルやイメージに先行する。それを経験するためには、
「自分(I)」という意識、「在る(Beingness)」という意識を、自分と混同されているすべて、
自分を同一化しているすべてから切り離さなくてはならない。
自分をモノや事物から切り離すこと、それが本書のテーマである。


ものごとや人や状況に、言葉や知的なラベルを急いで貼りつければ貼りつけるほど、
あなたの現実は生命力を失って浅薄になり、現実をいきいきと感じとれなくなって、
あなた自身の内側や周囲で展開されている生命の奇跡に対する感覚が鈍くなる。
小賢しさは身についても智慧は失われ、喜びや愛や創造性や生き生きした躍動感もなくなる。
(中略)
もちろん私達は言葉や思考を使う必要がある。言葉や思考にはそれぞれの美があるー
だがそこにとらわれてしまう必要があるだろうか?(p62-66抜粋)


第一章(1)で書いた内容と被るのですが、対象物を見つめたとき、瞬時に私達の脳裏には
無意識にその対象物の「名前」が浮かんできます。
名前の次くらいに、自分が知っているいくつかの情報・記憶が浮かんでくるといった状態は
軽く浅くその対象物を「認識」したというだけ。
人間に対しても、同じ事がいえると思います。
OO市に住んでるA田B子さんという女性がいたとして、
姓名と幾つかのプロフィールで概ねその人を知ったような・認識したような気にはなっても、
実際A田B子さんの本質や究極的な全てにその知識(姓名+プロフィール)は迫っていません。
もっといえば、プロフィールで・言葉で語られる内容の殆どはA田B子さんの「外付けパーツ」です。
「外付けパーツ」(肩書き)は、時と場合によって形を変えます。
姓名だって変わる事がありますし、年齢は毎年カウントが上がるし、家族構成や社会的属性も
年を経て変わっていく可能性がある。
住まいも車も持ち物も趣味も時を経れば変わるでしょうし、増えたり・無くなったり、刻々変化する。
「外付けパーツ」の全てが一生を通じてまったく変わらない人間なんて、まずいないでしょう。

”自分をモノや事物から切り離すこと、それが本書のテーマである。 ”
自分から「外付けパーツ」を切り離すことが、「ニュー・アース」のテーマ、
その理由の一つは、この「外付けパーツ」に対する強い執着心が、
様々な機能不全(エゴ)を引き起こす要因になっているからです。

そして究極的な「自分・わたし」とは、外付けパーツも名前も、肉体すらも、
なんもかんもとっぱらった状態の「生命」そのものだと、私は解釈しています。

また、「言葉」についての深く鋭い洞察とその表現は、エックハルトならではだと感じます。
言葉の持つ力は良くも悪くも大きいけれど、なにもそれがすべてではないし
言葉だけで伝えきれない物事って山ほどある。 
にもかかわらず、言葉に一方的に振り回され、決めつけ、誤解が生じることも非常に多くて。

そういえば、「言葉のインパクト」って強大で、思いのほか記憶に刷り込まれ・
それが「前提」となってしまう危険を持っている・・と、気付かされた事が先日ありました。
女子部時代の幹部で元気と声の大きさだけが取り柄(?!)のような御方がいらして、
不遇を信仰で這い上がりました!(母子家庭だけど有名大卒)という人だったのですが
幹部指導の際、事あるごとに「人生悪くて当たり前!」と、満面の笑み&大きな声で壇上から
叫んでいましたw まるで、キャッチフレーズのように。
”悪くて当たり前なんだから、信心をして少しでも良くなればラッキーじゃん!”という激励(?)。
その方のことを、帰省時に母から聞きました。
詳細は書けませんが波乱万丈、いい話ではありませんでした。
そのときふっと、「人生悪くて当たり前!」っていつもその御方が叫んでいたなぁ・・と思い出し、
うわー!と、悪寒が走ったのです。 偶然かもしれませんが、そうは思えず。
思い込みが、信念と現実を作る・・という話を、心理学周りでよく耳にするのですが、
本当にそうなってるじゃんorzと。
きっとご本人はポジティブな意味でその言葉を使っていた(つもり)であろう事が・・。
”声仏事をなす”と言いますが、だったら「人生良くてあたりまえ!」と叫んだらいいのです。
そう思って・信念にしてしまえば、現実もそうなるのですから。

頭で「思考する」事よりも、物事や対象・状況をありのままに見、
「感じとる」こと・感覚を研ぎ澄ませてみていくことの大切さを、エックハルトの表現の端々から
感じます。
言葉でラベリングして「知った気」「わかった気」になることは容易い。
頭を使う事よりも、思考を外した状態での「知覚」「フィーリング」を、もっと研ぎ澄ませて
直観を優先して行くことが必要ではないかと、「ニュー・アース」読了後の私は強く感じ、
意識するようになりました。
これが簡単そうに思えて、やってみると結構ややこしいw
自分がいかに様々な「思い込み」「固定観念」を持って、思考で一瞬にして「それは違う・ダメ」と
自分の直観を打ち消そうと・・打ち負かそうとするか。 まさにエゴと直観の闘いなのですw
すっと、目的地に行かせてくれない。 誰が? エゴ(頭の中の声)がw
エゴの存在について理解していない時は上記の脳内押し問答が「当り前」の習慣でしたので、
なんとも思ってなかったのですが、一旦気付いてしまうと
「こりゃしんどい・窮屈な生き方になって当然だよなぁ・・」と、自分でも驚いたのです。
最終的にエゴの声を採用してしまったから「後悔」してきたんだろうな・・と、過去を振り返って
そう感じることも多々ありました。
「ああしてみよう・こうしてみよう」との直感を「ちょっと待て」と全力で止めに来るエゴw
「気が進まないからやめとこうかな」という直感についても同じくw
エゴに引きとめの理由を問いただせば、自分では無い他人(家族含む)への遠慮やら、
取り越し苦労の配慮など「じぶん」の率直な思いと関係ないことが大半。
最近やっと直感にそって、ぱっと思いついた・ひらめいた事を採用し動けるようになってきて、
ますます楽になりました。 
直感で動いて、おきてくる「結果」は、懸念ガチガチで動いた時より上手く行く事が多いですし、
そうでない場合でも「後悔」は激減しました。
(これも「ニュー・アース」を通しで読めばわかる法則?によるものですが、追って出てきますので
その時説明します)
おそらく人生の「悩み」8割はエゴとのせめぎ合いで出来ているんじゃないかな・・と
今の私は思います。

幻の自己

「私(I)」という言葉は、使い方次第で最も大きな誤りを引き起こすことも最も深い真実を
表すこともある。(中略)
日常的な使い方の「私(I)」には根源的な誤りがあり、あなたが何者であるかを誤解させ、
ありもしないアイデンテティを意識させる。この幻の自己意識は、時空の現実だけでなく
人間性についても深い洞察力を有していたアルバート・アインシュタインが「意識の光学的幻」
と呼んだものだ。
この幻の自己意識がその後のあらゆる解釈の、というよりも現実に対する誤解のベースになり
すべての思考プロセス、相互作用、関係性に影響する。
あなたの現実はこの根本に在る幻を反映する。

ところで、良い知らせがある。幻は幻と認識すれば消える、ということだ。
幻の認識はまた幻の終わりでもある。あなたがそれを現実と誤解している間だけ、幻は存続する。
自分が何者でないかを見極めるなかから、おのずと自分は何者かという現実が立ち現われる。
(中略)それでは幻の自己とはどんなものなのか?(中略)
両親が話す言葉を通じて用事が自分の名前を覚えると、その名前(言葉)は幼児の頭の中で
一つの思考になり、それが自分と同一視される。
この段階では、子供はよく「ジョニーはおなかがすいた」というように自分を三人称で表現する。
まもなく「私、僕(I)」という魔法の言葉を覚え、すでに自分自身と同一視している名前と同じように
使いだす。
次に、他の思考がこの「私、僕(I)」という思考と混ざり合う。この段階では「私、僕(I)」の一部と
みなされるモノを指す「私の、僕の(my)」「私のもの、僕のもの(mine)という思考がそれだ。
このモノと自分の同一化、つまりモノに自己意識をかぶせることによって、モノから自分の
アイデンテティを引き出す。
「私の、僕の(my)」おもちゃが壊れたり取り上げられたりすると、とてもつらい。
つらいのはそのおもちゃ自体が持っている価値の故では無く、「私のもの、僕のもの(mine)」
という考えのゆえである。
おもちゃは幼児が発達させている「自己意識」「私、僕(I)」の一部になっていたのだ。

子供が育つにつれ、「私、僕(I)」という思考は性別、持ち物、知覚される身体、国籍、人種、
宗教、職業など、他の思考を引き寄せる。他に「私、僕(I)」が同一視するのは、
母親、父親、妻などの役割、積み重ねられた知識や好悪などの意見、それに過去に
「私に(me)」起こった出来事である。(過去の出来事の記憶が「私と私の物語」として自己意識を
規定する)。
これらは人がアイデンテティを引き出す物事のほんの一部にすぎない。
そしてどれも、自己意識という衣を着せるという事実によって危なっかしくまとめあげられた
思考以上のものではない。
ふつう「私、僕(I)」という場合に指しているのは、この精神的な構築物なのだ。
もっとはっきり言えば、あなたが「私、僕(I)」と言ったり考えたりする時、だいたいはその主体は
あなたではなく、この精神的な構築物すなわちエゴイスティックな自己のいずれかの側面である。

(p66-71抜粋)


A田B子の話に戻りますが、
「外付けパーツ」と「わたし」を同一視し、「外付けパーツ」も「わたし(の一部)」と
捉えている人が、よのなか大半だと思います。
A田B子という名前、学歴、職歴、肩書き、持ち物(車や住居やブランド品や宝飾品)、
家族、ステータス、あらゆる経験、自己評価・・etc といった自分を構成している(と思われる)要素。
「外付けパーツ」が人生の幸・不幸を決定づけている・・と、ほとんどの人が固く信じています
(いわゆる相対的幸福観です)。
「外付けパーツ」とは、アイデンテティでもあるので、特定宗教にどっぷりハマっている人達が
「ボロは着てても心は錦だ!」と言っているのも、実際は「絶対的幸福」にはなりません。
その宗教団体に所属している・入信している・御本尊を持ってるという条件は立派な
「外付けパーツ」ですから、「相対的幸福」の分類になります。
絶対的幸福には条件付けなんかいらないのです。
というか、人は生まれてきたその時点で、何も持たなくても「絶対的幸福」な存在です。
エゴに囚われなければ「絶対的幸福」はいつでも傍に在ります。

ここ、見誤ってはいけないと思いますし、このロジック、創価脳への破折にお使いくださいw

この「外付けパーツ」を不本意な形で失ったり、他人から貶された時、「自分」は嘆き落胆しますし、
守らんとして、攻撃的になることもあるでしょう。
「外付けパーツ」ありきの「自分」を褒められることに喜びを感じます。
他人の「外付けパーツ」を羨み、妬み、嫉妬から悪口を言ったり・足を引っ張ることも
あります。
または他人の「外付けパーツ」と自己のそれを比較し、自信を失ったり・自分を責めます。
相手の「外付けパーツ」によって付き合いを選ぶこともあるでしょう。
そして「外付けパーツ」=外的イメージ・世間体や目を殊更に気にして、自分の本心とは真逆の
行動をとったり・振舞ったりしてしまうのも、ままあることです。
「外付けパーツ」に価値を追い求め、それこそが全てであると思いこんで一喜一憂・執着します。
だから失うと悲しいし、困惑する・・子供がおもちゃを失って悲しむのは「私の・僕の一部分」が
損なわれたように感じるから・・という一例を通し、
実はその「外付けパーツ」はエゴであり、「意識の光学的幻」 だとエックハルトは述べています。

ふつう「私、僕(I)」という場合に指しているのは、この精神的な構築物なのだ。
もっとはっきり言えば、あなたが「私、僕(I)」と言ったり考えたりする時、だいたいはその主体は
あなたではなく、この精神的な構築物すなわちエゴイスティックな自己のいずれかの側面である。

精神的な構築物=外付けパーツの事です。
これらは一瞬のうちに無価値に落ちることもあれば・変化し、時に失う事もある「儚い」もので
永遠の存在でないことは、誰にでもわかることだと思います。
究極でいえば、人の命が終わり瞼を閉じるとき、全てがその人にとって・周囲の人にとっても
幻になります。
だから「意識の光学的幻」とエックハルトは呼んでいるのでしょう。

そして「外付けパーツ」に躍起になり、失い奪われる事を恐れ、振り回される生き方は
「エゴ」に囚われた状態そのもので、
「外付けパーツ」が自分自身ではないことに気付きなさい・
「幻」について必要以上の執着を持ち「無意識」に振舞っていることに気付きなさい・
「じぶん」とは、ただ存在する「いのち」であることに気付きなさい・・と、指摘しているのです。

前後しますが、
ところで、良い知らせがある。幻は幻と認識すれば消える、ということだ。
とあるように、外付けパーツが「幻」であると認識すれば、思い込みや執着は消えます。
人生において苦しみを生んでいるかに見えるそれ(エゴ)が、実は「幻」だと知れば楽になる。
最初読んだ当時(2016年4月)は「んな馬鹿な?!」でしたが、
津留晃一さんやバシャールの本も合わせて読むうち、その構造について理解できるようになり、
現在は「本当だ」と思うようになりました。
津留さんもバシャールも量子力学やホログラムを通して現実世界の捉え方を教示していますが、
エックハルトの教えと通じるところが多分にあるのです(が、ここでの説明はやめておきます。
興味のある方は調べてみてください)
「幻」というか・・それら全てが永続性のないもの、一瞬にして価値が変わり消える事もあるもの、と
捉えれば誰でも腑に落ちると思うのです。

殆どの人は依然として、絶え間ない思考の流れ(大半が無意味な繰り返しである)や
衝動的思考に自分を完全に同一化している。
この思考プロセスとそれに付随する感情から離れて、「私、僕(I)」は存在しない。
これはスピリチュアルな無自覚状態を意味する。
頭の中には片時も止まらずにしゃべり続けている声があると言われると、
人は「それはどんな声か?」と聞き返したり、そんなことはないとむきになって否定する。
聞き返したり、むきになったりするのはもちろん、その声、考えている無意識な心だ。
それが人々を乗っ取っているとみることもできる。

自分の思考と自分自身とを切り離し、一瞬であっても、考えている心からその背景に在る
気付きに自分自身のアイデンテティが移行したことがある人は、その体験を決して忘れない。
(p71-72)


「頭の中の声」がここで出てきました。
四六時中、頭の中で自問自答が繰り返されている事に気付いている人はどのくらい居るでしょうか?
「胸の内」でも同じことだと思うのですが、たとえば何かを選択する必要に迫られた時
”Aにしよう” と思ったとたん
”いや待てよ?Aで本当にいいのかな。後悔しない?そんなに簡単に、きめていいの?”
”でもBはXXな理由で、気が進まない。Cは、何も知らないから不安だなぁ。やっぱAでいいよ”
”AはOOだから安心だよ” なんて、こんな逡巡を誰でも経験していると思います。
選択という行為が、思考に基づいて行われていることに気が付きます。
この「思考」こそが、頭の中のおしゃべりです。
そしてこの「思考」による頭の中のおしゃべりは「無意識状態」で行われている事がわかるでしょうか?
私が初めてこの個所を読んだ時は、「頭の中のおしゃべり」は、実に当たり前の現象すぎて
やっぱり「無意識状態」でした。 それは自分の心の声だ、と思いこんでいたからです。
あたりまえにそこにあったから、無意識で在ることにすら気付いてませんでした。
けれど、「ニュー・アース」を読み進めていくうちに、おしゃべりを止める実践をするうちに
徐々に判って行ったのです。
「ああ、”頭の中のおしゃべり”は、エゴの声だった」と。

選択だけではありません、何をしている時でも、寝ている時以外は
絶え間なく思考がおしゃべりを続けています。
現時点で無自覚な方は、いちど自分で観察してみてください。
このブログを読んでいる今この瞬間も「なんか、わけのわからない事書いてあるなぁ~」とか
「何が言いたいのかさっぱりわからない!」とか、「あとで麦茶のもう」とか
なんらかの想念が浮かんでいると思います。
こういった他愛もないおしゃべりは、それほど害が無いので普通にあって大丈夫ですが、
私がこの「ニュー・アース」を手にした時(今年4月)の状況下における「頭の中のおしゃべり」は
その大半が「自分責め」と「他人責め」「未来への不安」「過去への呪縛」だったのです。
これらの頭の中のおしゃべり・問答は、想像つくと思いますが、悲惨でいたましいものですw
そしてこの不安や恐れや疑問に関するおしゃべりは全く鳴りやまず・ダラダラ長引きますし、
今となっては全てが「無駄」で「無益」で「有害」なものでした。
この苦悩に満ちた思考状態も「エゴ」のなせる技であり、「機能不全状態」です。

何か悩みごとや不安、わだかまりがあるとき、いろいろと考えるのは常ですが、
ネガティブな考え事に対して、「思考を止める」という解決策をおすすめします。
考えても、どうしようもないことってありますし、悩みとは=不安であり、不安とは「わからない」
「(未来が)みえない」という気持ちの表れですよね。
で、わからない・みえないものを、わかってないし見えていない自分が今どれだけ考えても
出てくる答えが正答になるとは限りませんし、さっと出ない答えなら、悩んでいるだけ時間が無駄。
精神的な摩耗と疲労を生むばかりです。
考えてもわからない~悪い想像ばかりでてくる~!というサイクルが始まったら意識的に
「はい終了!」と自分に声をかけ、考える(思い悩む)のをすぱっと止めます。
深呼吸を繰り返し、呼吸を意識して「たった今、この瞬間に自分はなにも困っていない」
認識するのです。
声に出して、言ってみてもいいと思います。
頭をもたげていた混乱や苦悩は、「たった今」おこっている問題ではないことを認識します。
それは「過去」か「未来(明日)」の、たった今起きていない事だと認識するのです。
それらも「幻」なのです・・「たった今」は、おこっていないのですから。
「たった今」自分は何も困っていない。
この真実に気付くことが、機能不全から自分を取り戻す方法です。
そして「今にある」方法でもあります。
悩み深い方に、これを騙されたと思って、暫くやってみてほしいと思います。
「そんな事で解決しないじゃないか!」と、思われるかもしれません。 
そう思う方はいつまでも悩んでいてください。 
それがあなたの「やりたいこと・課題」なんだと思います。
「そんな事で楽になるならもうけもんだわ、やってみよう」って方は、ぜひお試しください。
これもいわゆる「問題の手放し」で、悩みが悩みでなくなり・苦悩は苦悩でなくなります。 
もう少し具体的な方法・理論的なことについては、のちのち本文に出てきますので
その際にもう一度、詳しく触れたいと思います。

話が戻りますが、エックハルトが教えてくれている大切なことのひとつが
 「自分の直感を信じる」 という事です。
直感には「ただ、なんとなく」だけで、これといった理由は無いことが多い(後付けする事はありますが)。
実はそこに、エゴ(思考の裏付け)のない「真我」の声があります。
以前も紹介したエックハルトの言葉 「思考は過去からの条件反射」とあるように、
私達は幼子の時代から特定の価値観や条件付けを植え付けられ・叩き込まれた思考回路を
持っています。 
そのパターンは気付きによって書き換えが可能ですが、ひとつひとつ「古い誤った認識」を
洗い出していく必要があります。
思考に頼らず、思考を挟まず・ただ自分の直感で「これだ!」「いまだ!」と、
なんの理由づけもなく心と身体が呼応するような事があるならば、その直観・直感を信じてみるのは
大事です。
そして「思考を止める」ことの繰り返しで、「直観・直感」が冴えてきます。

先日ふと思い出したのですが、私は高等部の頃に某グループのファンで
やっとチケットが取れ(題目あげたからとれたと信じてましたw)コンサートに行ける事になり、
その話を熱狂的にw高等部会でした事がありました。
すると女子部のお姉さんが「あまり夢中にならないように」とやんわり釘を刺してきました。
そんなことすっかり忘れた後日、自分のブログの過去記事を読んでいて、
女子部時代(25歳以下)は、恋愛禁止。
信心や御本尊様より大事な物ができて夢中になっては、修行の妨げになるから・・という
クダリを見て「ああ、そういう事だったのか」と、話が繋がったのです。
(アイドルにうつつを抜かすことも、恋愛と同じで組織離れになるからやめてくれって事でしょう)
で、連想的に思いだされたシーンがあり、それは女子部時代のとある会合席上で幹部指導を
戸惑いながら聞いていた自分の姿(注:20代前半当時)。
「なによりも仏道修行(=学会活動)が大事。学会根本に生きる事こそ幸福の直道です。
 遊びに行きたいとか、さぼりたいとか、思うかもしれない。自分の楽しみや幸せを
 追求したい、そういった甘えは捨てる事。
 若いうちから友の幸せを願い、学会に尽くし抜いて生きる事が何よりも誉なのです!」 
こんな内容だったと思います(ありきたりですね)。
当時、瞬時に私の頭の中にひらめいた事、
「なんで自分の楽しみ・幸せを追い求めて生きるのはダメなのよ?」と。
自分の楽しみや幸せと・学会活動の両立は叶わなくて当たり前と思え、ってなんで??
幹部に聞いた事もありました、すると「学会活動を中心に据えていれば、おのずと他の楽しみは
後からついてくる。だから、両方やろうとしちゃいけない。まず学会活動ありきで良いのだ」と。
そんなものか?!と反論もせず受け流したけれど、私はもう当時、直感で判っていたんだ。
「自分の楽しみ・幸せを追い求めて生きる事は間違いではない」と。
だから疑問がわいたのだ。 その直感を、あのとき信じて採用し、とっとと学会活動から
離れるべきだった・・orz
その直感を、エゴ(=この時は創価脳)が打ち消していたのです。 
子供の頃からずっと信じてきたものを侵さないように。とりわけ、母親が大事にしてきた・
父親と不仲になろうとも大切に守ってきた「信仰」を、侵さないようにと。
まさに「思考は過去からの条件反射」です。

元創価脳の方でも、同じような経験をお持ちの方はきっと、大勢いらっしゃると思うのです。
「え?それってどうなの?」と、違和感をおぼえるような指導に出会ったり、矛盾を見聞きしたことが
必ず一度はあると思います。 けど、その直感に、どうにか蓋をしてしまいましたよね。
でも、それは仕方がない事です。 エゴに取りつかれていた故ですし、エゴの集団にいたのだから
「集合意識」に巻かれ、無意識で振舞い、本当の自分の気持ちに立ち返ることが出来なかったのは、
やむなしです。
「違和感」センサーを持っていただけ、自分はまともだったと自分を誉めていいと思います。

そして今、組織から離れられた事は「直感」を信じることができたからで、
自分をわずかでも、取り戻す事が出来た・意識を取り戻せたから。
自分に嘘をつかない行動ができた証です。 
そんな自分を責めずに、ねぎらってください。
・・もしまだ責めているなら、自分の中に「古い思い込み」があるという事ですから、
それを見つけて・気付いて、ひとつずつ手放していけば大丈夫です。

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早く続きを書きたいと思いながら、夏休み中はゆっくりパソコンに向かう時間がありませんでしたorz
新学期が始まってからも短縮授業だったりでw やっと今週から通常稼働。
これから少しは更新頻度、あげていきたいと思います。

夏休み中に読んだおすすめの本を紹介します。
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未来は、えらべる!新書判 [ 本田健 ]
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津留晃一さんの教えと通ずるところが多々あり、
津留さんの教えよりも、こちらは平易でわかりやすいです。
「ニュー・アース」を読了後に読めば、繋がるというか
より理解が深まると思います。

(次回に続きます)