2014年 感謝

この一年、拙ブログをご覧いただき、ありがとうございました。

こうして2度目の年末御挨拶記事を書かせてもらえている事、素直に嬉しいです。

ブログを始めた頃「仏罰なんてない」事を証明してみせたい、という思いがありました。
覚醒して早2年以上経過してしまうと、仏罰って何さwとニラニラしてしまうというか、
我が事ながら恥ずかしいのですが、当時の偽らざる思いは「仏罰に怯えない人生」を歩みたい
という事だったのです。

それまで40年余りの人生の全てを、創価信仰に司られて生きてきた後遺症=仏罰恐怖症。
思ったよりも早くその呪縛はとけました。
個人差のある事だと思いますが、仏罰トラウマには「日にち薬」が一番効果があるのではないかと
感じています。
それは信仰が無くてもなんでもない一日・ふつうの一日を重ねて行く・日々の積み重ねあってこそ。
いい事があっても・悪い事があっても・なーんもなくても、それは創価学会や池田老人や日蓮大聖人や
御本尊様に起因するものではない。
これが習慣となれば、ウソみたいにさーっと霧が晴れます。
そして悩まなくていい事で悩んでいた事・気苦労を重ねてきた事・取り越し苦労に苛まれてきたことに
気がつくのです。

先日コメントのお返事にも引用させてもらった、林先生(東進ハイスクール)の言葉
「思考は訓練であり習慣である」
2014年、私がいちばん感銘をうけたフレーズです。

学会2、3、4世として生まれ育った私たちは「家庭内プロパガンダ」によって
思考の全てを信仰と絡められ、飴(功徳)と鞭(仏罰)でコントロールされる事を是として生きてきました。
まさにそれが「訓練であり習慣」となって、立派な創価脳(思考)と育ちあがってきたのです。
創価(学会組織)の近くに居る限り、この訓練と習慣は永遠に繰り返されるため、思考は揺らがない。
だから学会活動は特に意味意義も無く忙しいのです。むだに会合をとって集わせるのもそこです。
思考の訓練と習慣、ここが組織維持の命綱だからです。

しかしほんのちょっとこのスタイルを変えるだけで、マインドコントロールは解けるともいえます。

創価信仰を離れて物事を考える。これはガチガチ創価脳にとって容易いことでは無いかもしれない、
だから「訓練」と呼ぶにふさわしい。
御本尊様のおかげだ、先生のおかげだ、組織のお陰だ。そんな考えはばっさり捨てる。
悪い事があったとしても「仏罰だ」とは思わない。
自身の言動を省みる。迂闊では無かったか・脇が甘かったのではないか・雑では無かったか、
言動や振る舞いについて総点検してみます。 そこに信仰を絡めてはいけません。
何故そのような悪い事がおこったか。あくまでも「現実」「客観的な事実」のみで分析するのです。
そして解決方法を信仰に求めてはいけません。あくまでも「現実的な手立て」を考える。
わからなければ普通の人(非創価脳)にアドバイスを求めるなどし、自分で答えを出してみる。
やってみて解決しなければ別の方法で再TRYしてみる。
さいしょは難しいことかもしれない。しかしここは「訓練」だと思ってやってみたらいい。
この積み重ねと繰り返しで、自然と「(思考)習慣」が完成してゆきます。
創価信仰に頼らずとも・仏罰におびえずに・人生の諸問題にあたってゆくことが「是」となります。
そして「信仰(学会活動)」が「問題解決の手段」にならない事に、はっきりと気付く事ができるでしょう。

覚醒から2年余、今の私が言えるのは「仏罰なんて、本当にないです」。
いいこともわるいことも、混濁混ぜ合わせの日々。それが普通であり、ありがたいことです。

続きの記事③を更新できないまま年を越すのが心残りではありますが、今年の更新はこれが最後です。
本年もたくさんの貴重なコメントを頂戴しありがとうございました。
脱会のご報告も(非公開コメント含め)数件あり、皆様おめでとうございます。
親族との確執で悩まれる方々のコメントにも深く共感・様々考えさせられました。

我が身内においても、母はいまだ現役活動家。
前回記事でも触れましたが「法戦」も闘いきって満足したそうですw
年始帰省の際、数々の政治的矛盾を組織ではどのように語り・選挙戦を戦うよう指示があったのか
じっくり聞いてくるつもりです。もはやスパイ状態w
その上で、おかしなところはきっちり指摘し・思考停止に逃げ込まず「自分でよく考える」方向へ
促していきたいと思います。

来年もきっとマイペース、遅筆になるとは思いますが、更新を続けていきたいと思います。

皆さん、どうぞよいお年を。

年始所感

寒中お見舞い申し上げます。

年末年始期間も沢山の拍手(コメント)ありがとうございました。

本日からブログ更新再開します。


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年始、実家に帰りました。
母との対話は非常に有意義でした。
一年前なら考えられないような会話内容。同じ事を一年前に話していたらおそらく
私は母から勘当されていたかもしれません。
しかし、今回そうはなりませんでした。
この一年間の、対話の積み重ねがあってこそだと思います。
激しく言い合う場面もありましたが、創価話題を離れたところでは笑い合い、買い物に出かけたり・
一緒に家事をしたりと至って穏やかに楽しく過ごしました。
私がこちらに戻ってから届いた母のメール
「楽しい正月だった。もう春休みが待ち遠しいくらいですよ」とありました。
(注:春休みに帰省します)
そんな素直な思いを母が述べた事に私は驚きました(素直では無いタイプだからですw)
また、細かい事では「政党応援してるわりに学会員は世の中の事何も知らない」と以前伝えた効果か?
母は年末年始の池上彰氏の番組を録画予約していましたw
こんなことも以前なら考えられなかったことです。

私が覚醒してからずっと抱いてきた懸念は、私が創価を全否定すること=母から拒絶されるのでは?
という点でした。
繰り返しますが、一年前ならそれは現実だったでしょう。
実家出禁になっていてもおかしくなかったし、事実、数か月前には脅しと取れる発言も
ありました(これは後日書きます)。
しかし、この一年で母は少しずつ「人の尊厳」を取り戻したのではないか、と感じています。
熱心な創価学会員・信仰者である前に「人の親」であることを自覚してくれたのではないかと。
兄の結婚当時(20年くらい前)の母は、完全に「人の親」であることは忘れていました。
親子の絆よりも、信仰上のつながりを重要視する人でしたから。
順番に書きたいので、このお正月の話は追々記します。

話は変わりますが。
私の子供時代、母から年頭に必ず「お願い事(かなえたいこと)をありったけ紙に書きなさい」と
言われていました。
この一年も御本尊様にたくさんお題目を上げ、願いを叶えてもらいなさい、という趣旨です。
子供時代を過ぎても、本当につい最近まで、私は年頭にお願い事を書き連ねていました。
活動家時代は「OOさん折伏本流」だの「部の活動家8割に」など書いてましたがw
それ以外は煩悩です。あれが欲しい・ここに行きたい・そんな内容ばかりでした。
近年については、未活動でしたので、100%煩悩でした。
そのお願いごとの決算は年末にするのですが、達成率を出してはやや満足したり・がっかりしたり。
当然のことながら100%達成なんて年はありません。
年末に毎度、未達だったことを、ああでもないこうでもないと分析してみたり、次年度にもちこしたり。
2013年頭、私は覚醒こそしていましたが、御本尊様は「お願い事を叶えてくれる」と思っており
ご祈念事項を手帖に書いていました。
先日、手帖レフィルを入れ変える際にその項目に気が付き見返したのです。
半分くらいは叶えていましたが、半分は未達。
例年の私なら、未達事項に拘りました。 なんで叶わなかった?等考えたと思います。
しかし今年の私はそれを見ても、心にマイナス感情がひとつも浮かんでこなかったのです。
いい意味で「執着心」がとれたのだと思いました。
そして、私が創価信仰を捨てたことで心底「楽」になれた理由も解りました。
私は創価脳だった頃、煩悩に追われていたんだなとw
”全ての願いが叶う”と教え込まれてきたので、ひとつひとつの願望に対し執念をもっていたのです。
それが子供時代からの常だった為、当たり前に思って来ました。
何かを成し遂げる際に執念をもつことは大事かもしれません(受験勉強など)。
しかし一介の主婦である私の・超個人的な些細な願望について執念など持っていたら疲れるだけ。
覚醒した今は、多くを望む事はありません。
「足るを知る」で、等身大の自分を許せるようになったから楽になったのでしょう。
創価脳だった頃は、そうはいきませんでした。今よりずっと良くならなくては信心してる意味が無い・・
そんな風に思いこまされてき、そのような思考回路で万事に対応してきたのです。
ずいぶんとシンドイ生き方をしてきたのだな、と気が付きました。

創価脳だった頃は、過去への執着も強くありました。
断捨離なんて絶対出来ない。過去の栄光wにこだわったり、古いものを捨てられない性格。
創価脳の「建設は一生 破壊は一瞬」これも過去への拘りではないでしょうか?
積み上げてきたものをぶち壊しにしてどうする?と、昔取った杵柄(=青年部時代の活躍)を
後生大事に・青年部時代に受けた訓練だの薫陶だの語りたがるのも、過去への執着。
それが組織への隷属&呪縛に強く作用していた事に最近気が付きました。
たった一度でも疑うことでこれまで積み上げてきたものがぶち壊しになるんだぞ?だなんて
単なる「脅迫」にすぎないのです。

ご祈念への拘り・過去への強い執着も、自縄自縛の一因となっていると思われます。

現在の私は過去よりもこれからの事に興味があります。
そして今を大事に・今在ることに感謝しながら生きていたいと思っています。
ビルド&スクラップ トライ&エラー それでいいんじゃないでしょうか。
過去を否定する事に、罪悪感をもたなくていい。
それが間違いだったのなら、なおのことです。

覚醒後、上記のような拘りや執着をもたなくなって本当に気楽に生きられるようになった。
改めてそんなことに気がついた2014年初頭でした。

2014年、善き一年にしていきましょう。
本年も宜しくお願いします。

2013年 感謝

いつも拙ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
そして沢山の公開・非公開コメント、ブログ拍手からのコメントをいただけたことも
感謝しております。

皆さんからのコメントを読ませていただくたび、この問題は個人それぞれタイプは違えど
宗教詐欺に遭ったという点ではみな被害者なのだ、という思いを強くしています。

数多ある創価家庭でも、こんなに不仲なのは、うち(実家)だけだろう・・と、私は思っていました。
しかし、コメントを拝見するなか、パターンは若干違えど家族問題で悩まれている方が
大変多くいらっしゃる事を知りました。
これは、認知されていないだけで、ちょっとした社会問題だと私は思っています。

活動家時代、家族全員が活動家で、絵にかいたような「一家和楽」家庭の同志がおりましたが、
そうなれない私の家族はみんな業が深いのだと思っていたのです。
創価を盲信するあまり、家族が不仲になっていることに気が付きませんでした。
創価を理解できない他の家族(亡き父・兄姉)が悪くて、創価は悪くないと思っていました。
法華経信仰をたもつ母や私が悪いわけない。私たちは絶対正義だと信じて疑いませんでした。
その思いこみがますます私たち家族をバラバラにしてしまっていたと、創価脳の時は
気付けなかったのです。

現在、さまざまな宗教史、鎌倉時代の仏教興隆についての本を読んでいます。
まだまだ勉強の途上ではありますが、ひとつ強く思うのは、一番小さな幸せの単位「家族」を
ばらばらにしたり・そのことで揉める原因を作るような教義をもつ宗教が
万民を救うはずが無いのではないか、ということです。
創価の教義は、明らかに家族仲を悪く・おかしくさせます。
全員が同じ方向を向き、利害が一致している間は仲良く出来るが・誰か一人が教義に歯向かえば
信頼関係が崩壊する。 そんな宗教には誠実のかけらもない。
この時点で、世の中に不要な宗教だと私は思います。

最近覚醒された方からのコメントも多く頂いています。
創価ロジックからはずれた後の時間は、すべて自分のための時間です。
どれだけ時間がかかってもいい・どうか焦らずに、どんなことでも自分で考えて決めることから
スタートしてみてください。
そして自分を大切にしてください。自分のことをまっさきに考えて、その後に周囲でも
いいと思います。
創価脳はどうしても、自分をおざなりにしがちです。
まずは他者(というか組織)という意識がマインドコントロール期間に強くなっています。
それを「まずは自分」を最優先に、行動をしてみてください。
しんどいことは無理にしなくてもいい。
自分の心を護って・ケアしてください。
そしてどうぞ勇気と安堵感をもってください。
そして何度も書いていますが、仏罰はありません。 いたって普通に暮らせます。
仏罰だと捉えてしまう自身の心に問題があるのです(それがマインドコントロールです)。

来年もマイペースではありますが、更新を続けていきたいと思います。

皆さん、どうぞよいお年を迎えてください。