2016年 御挨拶

新しい年が明けました。
全国的に暖冬、好天に恵まれた2016年の幕開けでしたね。
いかがお過ごしでしたか?

さて、私は例年、暮れから実家方面へ帰省をしますが、今回は新居にて
家族だけの年越しをしました。
結婚から十年以上になりますが、今回初めてです。
元旦の初詣もこれまた初めて、自宅付近の氏神様へ家族で赴き。
この氏神様へ、引っ越した直後から毎月一度お参りで訪れています。
新居には仏壇・ご本尊は持ち込まず、新たに神棚を祭りました。
神棚といっても、かしこまったものではなく現代風のコンパクトな物です。
(興味のある方は、福島いわきの木工職人集団moconoco(モコノコ) 神棚 で検索してみてください)
その際、お札を頂いたのが、現在地の氏神様でした。
引っ越しを決めた際、この神社について特に調べたり・意識もしませんでしたが、
訪れて御由緒を知ると、不思議なご縁を感じ。
偶然ですが、子供たちの命名に込めた意味と通ずる由縁があり、驚かされました。
引っ越してより、心静かに日々暮らせているのは、こちらへ月一度のお参りをし
周囲に感謝できる心を取り戻させてもらっているからかな?と感じています。
お参りを終え、最後に鳥居に一礼するとき、不思議と頭がすっきりしているのです。
心のお掃除、という感覚で、心を糺すためのルーティンとしています。

創価脳時代のような「おすがり信仰」や「必死さ」とは、まるで無縁の参詣。
神社への参詣を開始し、いかに創価脳時代の自分が「強欲」で「独りよがり」「独善的」だったかを
思い知らされ、己を振り返ると恥ずかしいし、反省しきりです。

年が明けてすぐ、帰省。
義実家へ挨拶のち、実家へ向かい、2泊してきました。

年初のビックリは、母が姉と共に元旦の新年GG会に参加したという話。
姉からきいたところ、母が車を出してくれと姉に頼んできて、姉は渋々OK。
送迎だけのつもりが、母が駐車券を持っており、車で待機している・・と言える状況でなくなり
(駐車場係の創価班がうろついている中で、注目されるのが嫌だったとのことw)
一緒に会館に入る羽目になったが、会合中は目をつぶってなにも見ないように・
聞かないようにした。
正座が限界になり、先に退出し車で待機した(最後まで参加しなかった)とのこと。
新年からお疲れだったね!と、労いました。

自発的に会合参加を減らしている母ですが、新年GG会はスルーできなかったようです。
理由を尋ねたところ
「初詣(へ神社や寺)に行くわけにいかないし、私の新年初出式はGG会しかない」
ということでした。
母の学会員としての長い歴史の中で、昔は日蓮正宗菩提寺への参詣があった。
新年を迎えられた喜びを、お寺で感謝申し上げる事ができた。母にとり、立派な年中行事であった。
それが宗門と学会の決別があり、お寺への参詣は出来なくなり、会館での新年GG会が
母にとっての年中行事になり変った。
創価学会に対して、思うところがあったって、心のよりどころとしての「場所」「聖地」が
大石寺や菩提寺でなくなり(ある意味、創価に其処を奪われ)、20年以上経過する今。 
消去法で、現役学会員の自分にはけっきょく会館しかない・・という思いのようでした。
(参加しないと、地域メンバーからあらぬ心配をされてしまうという懸念もあったようです)

なんというか、一人の純粋な(?)信仰者が、創価組織に懐疑的な思いを抱きつつも、
もういまさら寺には戻れない・何処へも行き場がない・・。
年始から学会員のツイートやネットでの発言を読んでいて、
ここ最近(とくに昨年の、安保法制をめぐる学会本部のグダグダっぷりから)学会に対して
欺瞞・疑問を抱いている人たちの、何処へも行けなさ(または、自己流解釈で痛々しいまでに
なんとかどうにか、組織に居場所を見つけようとしている)を感じ、
結果、純粋な信仰者が置き去りになっているんだな・・と感じました。
自己矛盾・ダブルスタンダードは、それこそ大昔から学会のお家芸ともいえるものでしたが、
此処へ来てあからさまに、わかりやすく表出してしまったことで、組織が揺らいでいる。
その中で、純粋に日蓮仏法を求め・心のよりどころとして生きている人たちの心の部分が
翻弄されているように、思います。
その事について、組織はこれまでの「なぁなぁ」を改め、金にも集票マシンにもならない会員は
ばっさり切るべきだ、と私は思います。
本性を丸出しにして、”金と集票につながらない会員はいらねーよ!イエスマンしかいらねーよ!”と、
正面切って表明してほしいw
もはや「心」を大切にするような、団体では無く。
純粋な信仰者である会員に対し、不誠実が過ぎるのではないか?と、
ここ最近の状況を見ていると、そう思えてなりません。

↑こんなことを書くと、私が学会改革派だとかカンチガイされる方もおられるのですがw
(なにをどう読めば、そうなるのか解らないのですが・・たまにいます、そーいう感想くれる人)
そのようなつもりは一切ありません。
まだかろうじて、籍はありますが、学会とは一日も早く縁切りしたいと思っております。

私が覚醒してすぐの頃(2012年秋~)、個人信仰を志した時期があったのを思い出し。
儀礼的な事柄において、個人信仰は行き場がないな・・と軽く行き詰ったことを思い出しました。
心は日蓮大聖人を求めていても、正宗に戻るには躊躇があるし、ハードル高い。
仮想的との闘いなんて、やってることはさほど学会と変わらない。
しかしもう、学会にその拠り所は求められない。そう考えた時、
私はネットで日蓮宗や、日蓮フォロワー的な小さな宗派なども調べ、自分の求める信仰に
見合ったところ(団体や寺院)は無いものか・・と、探したこともありました。
そうこうしているうちに、選民思想が崩壊し、現世利益を追う日蓮仏法そのものに疑問を感じ、
なにも団体や寺に依る必要はない。日蓮に帰依するのも違う。と、卒業できたのですが。

母が、どんな変遷をたどってゆくのかは、これから見守って行きたいと思いますし、
順を追ってブログにも記していきます。

2016年、皆さまにとりまして、健やかで素晴らしい年になりますように。
本年も、よろしくお願いいたします。

2015年 感謝

今年も、拙ブログをご覧いただきありがとうございました。

更新頻度を上げるのが年頭の目標だったのですが、振り返るとさほど進んでおらず(汗)
年の瀬も押し迫り、慌ててこの記事の下に
「創価脳な親との関係」カテゴリの新記事をUPしました。

先の記事にも少し書きましたが、2015年は創価脳の母に明らかな変化がありました。
現在の母は、やんわりと非活の道を歩んでいます。自らすすんで、です。
これは昨年の暮れには考えられなかった事態で、私も大変驚きつつ、喜んでいます。
まだ、脱会への道のりには距離があるという感じですが、時間薬が効力を発揮することを
静かに見守っている。そんな現況です。
どうしてそこに至ったのか、早く書きたくて気だけは急いているのですがw
要因をひとつ書くと、「集団的自衛権」を巡る創価の対応と・熱心(?)な会員との
攻防を見聞きしたことにあります。
これは、私には物凄く意外&想定外なことでした。
その話を早く書けるように、来年の更新頻度をあげるべく・
内容を簡潔にまとめるべく(←実はここが難題で一番手間取っておりますが)頑張ります。

閑話休題
今年、私が最も感銘を受けた、大前研一さんの言葉を紹介します。

人間が変わる方法は3つしかない。
1番目は時間配分を変える。
2番目は住む場所を変える。
3番目はつきあう人を変える。
この3つの要素でしか人間は変わらない。
もっとも無意味なのは、「決意を新たにする」ことだ。


これぞ、創価脳や仏罰恐怖症からの脱却にぴったりの方法論だと、感嘆しました。
(いや、そんなつもりで紡いだ言葉ではないとは思いますがw)

1番目の時間配分を変えるというのは、創価関連に割いている時間を
まったく別のことがらに費やすといった意味で捉えられると思います。
ごん行唱題に費やしていたその時間を、読書の時間に充てるとか・30分長く朝寝するでも
いいですしw
会合に出ず、別のことを始める。仕事でも習い事でも、ウォーキングでもなんでもいいと思う。
時間を、自分の好きに計画的に使う。これは洗脳を解いていくための第一歩です。

2番目の住む場所を変える。これは様々状況があり簡単ではないかもしれませんが、
組織から足抜けしたい時には一番最適な方法だと思います。
広義でとれば、一切活動に出なくなることも「住む場所を変える」に等しいかもしれません。
自分の生きる大事な場所は、学会世間ではなく他のフィールドにある、と捉え
ごく普通の生活を取り戻し「居場所」を変えることは、呪縛からの解放に有効です。

3番目のつきあう人を変える。
創価同志から離れ、外部と積極的につながり触れ合っていくことは、
偏狭特殊な世界観・価値観を打ち破るためにも肝要です。

そして一番刺さるフレーズが、「もっとも無意味なのは決意を新たにすること」w
創価では「決意」という言葉を好んで使います。常套句です。
あらゆる機会を使ってとにもかくにも、会員に「決意」させようとします。
それは主に会合席上であったり、幹部との語らいや指導中であったりと様々ですが、
あくまでも「創価信仰」というフィールド内においての決意であり、決意との言葉を使いながら
その実は、お飾り師匠&組織への忠誠を誓うものなのです。
それは「もっとも無意味な事」・・w その通りだ!と感心した次第です。

総じて人間、環境と生活習慣を変えないことには、変われないという事なのだと思います。

覚醒から3年経過した私の2015年は、後半に思いもよらない出来事がありました。
そのせいで、ある計画が完全に白紙となり、少なからずショックをうけました。
当初は落ち込み、どう気持ちを切り替えたらいいのかわからず、悩んでいましたが
ふとしたときに、あれ?これって角度を変えて考えれば、最終的には私の思い通りの方向へ
進んでる・・?こうなればいいのに、と願ってきた事に近付いてる!と気付いて、驚きました。
抽象的なかきかたで、なんのことだかさっぱり伝わらない文章ですみません。
創価脳のままであれば、私はこの出来事を悲観で捉えたし、それこそ「仏罰だ」と思ったかも
知れない。
その原因を信仰の中身に探ろうとしただろうし、問題解決の策として題目をあげたり・
場合によっては活動に復帰したりしたかもしれませんw 
そんなこと、ひとつも、なんの意味もなさないのに。
そういった思考習慣から完全に抜け出して、落ち着いて、多角的にものごとを見られるように
なったことが3年目の大きな収穫です。
そして、組織で言う仏罰なんて、やっぱりありません。

来年も、ブログを書き続けますので、時々のぞいていただければ幸いです。

みなさん、よいお年を迎えてください。

2015年 御挨拶

遅れ馳せながら、2015年も宜しくお願いいたします。

年末にいただいたコメントのお返事が出来ていない体たらく、申し訳ありません。
(今週末に書かせていただきます)

今年のお正月も、帰省ついでに主人の氏神様へ初詣に行ってきました。
私が義実家の初詣に参加するようになって、三度目です。
子供達もしっかりとお作法を覚え一人で出来るようになり、健康面や習い事の上達をお祈りしたと
それぞれ話してくれました。

そして居住地に戻って、私一人で地域の神社に初詣。
以前記事にも書きました、2013年夏に御祈祷(お祓い)を受けた神社です。
その際に頂いたお札を返していない事が気になっており、出向きました。
お返しし、新たに御祈祷を頂こうと社務所の方に尋ねたのですが
(社務所の方が、前回が災厄祓いの御祈祷だったことをふまえて)
「今日されてもいいですが、2月に節分行事(大祭)がありますよ」とご紹介頂きました。
無知でお恥ずかしい限りですが、節分とは年の災厄をはらうというまつりごとなんですね。
有名神社で豆まきをおこなう芸能人の映像をワイドショーで見る機会はありましたが、
なぜ・どういった目的でそれが神社で行われているのか考えた事もありませんでした。

決して押しつけがましさはなく、こちらのニーズ(?)に沿った案内をして下さった、
この社務所の方とのやりとりにおいて私は感心したのです。
なんというかとても「心」の通ったやりとり、私にはそう感じられました。
神社で行われる節分行事とは一体どんなものなのか、参加してみたいという興味もあり
新たな御祈祷は2月3日にお願いする事にしました。

創価脳だった頃、こういった神社・寺院の厄除け行事的なものを「邪宗の金儲け」なんて口汚く
罵っていました。
つくづくも、馬鹿で無知だった、創価活動家時代の自分。
ひとつひとつの行事を誠実に・粛々・連綿と、長きにわたって続けて来られている神社・寺院。
ただ人々の咎をはらうため、心の平穏・人々の平和を願い行われている。
参加は誰でも自由。真に開かれた宗教とは、こうあるべきでしょう。

私が2月に参加するつもりの大祭、祈祷料は「一口千円」
祈祷料はその人の思いなので、何口でも構わないとのこと。
けっして一口一万円からなんて法外なことは言わないのです。
金額で人生が変わる、3桁に挑戦!なんて下品なことも仰らない。
そして、こういった神事は「選挙があるから」なんて理由で延期・中止になったりしませんw
やっぱり創価は宗教では無かったんだなぁ・・と、しみじみ思うのです。
「こじらせ系自己啓発セミナー(ボッタクリ)」とでも呼べば恰好がつくでしょうかw

さて、正月は実家にも帰省。
多くのブロガーさんが話題にされていました、箱根駅伝。
復路の中継を実家で母と一緒に見ました。
こういった場面でも、脳内花畑パワーは全開なんだなぁ・・と、ある意味感心してしまったのですが
私の母は、刻々と過ぎて行くレースの中間報告のたび「創大はO位に上がってるでしょ?」
と、順位がヒトケタ台に上がっている事を期待していたのです。
結果は皆さんご存じのとおりで、序盤から終盤まで、最下位を這う展開。
やっとの思いで初の出場権を掴んだルーキー校。
はじめの第一歩・記念出場といっても過言でない。
はなから最下位に沈んでいたとしたって「出場できたことがラッキー、足がかり」くらいに捉えるのが
妥当ではないか。
これは特段創大に限らず、どこの大学であっても、同じ事だと思うのです。
私は何度も「順位上がってるでしょ?」と確認する母のことが、滑稽でならずw
思わず聞いたのです「なんで(順位が上がっていると)そう思うの?」と。
すると母は自信満々に
「だって創大なのよ。日本全国の同志が祈りを送ってんのよ!負けるわけがないでしょ!」と答えました。

wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
(無駄に草生やしてすみません)

はい出ました、ミラクル発言。

やっとの思いで出場を掴んだルーキー校(実力は到底他大に及ばず)であっても
「日本全国の同志が祈りを送る」と、順位を上げて行く・走者のタイムが速くなると信じているwww

めでたすぎるよ、お母さん。
いくらなんでも、そんなことはありえない。

冷静に、状況を説明してやりました。
やっとの思いで掴んだ一枠なんだ・他大と比べて(大学駅伝における)歴史もないし
スキル・ノウハウ的な蓄積もない(おそらく)。
本当に冷静に。たとえば自分の出身大(創価ではない)が箱根駅伝に初出場したとしよう。
私だったら思います「出場できただけでも万歳だよ。よくがんばったね」と。
順位結果なんて関係ない。その場所へ辿りつけただけでも凄い事だよ。
ここからちょっとずつでも上がってこ!と。
おそらく普通の人(誇大妄想や選民思想を持たない人)も、おおむね上記の感想をもつのでは
ないでしょうか。
一般常識的に考えて、最後の一枠をやっとこ掴んだ学校に過度の期待をよせるなんてしないでしょう。

けど母は違ったのです。
日本全国の学会同志がお題目を送り応援しているのだから、最下位はないだろう。
ミラクルは起こる!(なんだったら初出場・初優勝もありうる)と思っていた。
実力云々なんて関係ない。祈りの力が不可能を可能にするんだ! そう思っている風でした。

途中から皆で外出したため、生中継を最後まで見ることは出来ず。
夜半帰宅してテレビのニュース番組をはしごしながら、創価大がそれほど扱われていない事について
母は不満げでした。
「全国同志が見ているのに、もうちょっと映してくれなきゃ苦情くるわよ!」とw
まるで自分たちが世界の中心・・とまでいわずとも、決してマイノリティだとは思っていない。
世間に確実に影響を与える層なのだ、という自信確信は、先の選挙結果からきているものなのか?
駅伝のことなんて何もわからない・知らない。だのに創価だからという理由だけでミラクルが起こる!と
そこまで思いこんでしまえる、この心理状態って一体なんなのだろう・・。
統合失調症ってこんなかんじ?
などと、新年から深く考えさせられました。

もちろん学会員のすべてが母と同じ考えを持っているとは言いません。
それはさすがにないと思いますw
私の母が、ちょっと行きすぎた誇大妄想の持ち主だという事と、
その誇大妄想を際限なく膨張暴走させてしまうのが、創価のトンデモ教義なのだと認識しています。

時系列で書いている記事は、2013年11月頃まで今来ています。
そこからもう一年あまりが経過し現在、上記のとおり母は創価脳のままですorz
記事にしていない14ヶ月ほどの間、母と様々話をしてきました。
その過程で、一撃を与えられたかに思えたやりとりもありました。
が、上記のとおり、母は覚醒とは程遠い状態に有り、いまだ創価というフィールドに居続け
そこから出ようとも・動こうともしていません。

これはもう、結論に近いことかもしれませんが、私は母の精神疾患を疑っています。
覚醒させる云々の問題以前に、「病」なのだとすれば、別のアプローチが必要なのではないか。
そう考えるに至った、2015年1月現在です。

早く記事が現在に追いつくように、更新頻度をあげる・・今年の目標にしますw

2015年、健やかな善き一年としていきましょう。

2014年 感謝

この一年、拙ブログをご覧いただき、ありがとうございました。

こうして2度目の年末御挨拶記事を書かせてもらえている事、素直に嬉しいです。

ブログを始めた頃「仏罰なんてない」事を証明してみせたい、という思いがありました。
覚醒して早2年以上経過してしまうと、仏罰って何さwとニラニラしてしまうというか、
我が事ながら恥ずかしいのですが、当時の偽らざる思いは「仏罰に怯えない人生」を歩みたい
という事だったのです。

それまで40年余りの人生の全てを、創価信仰に司られて生きてきた後遺症=仏罰恐怖症。
思ったよりも早くその呪縛はとけました。
個人差のある事だと思いますが、仏罰トラウマには「日にち薬」が一番効果があるのではないかと
感じています。
それは信仰が無くてもなんでもない一日・ふつうの一日を重ねて行く・日々の積み重ねあってこそ。
いい事があっても・悪い事があっても・なーんもなくても、それは創価学会や池田老人や日蓮大聖人や
御本尊様に起因するものではない。
これが習慣となれば、ウソみたいにさーっと霧が晴れます。
そして悩まなくていい事で悩んでいた事・気苦労を重ねてきた事・取り越し苦労に苛まれてきたことに
気がつくのです。

先日コメントのお返事にも引用させてもらった、林先生(東進ハイスクール)の言葉
「思考は訓練であり習慣である」
2014年、私がいちばん感銘をうけたフレーズです。

学会2、3、4世として生まれ育った私たちは「家庭内プロパガンダ」によって
思考の全てを信仰と絡められ、飴(功徳)と鞭(仏罰)でコントロールされる事を是として生きてきました。
まさにそれが「訓練であり習慣」となって、立派な創価脳(思考)と育ちあがってきたのです。
創価(学会組織)の近くに居る限り、この訓練と習慣は永遠に繰り返されるため、思考は揺らがない。
だから学会活動は特に意味意義も無く忙しいのです。むだに会合をとって集わせるのもそこです。
思考の訓練と習慣、ここが組織維持の命綱だからです。

しかしほんのちょっとこのスタイルを変えるだけで、マインドコントロールは解けるともいえます。

創価信仰を離れて物事を考える。これはガチガチ創価脳にとって容易いことでは無いかもしれない、
だから「訓練」と呼ぶにふさわしい。
御本尊様のおかげだ、先生のおかげだ、組織のお陰だ。そんな考えはばっさり捨てる。
悪い事があったとしても「仏罰だ」とは思わない。
自身の言動を省みる。迂闊では無かったか・脇が甘かったのではないか・雑では無かったか、
言動や振る舞いについて総点検してみます。 そこに信仰を絡めてはいけません。
何故そのような悪い事がおこったか。あくまでも「現実」「客観的な事実」のみで分析するのです。
そして解決方法を信仰に求めてはいけません。あくまでも「現実的な手立て」を考える。
わからなければ普通の人(非創価脳)にアドバイスを求めるなどし、自分で答えを出してみる。
やってみて解決しなければ別の方法で再TRYしてみる。
さいしょは難しいことかもしれない。しかしここは「訓練」だと思ってやってみたらいい。
この積み重ねと繰り返しで、自然と「(思考)習慣」が完成してゆきます。
創価信仰に頼らずとも・仏罰におびえずに・人生の諸問題にあたってゆくことが「是」となります。
そして「信仰(学会活動)」が「問題解決の手段」にならない事に、はっきりと気付く事ができるでしょう。

覚醒から2年余、今の私が言えるのは「仏罰なんて、本当にないです」。
いいこともわるいことも、混濁混ぜ合わせの日々。それが普通であり、ありがたいことです。

続きの記事③を更新できないまま年を越すのが心残りではありますが、今年の更新はこれが最後です。
本年もたくさんの貴重なコメントを頂戴しありがとうございました。
脱会のご報告も(非公開コメント含め)数件あり、皆様おめでとうございます。
親族との確執で悩まれる方々のコメントにも深く共感・様々考えさせられました。

我が身内においても、母はいまだ現役活動家。
前回記事でも触れましたが「法戦」も闘いきって満足したそうですw
年始帰省の際、数々の政治的矛盾を組織ではどのように語り・選挙戦を戦うよう指示があったのか
じっくり聞いてくるつもりです。もはやスパイ状態w
その上で、おかしなところはきっちり指摘し・思考停止に逃げ込まず「自分でよく考える」方向へ
促していきたいと思います。

来年もきっとマイペース、遅筆になるとは思いますが、更新を続けていきたいと思います。

皆さん、どうぞよいお年を。

年始所感

寒中お見舞い申し上げます。

年末年始期間も沢山の拍手(コメント)ありがとうございました。

本日からブログ更新再開します。


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年始、実家に帰りました。
母との対話は非常に有意義でした。
一年前なら考えられないような会話内容。同じ事を一年前に話していたらおそらく
私は母から勘当されていたかもしれません。
しかし、今回そうはなりませんでした。
この一年間の、対話の積み重ねがあってこそだと思います。
激しく言い合う場面もありましたが、創価話題を離れたところでは笑い合い、買い物に出かけたり・
一緒に家事をしたりと至って穏やかに楽しく過ごしました。
私がこちらに戻ってから届いた母のメール
「楽しい正月だった。もう春休みが待ち遠しいくらいですよ」とありました。
(注:春休みに帰省します)
そんな素直な思いを母が述べた事に私は驚きました(素直では無いタイプだからですw)
また、細かい事では「政党応援してるわりに学会員は世の中の事何も知らない」と以前伝えた効果か?
母は年末年始の池上彰氏の番組を録画予約していましたw
こんなことも以前なら考えられなかったことです。

私が覚醒してからずっと抱いてきた懸念は、私が創価を全否定すること=母から拒絶されるのでは?
という点でした。
繰り返しますが、一年前ならそれは現実だったでしょう。
実家出禁になっていてもおかしくなかったし、事実、数か月前には脅しと取れる発言も
ありました(これは後日書きます)。
しかし、この一年で母は少しずつ「人の尊厳」を取り戻したのではないか、と感じています。
熱心な創価学会員・信仰者である前に「人の親」であることを自覚してくれたのではないかと。
兄の結婚当時(20年くらい前)の母は、完全に「人の親」であることは忘れていました。
親子の絆よりも、信仰上のつながりを重要視する人でしたから。
順番に書きたいので、このお正月の話は追々記します。

話は変わりますが。
私の子供時代、母から年頭に必ず「お願い事(かなえたいこと)をありったけ紙に書きなさい」と
言われていました。
この一年も御本尊様にたくさんお題目を上げ、願いを叶えてもらいなさい、という趣旨です。
子供時代を過ぎても、本当につい最近まで、私は年頭にお願い事を書き連ねていました。
活動家時代は「OOさん折伏本流」だの「部の活動家8割に」など書いてましたがw
それ以外は煩悩です。あれが欲しい・ここに行きたい・そんな内容ばかりでした。
近年については、未活動でしたので、100%煩悩でした。
そのお願いごとの決算は年末にするのですが、達成率を出してはやや満足したり・がっかりしたり。
当然のことながら100%達成なんて年はありません。
年末に毎度、未達だったことを、ああでもないこうでもないと分析してみたり、次年度にもちこしたり。
2013年頭、私は覚醒こそしていましたが、御本尊様は「お願い事を叶えてくれる」と思っており
ご祈念事項を手帖に書いていました。
先日、手帖レフィルを入れ変える際にその項目に気が付き見返したのです。
半分くらいは叶えていましたが、半分は未達。
例年の私なら、未達事項に拘りました。 なんで叶わなかった?等考えたと思います。
しかし今年の私はそれを見ても、心にマイナス感情がひとつも浮かんでこなかったのです。
いい意味で「執着心」がとれたのだと思いました。
そして、私が創価信仰を捨てたことで心底「楽」になれた理由も解りました。
私は創価脳だった頃、煩悩に追われていたんだなとw
”全ての願いが叶う”と教え込まれてきたので、ひとつひとつの願望に対し執念をもっていたのです。
それが子供時代からの常だった為、当たり前に思って来ました。
何かを成し遂げる際に執念をもつことは大事かもしれません(受験勉強など)。
しかし一介の主婦である私の・超個人的な些細な願望について執念など持っていたら疲れるだけ。
覚醒した今は、多くを望む事はありません。
「足るを知る」で、等身大の自分を許せるようになったから楽になったのでしょう。
創価脳だった頃は、そうはいきませんでした。今よりずっと良くならなくては信心してる意味が無い・・
そんな風に思いこまされてき、そのような思考回路で万事に対応してきたのです。
ずいぶんとシンドイ生き方をしてきたのだな、と気が付きました。

創価脳だった頃は、過去への執着も強くありました。
断捨離なんて絶対出来ない。過去の栄光wにこだわったり、古いものを捨てられない性格。
創価脳の「建設は一生 破壊は一瞬」これも過去への拘りではないでしょうか?
積み上げてきたものをぶち壊しにしてどうする?と、昔取った杵柄(=青年部時代の活躍)を
後生大事に・青年部時代に受けた訓練だの薫陶だの語りたがるのも、過去への執着。
それが組織への隷属&呪縛に強く作用していた事に最近気が付きました。
たった一度でも疑うことでこれまで積み上げてきたものがぶち壊しになるんだぞ?だなんて
単なる「脅迫」にすぎないのです。

ご祈念への拘り・過去への強い執着も、自縄自縛の一因となっていると思われます。

現在の私は過去よりもこれからの事に興味があります。
そして今を大事に・今在ることに感謝しながら生きていたいと思っています。
ビルド&スクラップ トライ&エラー それでいいんじゃないでしょうか。
過去を否定する事に、罪悪感をもたなくていい。
それが間違いだったのなら、なおのことです。

覚醒後、上記のような拘りや執着をもたなくなって本当に気楽に生きられるようになった。
改めてそんなことに気がついた2014年初頭でした。

2014年、善き一年にしていきましょう。
本年も宜しくお願いします。