宿業について考えた(2)

己の不幸の原因が、前世におかした罪業によるもの=「宿業」であるという考え方を
ベースにした教えが創価のお家芸「宿命転換」「人間革命」です。

この「宿命」「宿業」を考えるにあたり、必ずといってよいほど出てくる教えがもうひとつ
あります。
それが「願兼於業(がんけんおごう)」 天台宗の妙楽大師の言葉です。
創価の方なら皆さん知っている言葉だと思うので詳細は略します(外部の方は恐縮ですが
ぐぐってみてください)。
この「願兼於業」という言葉、私も今回ブログに書くにあたって初めてちゃんと調べました。
それ以前は創価の幹部が指導で語った意味が正解だと思いこんでいました。
しかし、ちゃんと調べてよくよく咀嚼してみると、妙楽大師や・その教えを御書のなかで引いて
自身の立場の比喩とした日蓮大聖人の思想と・創価で語られる内容はズレがあると
感じた次第です。

私が女子部時代に聞いた「願兼於業」について。
ある部員さんが、自身の家庭環境に悩んでいた。暴力をふるう無職の父親。
貧困で、いつも争いが絶えない家庭内。
なんで信心をしているのに、我が家はこんな状態なのか。なぜこんな家庭に私はうまれて
きたのだろう?と嘆く部員さん。
その部員に対して「あなたが置かれているその環境は、あなた自身が願って生まれてきたものだ。
信心をするために、お父さんを信心によって宿命転換させてあげるために、あなたは生まれてきた。
お父さんを救い、あなた自身も仏となる。
あなたにはお父さんを変える使命があるんですよ」と。
だから信心に励みなさい、学会活動にまい進しなさいと指導は続きます。
子供は親を選べない、なんて言葉がありますが、願兼於業の考えにおいてはそうじゃない。
どんな残念な親のもとであっても・不遇な環境下であっても、子供自身が「そこに生まれたい」と
願い出てきた、生まれながらにして背負った”負の宿命”であるというのです。
しかも、本人が前世で善行を積んで、清浄な来世に生まれる予定である所を、濁世にいる親を救うため
わざわざ清浄な来世への切符を捨ててでも濁世に生まれおちるのが法華経に説かれる「願兼於業」です。
なんとも自虐的でドMな世界観なのですが(他に表現が浮かびませんでした)
私はこの話を創価の会合で聞いた時、目からウロコでした。
私自身も「なんでこんな家庭にうまれてきたのだろう?」この指導を聞くまでずっと考えていました。
創価の信心に反対で、敵対心むき出しだった父ときょうだい。 母や私に対し、風当たりがきつかった。
家庭はいつもぎくしゃくで、5人で仲良く笑顔で出かけたり・食卓を囲んだ記憶がない。
学会活動絡みのことでは容赦なく文句を言われ、選挙の時期には不機嫌になり、罵詈雑言を
父から浴びせられる事もあった。
女子部の会合で帰宅が遅くなると怒られた。非常識だ、夜中にほっつきあるいて、事故に遭いたいのか?
今はそれが心配からくる言葉だったと解りますが、当時の私からすれば「苦言」でしかなく。
家族や友人の幸せを願いながら・一家和楽を目指して頑張っている事を理解されず悲しかった。
常に不機嫌な父の顔色を伺って暮らしていた私は、母も私もきっと業が深いのだ・
そしてこんなに身近に法華経を信仰している家族が居ながらも目覚めない父は、更に業が深いのだと
思いこんでいました。

ところが、こんな信心反対の父親の下にうまれてきたのは「願兼於業」。
私が願ってこの父親を選んでうまれてきたのだ、という考え方に驚き・また納得してしまったのです。
これを聞いて以降の私は、父がどんなに不機嫌になろうとも怒ろうとも
「この父親を選んで生まれたのは私自身なのだ、恨んではいけない」と自分に言い聞かせていました。
今思えば、馬鹿だったなと思います。
父が不機嫌だったのは、私が非常識な行動をとっていたからなだけであって。創価の学会活動という
不条理・不合理きわまりない活動に執心している事に対するやるせなさと怒りだったんでしょう。
一時期、女子部の活動を休んでいた数年間の父は至って普通に私に接してくれていました。
結局は学会活動をしていることが父に無用のストレスを与え、怒りっぽくなっていただけなのです。
それを「魔の所業」だの「私自身が背負った宿業」だの思わされ、組織活動から離れないように
仕向けられていた。そのことに全然気づかなかったし、疑問にも思わなかった。
まったくの馬鹿でした。

よく、家族反対のなかで信心をしている人にはこんな指導がなされました
「反対することであなたを信心強情にしてくれている。(反対する)家族が信心をさせてくれてるんだよ」と。
こんなのトンデモだと今はわかります。
これが組織隷属への呪文で、呪縛手段だということに中々気づけないのはどうしてなんでしょうか。
私が思うに、やはり最初に「宿業」という負の遺産(?)を背負って生まれてきているのだという
考えをベースにしているせいじゃないかと思うのです。
いわば宿業という見えないものを「脅し」として使っている。
法華経にそう書いてあるにしても、組織隷属のためのツールになっているんです、完全に。
先に脅しありきで来られてしまうので、抗いようが無い。
その脅しが目に見えない・得体のしれない物(宿業)であるだけに、怖いと感じる。
輪廻転生を全く信じない人であれば、冷静に考え、こんな思想自体を排除できるのでしょうが
見えない世界だからこその脅威を感じる人の方が多い様な気がします。
霊感商法もこのテのもので、霊能力があるとされる人物から「悪霊がとりついている」なんて
言われたら怖くなり・思い当たる節もあれば、霊能者の言いなりになってしまうんでしょう。

思いだしましたが、私が出会った福運貯金を連呼する婦人部長も
「宿業がどんな形で出てくるかなんて誰にもわからない・あなたがなんともなくても
 お子さんやご主人や、孫の代で出たら後悔しない?」と脅しをかけてきたことがありましたっけ。
これも今思うと、ものすごくおかしい。
なんで私自身の宿業が家族に出るのか?宿業って自分もちじゃないんだっけ。
願兼於業の法則でゆけば、悪世に堕ちた私を救わんがために子供が願って私の下に生まれてくるって話?
孫は私の子供が悪世に堕ちたのを見て、見捨てるわけにいかないから願ってまた生まれてくるって話?
なんなのそのエンドレスw
全てが繋がっている、と言いたいのかもしれないけれど、これもまた都合のいい脅しの手段のような
気がしてならないのです。
たとえば私や子供がバリ活で自身になんともなくても孫の代にそれが出たら、誰を責めるのか?
自分たちの過去世を責めるの? それとも孫自身の過去世の宿業?どっちなのよ?!
もういい加減にしろよって気にもなる。
学会活動に励めば三世に渡って護られる、孫末代まで・・なんて耳当たりのいい言葉の裏を返すと
「活動をおろそかにした場合は三世にわたって祟られる。孫末代まで」になる。
そんなハイリスクを背負ってまで、学会に帰依する必要ないじゃん! 今の私はそう思います。

かといって、私が全く前世を信じない訳でもなく、現在過去未来を否定もしません。
仏法は道理、現在の結果は過去の因を見れば明らか。それを否定はしません。
ただ、宿業があったにせよ・それが現世に悪い形で出てきて不遇だったり不幸に見舞われたにせよ
それを「学会活動で乗り越える」なんて無用というか、ナンセンスだし意味もないと言いたい。
新聞推進や選挙活動や財務や池田老人を思いながら題目を上げたり他人を入会に導くなどの活動で
不遇や不幸を転換できるわけがない。
もっと現実を見るべきだと私は考えます。
信仰はあくまでも心の問題で、現実的な手立てや行動の一助となるものであるべき。
決して手段ではないはずなのです。
そこを「宿業」「宿命転換」などという言葉をつかってもっともらしく、組織に利する行動へと
向かわせようとする、そんなのどう考えたって詐欺じゃないでしょうか。
創価のサイトを見てもそこにはひとつも「新聞推進で宿命転換」「真心の財務で経済革命」
「党と候補者の名前を語って宿命転換」とは書いてありません。
あくまでも御書を学び、仏法を語り、お題目を上げる活動が中心の信仰のように表向きは
なっています。だけど実際の現場は前述した事柄が中心となっている。
なんでおおっぴらに書かないんでしょうね? 本当のことなのに。
実際、組織の柱とも言える・しかも命題となっている活動なのにw

今回、願兼於業についてもっと書きたかったのですがまとまりきらず・長文になりそうなので
別の記事で改めて書こうと思います。

宿業について考えた(1)

創価の教義で「すべての因は自分にある」とよく語られます。
いわゆる宿業というものですが、過去世の罪業が現世に報いとなって出てくるという仏教の考え。
”どうして私がこんな目にあわなきゃいけないの?”と思えるような不幸な・不条理な出来事に
対し、それが「過去世からの宿業」であり「自分持ち」だと聞かされた時、一般社会人の方々は
すぐに納得できるでしょうか?
私は学会3世でうまれたときから学会員なので、この考え方が実に自然なものだったんです。
多くの創価脳の方々も同じくだと思います。

理由のわからない、理不尽な苦しみに「宿業」という名前と理由をつければ一瞬楽になります。
なんでこんな目にあうのか? どうして自分がこんな苦しみと向き合わねばならないのか?
そんな中々答えの出ないことを、ぐるぐる長時間考えるよりも、理由が解った方が
気は楽でしょう。
そして創価では「宿業」を打破するため・宿命を転換するために、学会活動に励め・他人を
折伏せよ(創価入会に導け)と、けしかけていくわけです。

コメント欄の御返事に書かせていただいた内容ですが、
世の中には信心などなくても、ふつうに幸福に平穏に暮らしていらっしゃる方々がいて、どうして?
と不思議に思った事が女子部時代にありました。
そのことを幹部のおばに尋ねたところ「私たちは業が深いから」という答えが返ってきました。
私たち学会員は、みーんな宿業が深いんだ。だから法華経で宿命転換していくんだよ、と。
そして信心がなくても・学会員でなくても幸せそうに見える人たちだって、いつ宿業の嵐が吹き荒れるか
わかったものではない。幸福はずっと続くとは限らないんだと教わりました。
無知で若かった私は「そうなのか!」と納得してしまいました。
私も女子部のみんなも、業が深いんだね!とw

けれど40代を過ぎた今、覚醒した頭で振り返ると
こんな子供騙しで納得させられていたなんてと、情けない限りです・・。

日蓮大聖人は過去・現在・未来という「三世の生命」を説いています。
ヒトの生命というものは「今生の寿命期間」だけに見えているけど実は永遠である。
ヒトには前世あり・今世あり・そしてこの肉体+寿命が尽きたのち、来世(生まれ変わり)が
あるという考え方。
当然のことながら前世と未来世を見ることは常人には不可能です。
その、見えないものを信じた上でないと「宿業」というものも、中々信じがたい物だと思います。
繰り返しですが私は生まれながらにして叩き込まれてきたので、この法則はごく当たり前のもので
東から太陽が昇り西へ沈むのと同じく、理由なんてなく「そういうものだ」と信じていました。

女子部の頃、面接の席上だったと思いますが幹部から
「自身の一凶はなんだと思う?一人ずつ言ってみなさい」と質問がありました。
一凶とは、最大の悪とでも訳せば良いでしょうか。 
「自身の一凶」はイコール自覚している最大の宿業・いのちの傾向性という事です。
私はいつもこの「自身の一凶」が何なのかわかりませんでした。
いや、別に自分が完璧な人間だと思っているわけじゃないんですよw
悪いところは山ほどあるけど、ありすぎてどれが一凶なのかわからない。
もう、自分の存在自体が「一凶」なんじゃないかと真剣に考えた事もあるくらいで。
わかりませんと答えると「その迷いが一凶なんでしょう。お題目を唱え抜く中で自分の一凶が
何であるかを追求していきなさい」と幹部から言われました。
このやりとりを最近思い出し、ムカつきましたw
なんでそんなに上から目線か?という事もありますが、本人の内面の最大悪を聞きだして
一体どうするつもりだったのかと。
他の人がなんと答えて、幹部がそれに対し何と言ったのか全然思い出せないのですが。
なんというか、この時代(1990年代)の幹部からの個人指導って「総括」みたいでした。
精神的リンチです。
「彼氏と別れろ」って数時間にわたって詰めるのもそれだったし、まさに。
今はさすがにそんな事してないと思いますけどね。
このように、自分より年上の・組織の中で「幹部」とされている自分より立場が上の人間に
暗に「あなた自身が悪い」「あなたの中の最大悪を追及せよ」と責められる。
学会育ちの女子部はここで「何言ってんだ!自分がモテないからって後輩に八つ当たりすんな!」
とは考えません。 
「ああ、先輩のおっしゃる通りだ。私が全部悪いんだ」と思うのです。
だけど大好きな彼と別れられない、どうしよう、弱い自分が情けないと泣くのです。
又は、自分の一凶がわからないのは、私の信心が足りないからだと、自責するのです。
そうして弱い心を・足りない信心を埋めるべく、活動に打ち込んで行く。
なんとも上手く出来たサイクルだったんだと、ほとほと感心します。
結局、みんな「自我」を奪われていたんです。
自分は「宿業」を背負っている、という「負い目」が自我を塞ぐ。
そこにつけこまれ・組織に利用されていたと言っても過言ではないと思います。

「全ての原因(みなもと)は自分にある」
この考え方が100%悪いとは言いませんが、創価の場合は組織に利するよう使われていた。
日常的におこる些細なトラブル・アクシデントに対しても「お題目が上がって無かったからだ」
「会合を休んだからだ」「折伏ができてない・新聞啓蒙ができてないからだ」などと、宗教行為や
学会活動に絡めて自分を責める。これが常態化するとどうなるか。
真面目な活動家の方に多いのは、会合&活動を休むという「負い目」で鬱が加速する事でしょう。
会合に出られないのは・活動が出来ないのは「弱い自分のせい」だと考えてしまうのです。
実際はそうじゃないのに。 
組織動向・幹部の言動、その他もろもろに矛盾や疑問を感じたことが発端で活動を拒否しただけ。
けれどまじめ過ぎる人は、それを「自分がの心が弱いから・信心が足りない・自分が悪いからだ」と
思ってしまう。
それでますます自分を追い込む。 本当はそうじゃないのに。
悪いのは悩める学会員ではない。 悪いのは組織そのもの。
ここにハッキリ気が付くまでに遠まわりされる方も、かなり沢山いらっしゃると思います。
その過程で心身を病む方も多いでしょう。
なぜに、このシンプルな結論にショートカットでたどりつけないのか。
それは基礎として叩き込まれる「宿業」という概念ではないかと私は思ったのです。
罰論が怖いタイプよりも、この「宿業」ベースの自縄自縛に陥る人が多いのではないかと
皆さんのコメントを読んでいて感じた次第です。

鬱病は「自責の念が強い」ことが症状のひとつとしてあげられるそうですね。
私は、子供時代から自責の念が強すぎました。 後悔ばかりしていた。自分のとる行動すべてが
裏目に出ている様な気がして仕方が無かった。
成人以降、友人と会った後、心から「楽しかった、いい日だった」と思えた事が無かったです。
あんなこと言ってしまったどうしよう、気にしてないかな?こういうところ、もっと気を使えばよかった
etc・・・。
上記したことがら、覚醒前までの常でした。
学会活動を全部放棄して、一般人のふりをしてママ友や女友達と付き合っている時もその状態。
会っている時はとても楽しいんだけど、一人になってから考え込んでしまうんです。
けど、友人は変わらず連絡をくれるし、離れて行かれないから大丈夫だったのかな、と安心する。
そんな繰り返しでした。
覚醒して一年が経過し、最近はっとしたんです。
そういえば、このごろ人に会ったあとの自分を責めてないわ、と。
シンプルに楽しかった、有意義だった、と思えているようで
無意識でしたがランチや自分の習い事に行った日は夜、家事の時に鼻歌をうたっているらしいです
(子供が教えてくれました)。
もう、びっくりでした。 我がことながら、えっ、すごいなぁと思いました。
普通の人が聞いたら「なにいってんの?」かもしれませんがw

これは飛躍しすぎかもしれないけど、まじめな学会員・教義が絶対正しい!と信じて疑わない
学会員の大半が、自覚のない「うつ病」なんじゃないでしょうか?
自分では普通だと思ってるけど、身体に不定愁訴がある・・そういった状態を「仮面うつ病」と
呼ぶそうです。
身体症状によって精神症状がマスク(仮面)されているという意味で、慢性的な身体の不調はあるけれど
人と会ったり・出かけたりすること(メンタル面)は全く億劫でないという状態。
うちの母なんてまさにこれだと思いました。 精神的には明るくて、活動こそわが人生!と張り切って
いますが、不定愁訴は止まず。
大病こそしていませんが、ずっと通院していますし薬を手放せない暮らしです。
70代の今に始まった事では無く、私が小学生くらいの頃からなので30年以上。
信心してるから私は元気なの!と母はいうけれど、単なる「から元気」なんじゃ?と思います。
私も女子部バリ活時代、よく立ちくらみで失神したり、ダウンしていました。
(ちなみに低血圧ではありません)
思い当たる節もなく、原因がわからなかったのですが、結婚後は全くその症状が出ていないのです。
調べたところ立ちくらみの原因も自律神経の乱れで、ストレスが関係しているそうです。
やはり、私も仮面うつ病だったのかもしれないなと思います。

最近思い出した事ですが、覚醒前にたびたび、色んな人(外部)から
「そんなに自分を責めないで・責めなくていいのに」と言われた事がありました。
交際当時の主人からも言われた事があります。
それぞれ何に対してだったのか記憶が無いのですが、多分ものすごく些細な事だったんでしょう。
些細な事でも全部「自分が悪い」とネガティブになり、悲壮な顔を見せたのではないかと。
そんな自分を振り返り、可哀相になります。

また、幼いころから自責ばかりしていなければ、もっと自分を肯定的に見てあげていれば
違った生き方もあったのではないか・・と考えてしまいます。
自己の無限の可能性をひらきゆく妙法~云々、会合でしょちゅう聞かされ、そのとおりだ!なんて
頷いてましたが、本当に「自我に自信と誇り」を持って生きてた人がどれだけ居たかと思い返すと、
全く思いだせない。
「創価学会員である自身に自信と誇り(という勘違い)」をもった幹部には一杯会ったけどw
創価をとったらどうなのさ?って人ばかりでした。
私の人生は、まさに産後デビューという感じなのですがw ママ友世界の方が自信と誇りを持って
生きている人に出会う率が高かったです。
そういった人達に共通しているのは親から大事に育てられてきた・沢山の「機会」を与えられて
育って来た・また自分で自分の道を選んできた、という点です。
一般人と自分を比べ落胆の連続ですが、私はどうやら母親主導の創価の世界で
「自我と自信を殺がれる生き方」を叩き込まれてきたんだなーと思い当たりました。
信仰が無ければ、信仰を柱にしなければ一人で立てないよう骨抜きにされてきた。
信仰を持つ「優越感・特別感」は、それがなくなったら命取りだから執着をもち「絶対感」に育つ。
そりゃ、一般世間・社会が生き難いわけだわ! と、納得してしまいます。
そして未来ある子供達をそんな風にしてしまってはいけないと強く危惧するのです。

幸せになるための信仰であるはずなのに。
宿業という名前の、不幸の原因を解決するための信仰であるはずなのに。
自分が悪いと、自分ばかりを責め、無限ループに陥って行く。もがき続ける。
そんな生き方のどこが「自受法楽」になるのか。私にはさっぱりわかりません。

そして多くの真面目な・私は僕は業が深いんだと悩める会員の皆さん、もう自分を責めるのは
やめましょう。
何も自分を責めなくていいのです。
自分を解放してあげて下さい。 
自縄自縛の言葉通り、その縄をほどくのもあなた自身です。

(2)に続きます。

世界平和 理想と現実

最近の創価は功徳を求めないそうです。
功徳信心ではなく「世界平和」のために創価に尽くしている人達がいる(現在進行形)。
この「世界平和」というスローガン、戦後教育で育った日本人の幻想なんですよね。
”世界平和、世界市民”なんとも耳当たりの善い言葉だと思います。
純真に創価が平和団体だと信じる人達は、心のもちようひとつでそれが成し遂げられるはずだと
創価仏法を池田哲学を語り広げているのでしょう。
しかし、そういった人達はハッキリ言えば世間知らずです。
創価に目を塞がれて、世界の現実を知らない。
何故に世界で紛争がおこるのか。千年以上今なお続いているのか。
それが宗教から来るものだと理解していないと思います。
もしくは「(海外の人は)外道なんか信じてるから」と誤変換しているのでしょう。

創価と同じく、「自分たちだけの正義」をふりかざすから紛争やテロがなくならないのです。

日本生まれの数多くの仏教宗派や神道は、他宗派を排除したりしません。
そこには日本人ならではの「和」を重んじる精神が根付いているからです。
日蓮の教えだけが、キリスト教など外国の宗教との共通点を持っています。「絶対正義」です。
自分たち以外の真実・正義はありえず、他のすべての宗教は正義ではない、だから排除しようと
するのです。
(注:厳密に言うと、一神教は「仏(仏教)」を敵対視しません。あくまでも「神」を争点にします)
これは危険な思想ですが、創価脳の多くは「良かれ」と思って折伏を行っている。
「相手の幸福のため」だと思わされ、やっている。
しかし実際、創価脳の人達がやっていることはその質は違うとはいえ、精神性はテロリストと
変わらないわけです。
テロリストも自分たちが「悪」だと思ってやっていません。
善で正義だと思ってやっているのです。
創価脳は「一緒にするな!」と怒るかもしれませんが残念ながら同じです。
そのあたりの事は、ぜひ自分で勉強して欲しいと思います。

私のお勧めの書籍は井沢元彦さんの「世界の宗教と戦争講座(決定版)」です。
大変わかりやすい内容で、読めば世界の三大宗教のあらまし、「日本の常識は世界の非常識」の
アウトラインが解ると思います。
そして日本人の感覚に、実は創価のやりかたはそぐわないものだということも理解できると
思います。

話は変わりますが、いま私はユダヤ教についての本を読んでいます。
選民思想とはユダヤ教を信じる人の「特別感」なのですが、これが創価の信仰をたもつ「優越感」と
似ていると思った事から、ユダヤ教に興味をもち、調べているところです。
またまとまり次第、記事にしたいと思っています。
ふと読書の最中に
「そう言えば、昔、創価でホロコースト展やってたよなぁ」と思い出したのです。
女子部時代、友人を連れ出して見に行きましたっけ。写真展示が主体だったことくらいしか
記憶にないのですが・・。
(ご存じない方へ。正しくは「勇気の証言 アンネ・フランクとホロコースト展」でぐぐって下さい)
で、一体どうして創価がホロコースト展を行ったのか?
当時は全くそんな事に興味を持ちませんでしたが、急に気になり、ネットで調べました。
いろいろときな臭い事柄が出てきましたがw そんな中で見つけた池田老人の指導がトンデモで
度肝を抜かれました。 覚醒した今、これを読むと、ちょっと信じられない感じがあります。
とてもじゃないけど平和を標榜する団体の長が言う事じゃないですね。
そして、原理主義をありありと感じてしまうのです。
以下、転載します。


1999年2月5日(金)聖教新聞

2月度全国県長会議での池田名誉会長のスピーチから

<正義を勝たせよ、執念の闘争で>


アメリカのロサンゼルスに、ユダヤ人迫害の記録をとどめるセンターがある。
サイモン・ウィーゼンタールセンターである。私も招かれて、牧口先生の殉教について、講演した。
(1996年9月)先日も代表が、ホロコースト展のために、来日された。
このセンターの名前は、ナチスの強制収容所の生き残りである、サイモン・ウィーゼンタール博士の
名前から取っている。

 博士は、今年91歳になる。今なお、オーストリアのウィーンで、ナチスの悪を追求する闘いを
続けておられる。悪人達からは『ナチハンター』と、恐れられてきた。
これまで、発見して法廷の裁きにかけたナチスの残党の数は1200人。
博士の闘いによって、ナチスを永遠に許さない、という国際世論は高まった。逮捕されなかった人間も
恐れおののいて、枕を高くして眠ることは、永久にできなくなった。
悪人がどこに隠れていようとも、草の根を分けてもの執念で、世界中の情報を集め、ありとあらゆる方法を
考え出して、悪人を追いつめてきた。しかも、博士は、いかなる公的機関の支援も受けていない。
民間人として、個人的な寄付に支えられて、活動を続けてきたのである。
敵からたたかれ、妨害され、命を狙われ、悪評のデマを流されながら。博士は、世界各国から、栄誉や勲章、
名誉博士号を受けたが、国内では批判にさらされてきた。博士は言う。


「私が何十年間も闘ってきた相手は何か。それは、『忘れる』ということに対してなのです。」

戦後すぐの時期は、ナチスへの怒りに燃えていた人々も、時間とともに、「もういいじゃないか。」という
雰囲気になってきた。被害者であるユダヤの同朋にさえ、「もう嫌なことは忘れたい。」という空気が
あったという。「もう時効にしよう。」という動きもあり、実際、時効が成立する寸前までいった。
しかし、博士は叫んだ。

「道徳上の義務に時効はない。正義の実現に期限なんかない。」

博士等の運動によって、ドイツ・オーストリアは、殺人と、殺人幇助について時効を廃止した。
徹底的に、悪は根絶やしにしなければ、将来また、悲劇は繰り返される。そんなことが許されようか。
6百万人(注:六千万人)ものユダヤ人が殺された。博士自身も、十数もの強制収容所を転々として、
生き残ったのは、奇跡でしかなかった。だからこそ、生き残ったものの義務として、人々に、断じて
忘れさせてはならない。と、闘い続けるのである。

 創価学会も、宗門と、党の悪人に、一千万の同士の真心が踏みにじられた。皆がどれほどの思いで
彼等を支え、護ってあげたことか。選挙の支援活動の途上で、事故で亡くなった人もいる。
信念のために殉じた。いわば、殉教である。その人達の犠牲を思っただけでも、議員の裏切りは、
断じて許せない。坊主についても同じである。永遠に許してはならない。


 博士は、訴える。「忘れたいなんて、安直すぎる。」と。

[私達が死んだら、みんな天国へ行くだろう。天国では、ホロコーストの犠牲者達と一緒になる。
彼等は、私達に先ず聞くに違いない。『君たちは、運がよかったね。生き延びたんだから。君たちの余生は
贈り物だ。その贈り物を君たちはどうしたのかね。』ある人は言うだろう。「私は、実業家だった。」
また、ある人は言うだろう。「弁護士をやっていた。」次の人は言うだろう。「教師をしてました。」

私(サイモン・ウィーゼンタール博士)は、こう答えるだろう。『君たちのことを忘れなかったよ。』
(『ナチ犯罪人を追う』下村良和訳・時事通信社)]

 今、日本も戦争の悲惨さを忘れさせよう、アジア侵略の歴史も忘れさせよう、という風潮が高くなって
いる。極めて危険な傾向である。だから、私達が立ち上がる以外にない。

博士の執念に対して、いつもこう言われた。「もういいじゃないか。そんなに神経を尖らせることはない。
悪人とは言え、個人をそこまで追求するのは、やりすぎではないか。」非難ばかりであった。
しかし、博士は、断固として追求をやめなかった。

「私は、個人的な復讐を求めているのではない。私は正義を求めているのだ。
悪事を犯した人間を、そのままのうのうとして、安楽に生きさせたとしたら、この世の正義はいったいどこに
あるのか。
社会は、正義の土台が崩れてしまう。人間性への信頼を取り戻すためには、絶対に悪を放置しては
ならないのだ。」


(注:私が「エッ?!」と思ったところに下線を入れました)

1999年といえば私は活動家だったのですが、こんな指導まったく記憶にないです。
新聞をまともに読んでなかった証拠ですねw
ただ「断じて悪を許してはならない」という言葉は、当時いやというほど繰り返し聞いていました。
自身の一凶を「宗門を責め抜く心が足りない。悪を断じて許さないとの執念がそこにないから
(一凶を)断ずることができないんだ。師匠の敵を見て見ぬふりするからだ」なんて指導を
中央幹部がするような時代でした。 今はどうなんでしょうか。

しかしまさか、池田老人の個人的な思い入れ+SW博士へのオマージュ&シンパシー込みで、
ホロコースト展を開催していたとはw驚きです。 
でも残念ながらそんな思い入れ末端会員にみじんも伝わって無かったです。
ただ連れ出せ~報告だ~あと何人・・って感じで、その意義までは解らなかったですね。
少なくとも私のいた地域組織では「平和を訴えるために外部を連れて展示を見に行こう」という
打ち出しでしたが。
まさか宗門と・脱会した議員さんに向けての「あてつけ」が含まれていただなんて
全然わかりませんでしたw
宗門も元議員さんも、ナチスと同格にされるだなんてお気の毒です。大量殺戮なんてやってないのに。
なんだかあまりにも飛躍しすぎていて、ついていけません・・。
被害妄想が過ぎる、と思います。 
宗門から切られたのは誰のせい?議員が離れて行ったのも誰のせい?
まるで自分が一方的に理不尽な迫害を受けた側を装っているとしか、私には思えません。
そして自身の憎しみの対象を「全会員の敵」にすり変え、一斉攻撃せよ・正義の証明のためにも
忘れることなく追撃の手を緩めるな・水に流してたまるか!と指導していただなんて、
呆れて開いた口がふさがりません。
それとこれとを結び付けて語るなんて、一神教のため・政治思惑のため・多くの命を失うこととなった
ユダヤ人の方々に対し失礼ではないか?と私は感じます。

創価脳バリ活は、こういった池田老人の言葉を素直に「そのとおりだ!」と受け止めていたのでしょうか。
だったら恐ろしいことですよね。
マインドコントロール下にある状態でこの指導に触れられなかったことが残念ですが、もし私が
当時これを読んでいたら、脱会を考えるところまでいかずとも、池田老人を大きく見下げたと
思います。もともと尊敬の念もないですし・・。

また、敵からたたかれ、妨害され、命を狙われ、悪評のデマを流されながら。
博士は、世界各国から、栄誉や勲章、名誉博士号を受けたが、国内では批判にさらされてきた。

この部分、読めば読むほど味わいがありますw 
人権団体の長と自分を重ね合わせていたのでしょう。 勘違いも甚だしいと私は感じましたが・・。
側近の誰も注意しなかったんでしょうか。できるわけないですねw

池田老人が自虐史観にこだわっている人物だということも、私はわかって無かったんですが
(日本人じゃない的な噂がネット上にありますが・・)会合でこんなことを言っていたという事実に
たまげました。
”私たちが立ち上がる以外にない”って・・いやいや。 あんたと一緒にしないで、と思ってしまう。
しかし池田老人も、スゴイ時期に雲隠れしたものですねw
今の時代にこんなこと発言していたら、どうなることか。自公政権なんてあり得ないことですよね。
今現在も、かなり無理があるけれども。
安倍首相の掲げる「戦後レジームからの脱却」と、池田老人が1999年当時とはいえ話している内容は
真逆なわけですから。 そういったことを学会員はなにもわからず、功徳選挙で応援している。
そんな政権与党、日本のためにならないと私は思います。
こういった事柄を、選挙を頼みに来るバリ活に言ってやるのもいいと思います。馬耳東風でしょうが。

私が創価の矛盾に気付き決別を考え、自分のそれまでの学会員としての人生を振り返った時、
痛恨だったのはあまりにも「無知」であったことでした。
まったくといってよいほど世の中を知らず、不勉強でした。だのにすべてをわかった気になっていました。
信心さえしていれば万事大丈夫、妙法をたもつ特別感という堕落した思考の下にあったからだと
思います。

世界平和も同じく、創価仏法を語り広げてゆけば・お題目を唱え抜けば成し遂げられるだなんて、
簡単に考えないで欲しい。
せめて世界の宗教事情を教養として理解してからもう一度、本当に創価仏法で
世界平和が成し遂げられるのか、よーく考えてみてほしいと現役活動家の方々に望みます。

お返事

前回の記事に対して、非公開コメントでお二方から質問をいただきました。
補足も含めて、この記事でお返事させてもらいたいと思います。

お二方の質問の趣意。
「創価の間違いについて指摘したり、真実を教えたり、正すことはいけないのか」

これは相手の方のマインドコントロールの度合いにもよると思いますが、
いくら創価の問題点や現実を話したところで、殆どの学会員(とくにバリ活)は信じません。
面白いくらいにみんな否定しますし、ソースを確認します。
そのソースがインターネットだったり・脱会者による告発本(とくに元議員さん)だというと
100%「デマに決まってる!」と言います。
創価では、ネットに書いてあることは嘘だらけだから信じるなと教えていますし、元議員は反逆者。
支援者(=学会員)を裏切った極悪人という位置づけです。
なので、確かな事実であってもそのようなソースは信じないのです。残念ですが。

ただし、わずかでも覚醒しはじめている方に、矢野氏の書籍を読むように促すのは
有効だと思います。
講談社から出ている本ですし、まったくの大嘘が書かれているなら創価だって訴訟沙汰にし
出版差し止め&回収するはずです。
が、現在も普通に流通し、公立図書館にだっておいてあるところがあります。
そういった点も信じるに足りる材料です。
(しかしこれがバリ活となると「大手出版社は創価を陥れる強敵!」と考えます、厄介です)
選挙活動や財務に疑問をもっているなど、日常的に口にする人だったら、受け入れるキャパも
あるでしょう。

間違いを正すことが絶対いけないとは思わないですが、創価脳の信用信頼度は、外部よりも
断然内部の人間です。
外部である配偶者や恋人や義家族や友人が、創価や池田老人や教義のマイナスを突いてくるのは
単純に「難」としか考えません。 逆に、そうやって難(癖)をつけてくる相手を折伏してやろうと
躍起になるかもしれません。
全員がそうだとは言いませんが、高確率でそうなると思います。

正しいと信じ込んでいるものを否定されたら、あなた(外部の方)はどう思いますか?
たとえば尊敬する人物や親愛なる親兄弟を、身内でもなく・よくわかってもいない人物から
批判されたり・悪口(それがたとえ本当のことであっても)を言われたりしたとき。
腹の立たない人や気分を害さない人は、珍しいと思います。
創価脳の人にとっての学会組織・池田老人・教えというものは、親愛なる尊敬すべきものです。
だからそこに居続けるのです。
なかには懐疑的だけど仏罰が怖いから・周囲(学会員の家族や地域の人)の目を気にして
居続ける人もいます。現状はこのタイプが多くなっているんじゃないでしょうか。
だけど、奥底に親愛・尊敬の念が一切なければ、そんなところに居る必要を感じず、組織から距離を
おいてみたり自助努力をしているはずなのです。
それすらないということは、学会やもろもろに対する嫌悪はそれほどないということです。
その状況下で「まちがってる」なんて聞かされても、いい気はしないし、すんなり外部の人のいうことを
聞き入れると思えません。
だから「何も解らないなら口も出さないのが賢明」と記事に書きました。

私がまだマインドコントロール下にあったつい2-3年前、
未活動であっても・池田老人を師とも思わず・創価婦人部が嫌いであっても、創価や・創価に入信している
人物や・公明党に対しての悪評を耳にするのは、どこかイヤなものでした。
表に感情は出さずとも、故郷をばかにされたような気分になっていました。本当の話です。
前回までの記事で書いたとおり、私の主人や義家族はまったく創価に対してのマイナスイメージや
悪評などを私の耳に吹き込むことはなかったです。
誉めてもくれませんでしたが、貶しもしない。創価には一切触れない。ただ私という人間だけを見て
創価をなきものとして私とつきあってくれていました。 それはいまも同じです。
ここが大事なように私は思います。

創価の信心を持つ人との結婚を考えているとコメントを寄せて下さった方が数名いらっしゃり、
そのうち今回質問をくださった方の文章を読んでいて、気になったことがあります。
創価を意識しすぎです。
過去、個人的に嫌な思いをさせられたりしたんでしょうか。文面からは、解らなかったのですが。
そこ(創価)にこだわってしまうのは、相手を色眼鏡で見ていることと同じです。
はなから創価はないものとして、相手に関わってあげて欲しいと私は思います。
創価のダーティな部分を知っているからこそ、早く愛する人を救い出したい!と急く気持ちも解らなく
ないですが、創価にこだわりすぎると、あなたが先に消耗し疲れ切ってヨレヨレになります。
スルースキルを身につけたほうが賢明かと思います。

この問題は、数多くの覚醒したブロガーさんも仰っていることですが
創価脳自身が「自分で気づく」べき事なんです。
そばに居る「騙されて喜んでいる人」を見ていたら狂おしいと思います、そのことは理解できます。
手でも足でも出して、一日も早く間違いに気付かせたい、そんな思いもわかります。
だけれども、本人が自分の頭で考え・感覚として「これは間違っている」と気付かない限りは
どうしようもないんです。
繰り返しになりますが、大変厄介な事に、教義で「信仰者には難が襲う」と教え込まれています。
身近な愛する人の反対意見や態度でさえも、教義に照らして「日蓮大聖人の仰せのとおりだ」
「池田先生のおっしゃるとおりになった!」と、創価脳は思いこんでしまい、ますます信仰を深める
悪循環になっています。
だから下手にマイナスでネガティブな言葉を口にしないようにしてほしい、というのはそこなのです。
どれだけ外部が正論でたたみかけ、内部の本人が一瞬納得しようとも、今度は間髪いれずに
「仏罰」「罰論」が襲ってくるんです。
そのようなやりとりを繰り返すうち、あなたからの別離を考えるようになる場合もあるでしょう。

質問をくれた方の文章のなかに、有名芸能人・著名人の家族がマインドコントロールをとくため
果敢に取り組んだお話がありました。
そういった有名芸能人・著名人が、比較的早く(1-2年)で社会復帰している~云々と
あったのですが、彼女らは特別ですよ。考えてみてください。
一切の仕事を休んで・隔離され(入院だったり)・そのあいだ、誰かしらつきっきりだったわけです。
ごく普通の一般人に同じことが出来るでしょうか?
私が「結婚後はなるべく遠距離に引っ越すことが望ましい」と記事に書いたところ「仕事もあるのに
そんなに簡単に住まいを遠方に移せない」と意見を寄せてくれた人がいました。
そのとおりなんです。 一般人には難しい動かしづらい「現実」というものがあります。
一気に環境をがらっと変えてしまう事が出来ないからこそ、焦りは禁物だと思うし
「君は騙されてるんだよ!」なんて、言うだけ事がややこしくなります。
まだ周囲に創価の組織の人がいっぱい居る状態でそんなことを訴えたって無駄なんです。
理由はもう敢えていいません。わかりますよね?

創価脳の相手を遠隔し・学会活動を一切しないで規則正しい生活を送らせてあげ・創価の親や友人、
知り合いのない場所で「自分で考える」人付き合いをさせてゆく、そんな完全環境を外部のあなたが
創価脳の相手に用意してあげられるのであれば、創価の矛盾点やまちがいを訴えていくことについて
私は何も申し上げることはありません。

また、2世3世の場合は創価から離れること=実家の親との確執を生む・離別という問題が
出てきます。
創価をイヤになったところで、そんなに簡単に創価脳の親を思いきれるものではありません。
時間が必要だというのは、その問題もあります。
ゆっくりと自分の中で整理・おりあいをつけて行くこと・その後ろ盾として外部の身内
(配偶者や義家族)があたたかく、以前となにも態度を変えず自分を見守ってくれている事が安心感へ
繋がり、覚醒を確実なものにしてゆくことになると、私は思います。

外部の方のすごさって、「信仰が無くても立派に生き抜いて現在がある」 ことなんですよ。
それを創価脳に気付かせてやって欲しいのです。
ただ、残念なことに、創価脳は無意識のうちに「妙法をたもつ(おばかな)優越感」に立って
生きています。 信仰が無くても立派に生き抜いている外部のみなさん、そのすごさ偉大さを
見落としてるというか「わからない」んです。
なんせ、生まれ落ちた瞬間から(母親のおなかにいる時から)自分は信心を柱に生きてきた、
そう思いこんでいるからです。
信仰なんかなくても、心がけと努力と機転でちゃんと生きて行ってるよ、ってことを
ぜひ見せてあげて欲しい。 出来れば数多くの、そんな外部の方々と関わらせてあげて欲しい。
創価脳(2世3世4世)の、いわゆる「福子」の多くは世間知らずばかりです。
創価の世界が素晴らしい!とプロパガンダされて生きてきたので、外の世界の素晴らしい人が
見えなくなってます。 (そのかわりに外部の不幸な人探しが得意ですw)
外部の方が、創価脳にしてあげられることは特定の信仰にどっぷりつかった生活なんかしなくても
普通に生きられる。幸せである。キラキラしていられると、躍起にならなくていいから「普通に」
生活の中で・年月の中で、見せてあげることなのだと私は思います。
だから前回の記事で「創価はオールスルーでいい」と書いたのです。

自分がそうだったから言えるのですが、創価脳はかわいそうな人達です。
狭い箱庭で飼いならされ、外の世界にしあわせは無い、自分の心の中と・組織活動に徹して
生きるところに幸福があると教わる。
しかしその「心」を懐柔され、自分の自由になっていないのに気付かないままでいるのです。
幸福価値を叫ぶわりに、現実は追い付かず、現実を諦める言い訳を「来世」という見えないものに
賭け・預けています。
偉大なる師匠は雲隠れしていますが、元気で執筆活動に励んでいると信じています。
世界平和を提唱し、偉大なる師匠を筆頭に自分たちは使命を持ってそのことに取り組んでいると
誇りをもっていますが、世界の三大宗教ともいえるユダヤ・キリスト・イスラム教を「外道」と決めつけ
知ろうともせず、そこに潜む問題や国際事情を一切把握していません。 
お花畑の住人なのです。
そんなかわいそうな人達に、外の世界を教えてあげて欲しい。
その第一段階は、組織から離れること。組織の人間との接触回数を徐々に減らしていくこと。
落ち着いた静かな普通の環境に長く身を置くことなのです。

余談ですが私がどうにも解せないのは、公明党にも外務省出身議員が増えていますよね。
そのような人たちが、中国の実態や世界の宗教事情・常識を「知らない」わけがないと思うんです。
実際その国に赴任してた人もいますよね。
だのに、公明党で議員をしている・学会員でいられることが不思議でならないのです。
省庁に入れるくらいなのだから頭が悪いとは思えないし、矛盾しまくりの現実を目の当たりにし、
どういう了見なのか? 
内部から変えようとしている最中なのか・それとも・・?
機会があったらお聞きしたいものです。

話を元に戻しますが、創価はもう、組織としては(特に青年部)グダグダです。勢いもありません。
気を吐いているのは50代以降、いや60代以降高齢者でしょう。
結婚を考えている年代ということは、お相手は青年部に属する方々だと思います。
おそらくあと数年以内にXデーもやってくるでしょうし、次期会長人事で打ち出しがどう変化するか。
そのあたりで覚醒する人もぐっと増えると思います。
「おや?」と相手が思い始めたところで、助けてあげられるように、創価に関する知識は得ておいて
損は無いと思います。
矢野氏の書籍を差し出すタイミングも、注意深く見ていくことです。 
そして一番大事なことは、急な覚醒によって心身のバランスを崩してしまう方も多くいらっしゃいます。
そのときに、静かにお相手の支えとなって差し上げて欲しいということです。

最後になりましたが、できれば質問は今後「公開コメント」で頂けますようお願いします。

一日も早く、多くの人が覚醒する事を願っています。

現証について考えた

母が私に子供時代から教え込んできたこと
「法華経の行者を迫害するものは必ず滅びる」
聖人御難事の
「法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」
この部分を引き、小学校3年にして一節を暗記するほど、刷り込まれました。

そして実際、母のまわりでおこった「現証」を時折聞かされていました。
内部・外部問わず、母を故意に陥れようとしたり、信仰を誹謗した人間は現実に不幸になって
いるとの話。
若くして、事故で急死した人。病気で亡くなった人。自殺した人。経済的に不遇になった人。
リアルタイムで経過をみた出来事もあって、私は、ますます御本尊様を深く信じるように
なっていったのです。

法華経の行者に意地悪をしたり、悪い噂を流したり、危害を加えたり
陥れようとするような不届きな奴は必ず悪い目に遭っていく。
だから、アンチでも内部でも、こちらに「敵意・悪意」を向けてくる人間に何をされても気にするな。
こちらが清廉潔白なら、堂々としていればいい。
あえて反撃などしなくても、御本尊様はご覧になっている。必ず現証が出て、相手は不幸になって行くのだ。
そう母から教え込まれ・納得し・信じ切っていました。

自分自身も、実際にそのような体験があったことで、信仰への確信を深めていました。
以前のブログに書いた事を羅列します。

1・小学校時代の話(以前書いたこの記事
2・中学校時代にも上記と似た経験があり、相手が補導され、学校からいなくなった。
 (補足:以前のブログでは上記2件をミックスして記載しました。
  覚醒直後で身バレを極端に恐れていたため事実をぼかそうとしていたのです)
3・女子部時代、営業職をしていた頃の同僚である人物に仕事の足を引っ張られる行動をされた。
 その人物の親が多額の負債を抱えて失踪、債権者が会社に来たことを契機に退職し、いなくなった。
4・学生時代からの友人で、人の和を乱すのが得意(?)な子がいた。
 悪口を吹聴したり、仲間割れをさせたりする人だったが、ある日を境に消息不明に。
 既婚者だったが、男性とかけおちし、実の親きょうだいにも居所連絡なし(現在進行形)。
5・女子部時代、嫌な思いをさせられたメンバー(同志)がいたが
 久しぶりに会館で会った時、顔にやけどを負っていた(大きな痕が残っている状態)。
6・上記のメンバーにそそのかされ(?)私を説教した男子幹部が、病気で50代独身で亡くなった。

以前のブログに書きませんでしたが、これも現証だと思っていたエピソード

7・幼稚園選びに際し、嘘の情報を言いふらす人が居た。
 ライバルを減らしたいがためか周囲の足を引っ張り、他人の子供の弱点を突いていた。
 受験時期、突然なりを潜め、おかしいと思っていたら御主人の経営する会社が不渡を出して
 受験どころではなくなっており、姿を消した。

最近、これらのことを冷静に、よーく考え直してみたのです。
私はこれらの現実を「現証」だと思ってきたけど、本当のところはどうなのか?と。

すると、思い当たった事がありました。
どの人もみんな、普通に考えて、素行不良だった。精神性に歪みがあった。
あるいは家庭環境が複雑だったり・生活の基本がなっていないと言うか、生活が乱れがちだった。
法華経の行者うんぬん以前の問題で、一般常識から逸脱している人達だったということです。

前ブログに書いたことで言えば、1番2番の子たちは、親の都合で苗字が何度か変わっていました。
いまで言うネグレクト環境で育ったと思われます。
3番の人も家庭環境が複雑で、親とは縁を切ったと周囲に話していた事もあったようです。
4番の人はいわゆるエリート家族の中で一人だけ自己実現出来なかったタイプでした。
5番の人は中学時代、札付きのワルで地元で名前が知れていたようです。
6番の人は男子部の活動に人生をかけていたタイプ。身体的に無理を重ねていたのではないかと
察します。

7番の人も自己実現できなかったタイプで、有名女子校(一貫校)出身を自慢していましたが
大学はどこにも受からず、専門学校へ進んだことに強いコンプレックスがあったようです。

母を誹謗中傷し、若くして病で亡くなった人は、仕事が長続きせず、家族にも愛想を尽かされ
離婚。
子供と面会も許されずで、ストレスもあったんでしょう。
酒におぼれ煙草も増え、不節制に拍車がかかって結果、病に倒れた様でした。
自殺をした人も、勤務先での不正行為がばれて・・という経緯でした。

実際に「どういう人だったか」をよく思い出すと、こう言っては何ですが皆「悪因悪果」。
「法華経の行者に云々」以前に、みんな、自らまいた種を自分で刈り取っていただけなんですね。

”還著於本人”これも母や、創価の活動の中でよく聞かされた言葉です。
法華経に説かれている教え。 悪因悪果とおなじく、悪い行いは全部自分にかえってくるよという
戒めです。
まさに「仏法は道理」
本人が悪い心がけや行いに支配されていたから、結果不幸になったってそれだけの話。

別に、母や私(=法華経の行者)を誹謗中傷したり・陥れようとしたから結果そうなったんじゃない。
それを私の母は実に都合よく「法華経の行者(=母)を迫害した者に対する結果(現証)」と
思い込んでいたわけです。
母においては、現在もこの思いこみが継続中です。厄介な人ですw
たとえば仏法対話をはぐらかした人、新聞推進や贈呈を断った人によろしくないことがあると
「それ見たことか!私に反抗するからだ!」と、この調子です。
以前も書きましたが、ご近所の住民で80代の男性が癌で亡くなった事がありました。
選挙を頼みに行っても、公明党に入れる気はないなと言う人でした。
そんなおじさんが亡くなった時も母は「私の言う事を聞かないからだ」「檀家総代なんてやるからだ」
と言っていました・・。
なんでもかんでも、自分の都合の良いように解釈します。

たとえばおなじ事故や病気に創価の人と外部の人が遭遇するとします。
創価メンバーに対しては「大変だけど宿命転換のときが来た」「転受軽重だ」と前向きな捉え方を
見せる。
しかし外部に対しては「信心してないからああなるんだ」といった風です。
どこまでいっても、創価の信仰を持っている仲間はageで、そうでない外部はsageなのです。
私も、そのような面が青年部時代ありました。
バリ活が100%そうだとは言いません。中にはまともな人もいらっしゃると思いますが、
このような考え方を持つ人は少なくありません。 

そして、母のマインドは常に「下方比較」です。
信心などしなくても、常識的行動をし、平穏に幸福に暮らしている方はごまんといます。
というか、殆どの外部の方がそうだと思います。
しかし母は、そのような「信心なくして幸福な人」の存在を無視して暮らしています。
そのような人がいることは認識していてもあえて関わらず、どちらかといえば不幸な境遇にある人と
付き合い(=折伏先にするため)・幸福な人の、些細なマイナス点を見て自分をageるわけです。
身近なところで言えば父方の親戚がそうです。浄土真宗で・檀家総代もつとめる伯父をはじめ
父方のきょうだいは皆、経済的に裕福で、子供達も立派な経歴・肩がきを持ち、お孫さんたちも優秀。
葬儀方式で揉めたこともありますが、母は父の死後、父方親戚と一切の交流を絶ちました。
むこうから敬遠されている面もあるかと思いますが、母が本音をぽろっと漏らした事が、父の死後に
ありました。
母が創価の信仰をしていることを、父方の女きょうだいから結婚当時非難されたことがあったそうです。
母はそれを悔しくてたまらなかった、絶対見返してやると決めていたと。
しかし、祖父母の法事以来、数十年ぶりに父の葬儀で会った父方親族の立派さ・健康に愕然と
したのだと。
誰ひとり生活に困っているような人はいません。 余裕があります。
遠方からでしたが、80代の方まで、きょうだい全員が夫婦そろって参列してくれました。
母は父方親族とのつきあいを避けていました。もともと季節のあいさつや儀礼的な事が全くできない
(気のきかない)人なので、そういったことは全て父が引き受けていたのです。
学会活動に励むことで、自分の家庭を幸福に・一家和楽の自慢の家庭にするとひそかに燃えて
いたのでしょう。
しかし、父方のきょうだいは誰ひとり大病を患うことなく健康です。子供達もいわずもがな幸福です。
末弟の父が一番早く亡くなり、母は子供たちと反目しあうという結果となりました。
母としては、思う所がおおいにあったと思います。
だがしかし、それが覚醒につながる事はなく、ますますヤケになって創価の活動にハマって
いることがどうにも残念でたまりません・・。

話が少しそれましたが、創価のサイトに書いてある現証の説明↓

「現証」とは、その宗教の教義を実践した結果が生命や生活、そして社会にどのように現れたか、
ということです。宗教とは、観念的なものではなく、人々の生活や人生の側面に必ず大きな影響を
与えるものです。
そして、その現実の結果がどう生活や人生に影響を与えたかで、宗教の勝劣浅深を
判断していくべきです。


これを読んで気がついたのですが、
私の母やその他創価脳(法華講も)のいう「現証」って、おおむね敵対する相手にあらわれる
「不幸」な事象なんですよね。
良い事は「功徳が現れた」「功徳だね」と言う。 現証という言葉は殆ど使いません。
創価のサイトに書いてある説明で考えれば、この信仰で自他ともに幸福になった事でも「現証」と
呼ぶべきなのに。
現証にはふたつある・両極の側面があるという通念で使われていないのは何故なのか?
なぜに不幸ばかりを現証と呼ぶのか?
私も今回、創価のサイトで説明を読むまで、現証というものは
「法華経や、それを行じる人を貶めたり裏切った者に対する罰の現象をそう呼ぶ」
のだと思い込んでいました。

この事実に行きあたって、思い当たることと言えば、やはりこれもマインドコントロールの
ひとつの手法「呪縛」として現証を使っていたのだということです。
目に見えて不幸に陥った人を揶揄することで、信心への絶対心を植え付ける。
現証で解きあかす”法華経の行者最高最強説”は、イコール、”そうじゃなくなった時は無間地獄”
という意味をあらわす。
信仰が諸刃の剣であることを物語っているのです。
これは何も日蓮の教えに限ったことでなく、世界の他宗教にも戒律があり、裏切り者にはどんな
罰があるのかが説かれています。

しかし、創価がいう「現証」は、法華経や日蓮大聖人の教えを裏切ったというよりは
「学会員を裏切った」「先生を裏切った」「組織を裏切った」相手に向けられたもの。
その相手が不幸になったり病に倒れる事をもって「現証」と呼ぼうとする。
そして自分たちの存在の正当性を主張したがる。自分ageに利用するわけです。
これも一種のマインドコントロールだと思います。

今回は私の身近なところであった・現証と思いこんでいた事実を上げさせてもらいましたが、
私の知る限り、創価の人に向かって悪意を持ってハッキリモノ申すって外部や・足を引っ張る一般人って
おおむね元が幸福じゃない人のような気がするんですよね。
性根や心がけが悪いとも言うか・・歪んでねじれて、そう言う人は創価だけを敵対視してるわけじゃない。
さまざまな勢力や見えない敵と闘ってる人が多い気がします。
だから病気になったり、自滅するんじゃないでしょうか。
決してそれがオカルト的な「創価学会員を護るための不思議な現象」じゃないと、私は思うのです。

だいたい善良な市民になればなるほど、創価なんて相手にしないし問題にもしないのです。
厄介だから相手にしない。スーパースルースキルを持っていて、やんわりとうまーくかわします。
内心思う所があっても、賢い人たちはそういった感情をいたずらに当事者にぶつけたり
正面切って批判したりはしないでしょう。
何処から見ても完璧に幸せで柔和な人物が、脈略なく創価を誹謗中傷するような事はそうないでしょう。
あるとしたら学会員に危害を加えられたり、失礼千万なふるまいを受けた時じゃないでしょうか。
それは誹謗中傷では無い「まっとうな評価」です。

創価学会が仏敵としている人物(元内部を含む)を見ても、素行不良の「黒い」人物が結構多いような
気がします。
善良な市民とは違いますよね。元専属弁護士とかw
野党の政治家さんたちにしても、創価が仏敵としてきた人達に清廉潔白なイメージは残念ながら
ありません。 裏で創価と敵対する勢力と手を組んでいるような人とかね・・。
敢えて名前はあげませんけども。

創価脳は自分たちに都合のいいことしか信じない。
単純に、本人が素行不良で・健康に気を使わず・無茶ばかりした結果そうなっていても
「創価を貶めた仏罰だ!現証だ!」と言いたがるのです。
そういう風に教育されているから、これはもうどうしようもないのですが、厄介な話です。

創価でいわれているような「仏罰」もありませんが「現証」も、ありません。
それは創価を攻撃したからそうなったのではなく、ただの自業自得なのです。
不思議な力が働いたわけでも、何でもない。

もし、創価の活動をやめることで自分にそのような「現証」が出る事を心配していたり、
そのように思える事が実際にあった、という方は、いまいちど自分の生活を細かく総点検してみれば
いいと思います。
健康に留意しているのか・食生活を見直し・規則正しい生活ができているか・不節制していないか。
人付き合いに於いて不義理は無いか・やろうとしつつ後回し・棚上げにしている事柄はないのか。
部屋は片付いているか・要らないものをため込んでいないか・その他もろもろ。
功徳信心していると油断しがちで、隙だらけ。
案外こういった事柄に完璧に・四方八方気を配っている人は少ない。
かつての私もそうでした。
そういった綻びを正したり気をつけるだけで、少しは好転して行く状況もあるはずです。