2016年 感謝

今年も、拙ブログをご覧いただきありがとうございました。

2016年は私にとって、大転換期でした。
ブログの路線も、6月以降大きく変更しましたが
それでも読み続けてくださる人が沢山いらっしゃった事が、嬉しかったです。

今年に入ってエックハルト・トール氏の書籍を読み、その叡智に触れ気づいたのは
「創価脳もアンチ創価も、自分責めという一点において根っこは同じ」だという事でした。
だからずっと腹を立てているし、わだかまってるんだなーと、そのメカニズムを理解しました。
そして概ね「自分」をみていない。
他人の事ばっかり気にして、他人のことばっかり問題にして、心配したり不安になったり
軽蔑したり腹を立てたり、イライラし続けている。
私も以前はそうだったので、気持ちはわかるのですがw

エックハルト・トール氏の語る「今にある」状態とは、どういうことなのか?
4月以降、思考を止める(~とエゴが申しておりますと思考の語尾に付ける)ことから始まり、
副読本に津留晃一さんやバシャール、心理学者の大嶋信頼さんの著書を読んだりして
自分なりに理解を深め・実践してきました。
そうして徐々にわかったのですが、
「今にある」状態とは一言でいえば「調和」です。
「自分自身にわだかまりのない状態」です。

それでブログタイトルを「わだかまらない生き方」に変えました。

ブログ拍手やコメント欄からお悩み、質問を頂く中で、思い当たったことがあります。
全てに繋がることですが「自分」がどうしたいのか明確になってなくて、「他人」ありき。
「いま」にない事を問題としている方が多いな、と感じました。

ニュー・アース記事のなかでも書きましたが、「いま」困っているかいないのか。
「いま」問題としていることが、どう自分を苦しめているのか、いやな思いにさせているのか
わだかまりを生んでいるのか、ちょっと立ち止まって解析してみると良いと思います。

なんにでも言えることですが、このブログはもともと創価の家族問題を扱ったものでしたから、
「わからずやの創価脳な母親・父親・身内・外野」で例えてみましょう。

お父さんが「信心しないお前なんて無価値」だという から むかつく。
お母さんが私に悪事が起きると「それみたことか、題目あげろ」という から むかつく。
両親が今年も財務で3ケタをおさめた から むかつく。
バリ活の兄姉妹弟が「信仰から外れるなんて堕地獄だ あとで泣きを見るぞ」という から むかつく。
組織の人が「あなたのためを思って言ってる」「罰が当ってからでは遅い」と引きとめる・
しつこい家庭訪問をやめてくれない からムカつく ←はっきり「迷惑です来ないで下さい」と伝えましょう。
バリ活ブロガーが組織をたたえるような駄文を書いている から むかつく。
大本営の先生会長職員どもがシンプルにむかつく。

私の今の想像力では上記くらいしか思いつかなかったんですがw パンチ効いてなくてすいません。

で、これ青文字が主語なんですけど、気付かれましたでしょうか。
ぜんぶ「他人」に反応してるんです。
「わたし」じゃありません。

「他人」がやること話すこと(=客観的事実)に対して
「わたし」がむかついてるんです、勝手にw

これを「いま」にあてはめて考えるとき、
嫌な思いを「他人」からさせられている、と感じる底の部分・
反応(イライラざわざわむかつき)のトリガーを見てみれば
たった「いま」問題ではないと気付くことができると思います。
だって、原因は「他人」だから。
で、「わたし」が勝手に「他人=外側」に翻弄されてイライラしているだけの話。
他人=外側に翻弄されてイライラ」しているのは、まぎれもなく「思考(エゴ)」だから。
そして「思考(エゴの声)」は「わたし」ではないから。
「いま」=「わたし」は、実はなにも困ってないって、これで解ると思います。

(↑ここで「でもでも、だって~!」とゴネ始めるのも、
 あなたの底の部分にある原因が織りなす「エゴの声」ですから無視してください)

で、反応(イライラむかつきざわざわ)のトリガーとなる、底の部分にあるものは、
9割がたが「自分への罪悪感・無価値感」です。

元創価脳の方は、創価脳だった頃は「使命感」に燃えて生きていたと思います。
自分が誰かを幸せにできれば、誰かの心に灯をともせれば、
小さな事柄が大きな連帯となり世界も平和になって
ひいては自分も幸せになれるって信じて頑張っていたと思います。
「崇高な使命感」ありきの、自分だったと思います(=私もそうでした)。
それがいったん、打ち砕かれて、野に放たれて「役に立てない自分は価値がない」と
無意識のうちに、思ってしまってる人もいるかもしれません。
また、色んな意味で絶望を感じ、「自信」を失った方も多いと思います。
あれだけ長年創価を熱く語り、正義だと周囲に訴えてきた自分があっさりそれを裏切った、
そんな自分は罪びとだ、と無意識に思ってしまってる人もいると思います。
「自分が悪い」と思っているんです。
「自分を責め続けて」いるんです。

そうは言いつつも自分を悪者にしたくないから、
創価や身内を憎んだり攻撃しないと、やってられないという複雑な「仕組み」です。

親兄弟が創価をいまだに信じていることが腹立たしくてならない、気になって仕方がないのは
自分が罪悪感を手放せないからです。
(親を裏切った悲しませたという罪悪感と同時に、福子であるがゆえトンデモ教義を信じきって
 しまった自分への処罰感情などなど)
創価関係者の外野に気分を乱されたと感じるのも、罪悪感が根っこにあるからです。
関係者の動向が気になって仕方なく、監視&批判し続けないといられないのも
罪悪感が根っこにあるからです。
それをきれいさっぱり忘れてなかったことにするなんて、できません。
だって「そうして創価や身内や外野を責めている自分」がアイデンテティになってるから。
それを失ったら、立っていられないって「思いこんで」いるんです。
誰が?エゴが、です。 エゴは放下に耐えられませんから、ネガティブを絶対手放そうとは
しません。存在意義を失うことを、世界一恐れているからです。

で、果たして本当のあなたは悪人・罪びとなのでしょうか?
そうだと思い込んで、勝手にそう決めつけているのは、
実は自分(あなたのエゴ)ではないでしょうか。
(親・身内から言われた等あるかと思いますが、それは外野の声なので無視してください。)

「周りが・親が・あいつが悪い!」と思っている間は、残念ながらなんにも変わりません。
なぜなら、それは巧妙な「自分責め」だからなんです。
「自分が悪い」をこじらせて周囲を責めている。解りにくいんですが、本当です。
続ければむしろ、自身を取り巻く環境はどんどん悪くなっていきます。

エックハルト氏が「ニュー・アース」で教えてくれているのは、
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、
根源的に満たされている真実に気づく
ことの大切さです。

エックハルト氏が提唱する「思考を止める」とは、一番てっとり早い「自分責め」を
止める方法です。
無意識に四六時中なされている頭の中のダメ出しを止めるわけですから、効果絶大です。
前々回記事でも触れたように、
私たちは誰人も「大いなる存在」に生かされています。
そして何があっても、生きて呼吸が続いている間は
「大丈夫」なんです。
あなたの存在こそが「大いなる喜び」です。
そこになんの条件も理由もいりません。
この絶対的な生命への信頼感を、まず知ってほしいと思います。
 
生かされている、その奇跡と幸いの前に、責められるべき理由なんて何もありません。
そして何かを成さなければ・役に立たねば無価値だということもないのです。
(自分の思考が勝手に評価を下しているだけです)
誰人も生きているだけで、根源的に満たされています。

そして、周りに影響を受け・翻弄されているうちは、なかなか心は安定しませんし・
「わだかまらない」で過ごすことはまず困難だと思います。

どうしても人というものは、外側の現象ありき・目に見える状態(現実)ありきで
「自分が祝福され・認められて此処にいる存在か」を判断しようとします。 
実際それがわかりやすいですしね。
けれど、外側や他人に「祝福の証拠」や「幸せ」を求めているうちは、不安定なわだかまりの多い
生き方になりがちです。
外側や他人の承認という「条件」がなければ「幸せ」で「満たされ」ていられないのなら、
それが無くなったら不幸や不安・欠乏感に陥るのは明白だからです。
この記事でも書いたように、上記は「外付けパーツ」です。

結局は「自分が自分を認め、励まし、肯定し、自分を心地よくいさせる」ことにしか
揺るがない調和はありません。 他人や周りは全く関係ないのです。
「いま」にあることの真髄は、上記太字部分だと思っています。

自分が自分と調和出来ていれば、満たされていれば、周りのことはほんと全く気にならなくなりますよw
面白い程です。
そして、周囲の人間の状態は、あなた自身の幸・不幸には全く関係ありません
勝手に他人の現象を見て引っ張られて「不安」や「不幸」を感じるだけで、実際は「凪」です。
(だから親兄弟が創価脳でも、あなたが悩む必要はありません。
 あなたがそのことを一切問題にしなくなったとき、勝手に親兄弟は目覚めます。)
自分が自分の内面を、なだらかなものにできた時、現実や環境もなだらかで心地よいものへ
自然と変化しています。 

とりあえず、周りのことは忘れて棚に上げて・
自分責めをやめて、自分に優しくしてみるところから始めてみるといいと思います。
自分に集中し、自分と仲直りすることです。

”お父さんがお母さんが、身の回りの人すべてが創価を脱会することが自分の幸せだ!”と
思っている人は、それが達成されない間は不満・欠乏感にさいなまれ続けるでしょう。
とっととあきらめて、もう自分が幸せになってください。
自分の状態はコントロールできても、他人の生き方をコントロールしようなんて思わないことです。
勿論、わだかまって欠乏感だらけの自分が好きで・それを楽しんでやってるなら止めませんよw

まだ紹介出来ていないのですが、「ニュー・アース」(p238)に
「いま安らぎを得るにはどうすればいいか?
 いまという瞬間と仲直りをすることだ」
という一文があります。
今年の4月に読んださい、一番衝撃を受けたのがこの言葉でした。
今の”自分”と仲直りすること、と解釈してもいいと思います。

人生も現実も、私たちがかつて組織で洗脳されていたような辛く厳しい「濁世」なんてものではなく、
本当は、優しいんです。
自分がどう見ているか、ってそれだけの話です。
これは日蓮も語っていたことで
「餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随って別別なり」
自分の意識状態がどこにあるかで、目の前の現実は変幻するということです。
けどなにも、お経を唱えたり特別な活動が必要なわけじゃないですよw(前回書いたとおり)
意識の使い方ひとつ、心のありかたひとつ、自分の思い込みを変えるだけの話です。
そのために必要なことは「自分自身にわだかまらないこと」です。
(たまたま、日蓮御書を思い出したので、いい部分を引用してみました。
 日蓮の言葉は真髄をついたものも多くあります。が、なにがなんでも自教が正しくて
 他は全部アウトって言っちゃったところや、過去世による自分責めが「前時代的」で
 今の時代にはそぐわないな、と。
 まだ総括できるまでに至ってませんが、いずれ私の考察も述べてみたいと思います)

えらく長文になってしまいましたが
一人でも悩める方が、少しでも気持ちを楽にするきっかけを
これからも伝えられたら幸いです。
来年もマイペースではありますが、更新していきますので
よろしくお願いします。

良いお年を迎えてください。ありがとうございました。

追記:今月申請完了し、脱会者となりました。近々、プロフィール書き換えますw

神社参詣と神棚のこと

前回、神社参詣を通じて「他力=大いなる存在」に気付くことができたと書きましたが
他にも以下の気付きがありました。

まず一つ目に
「私は、日蓮仏法を捨てた時点で、祈りや願いを封印していた」
でした。
これは全くの無意識でしていたことで、最近になって気付いて驚愕したんです。
祈りや願いを封印した結果、どうなったのか・・そして、神道を通じて「祈り・願い」の力を
再び教えられた経緯をお伝えしたいと思います。

二つ目が
「他力=大いなる存在は、祈り願う誰人をも無条件で助ける」
ということです。
下線入れました「無条件」ここがミソです。

三つ目が
「そして私は、生まれてこのかた実はずっと
 大いなる存在に助けられていたとわかった」
です。
創価脳時代、いくつもの願いをかなえました。当時は「ご本尊様」に祈ったおかげだ!と
思ってきました。が・それは実際のところ、「ご本尊様」を通じ「大いなる存在」へ
アクセスしていた、それで願いを叶えたり・なにかと護られたり、不思議な体験を
してきたのだ・・と、理解し・腑に落ちたのです。
つまり、祈りの対象は何であれ、その願いは「大いなる存在」へ届き、
自分が願って叶ったことは「他力=大いなる存在」の作用である
だからどんな宗派であっても(勿論日蓮仏法でも)願いは叶っているのだ・・
と、私は解釈しました。

上記3点を軸に書きたいと思います。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

まず、神社観について。
創価家庭に育った人の大半は「神社なんて行かなくてよい」と親に教わったと思います。
私ももれなくで、「神社には悪鬼魔神が住んでるよby日蓮」が思考の背景にありました。
残念なことに、幼稚園の遠足で神社に行った日の夜、高熱+嘔吐でシンドイ思いをし
幼心に「仏罰があたったんだ!」と、トラウマになってしまいました。たった1度のことなのにw

父方の親戚に大きな神社があり、遠方でめったに里帰りしない父を案じてか
祖父母が時折、そちらの神社の御祈祷札やお守りを送ってきました。
その小包を見ただけで、私は頭痛や吐き気を催していたのです。
母はそんな家系の父と結婚したことを「自分(=母)の宿業が深いせいだ」と申しておりました。
なんでもかんでも不幸の材料にしたがるw どんな宗教なんだよ!と、今となると思います。
物心ついたころから「神社は禁忌・鬼門」だと刷り込まれ、
大人になって以降もできるだけ近寄らないようにしていました。 
そんな私の「思考の背景」が変わったのが、覚醒前の2010-2011年頃。
日本史の本を読むようになって、それまで抱いていた神社へのイメージががらっと変わりました。
(この記事に書いています)
以降、日本人として参詣くらいはお作法として出来なければ、いい大人なのに恥ずかしい!と
思うようになり、義実家帰省時の初詣に参加するようになりました。
ただまだ、この頃は「日蓮仏法最高!」と思っていたので、神社へ行ってもなにもお願いはせず
「無」の境地で、お題目を心で唱えていましたw

2012年秋、創価が宗教をかさにきた巨大ビジネスだった!と気付いた時も
「日蓮仏法は絶対だ」という考えは揺らぎませんでした。
創価の活動を一切やめても、日蓮仏法だけは個人信仰していこうと思っていたほど。
けれど、自分の信仰観を見つめなおすことで核となる「選民思想」に行き当たり、
2013年5月に旧友(東日本大震災の被災者)と再会し、九死に一生を得た体験を聞かされて
その「選民思想」が砕け散ってしまいました(この記事   )。
ここで私は「日蓮仏法は信ずるに値しない」という結論を下します。

日蓮仏法を否定する=それまでの生き方の根幹をまるっと覆すわけで、辛い事でした。
同時に、自分責めが始まります。
主には「祈ってればなんとかなる」という考え方を強く戒めるようになり。
そんなお花畑思想は捨てよう!と思ったのです。
此処で私は、祈ったり願ったり望んだりということを、やめてしまった・忘れたのでしょう。
「やめよう」と、特別に決意したわけではありません。
単純に、それまでの”祈る対象”が、無くなってしまい・・かといって「はい次~!」なんて
他の対象に飛びつくことも、したくなかった。 
何かを信じることに対して・・「宗教」に対して、特別悪しきイメージを持ってしまった事も
ありましたし、こんなに簡単に創価に40年も騙されてきちゃって、
自分が非常に愚かな人間なのでは・・またやらかすのでは?という懸念もあったのです。
「祈ればなんとかなる」というような、甘い考えは今後、排除して生きていかねば!と。
↑思えばこれが、そのあとに約3年続く「逆流の中を漕ぐボート」のような状況を
生みだしていたと、今だから解ります。

もし今、なにも祈る対象がなくなってて・願ったりしてない・出来ないって人は、
月でも星でも太陽でもかまいません、大いなる存在へ祈り願うことをすぐ始めてください。
もちろん神社やお寺へ行くことでもかまわないのです、抵抗がなければ。
とにかく「上(天・宇宙)を向いて」願って行くことって大事です。
それが人生を大きく下げない事に繋がります。

大いなる存在は、ぶっちゃけ何もしなくても助けてくれますが(絶妙な・ぎりぎりのラインでw)
「願い・祈り」を、表明したほうが、もっと話は早いのです。
そしてその「願い・祈り」に「嘘」が一切ないこともポイントになります・・が、この話は別記事で
書かせてもらいます。 

2013年5月以降、祈るのをやめた私は、現実に強くフォーカスするようになります。
「祈り願う」ことで得られる安心感がまるでなくなった為、かわりに現実に不安を感じないよう
目に見えるものを増強するようになりました。
それはまるで「大いなる存在」を否定するようなもの。
完全に「今にある」状態にはなく「まだそこにない未来」に強く不安を抱くようになりました。
何が起こるか分からないから、あれもこれもと先取りして考え・方策を立てジタバタとし
「取り越し苦労」が増えました。
希望的観測をもつことより厳しい見通しをもつことが主になり・・今思えば、なのですが
本当に2013年~昨年までの私は、その前と比べ疲労感が増大していたのです。
子供たちの成長に伴い(幼稚園と小学校)用事が増えたことプラス、厳しく現実を
見ていたので、子供たちに対しても「今やっておかなきゃ、あとで困るんだよ!」と
重荷を課すような事もしていました・・それにつきあう自分も完璧でいなくては、と肩肘張って。
役割をしょい込み、自らどんどん状況をタイトなものにし、「がんばり過ぎ」ていました。
「祈ってればなんとかなる」を封印してしまったから、
「他力」を知らなかったから、自分でやるしかない・自分がやるしか!と
ガチガチに肩に力を入れ、余裕なく思い込んでいたのです。

するとどうなったか。
やりたくない役割を頼まれるも「NO」と言えず、いやいや続けることに
なってしまったり・・人間関係が悪化しました。
2013年からガラリと周りにいる人たちが変わったんですが、どういう訳か次から次へ
厄介な人(?)ばかり現れるのですw
また、こちらが正義をふりかざして事に当たると全く解決せずこじれていくばかり、という
ケースにも遭遇しました。
しかし、人間関係の悩みなんてどこにでもあるし~とか・命取られるわけじゃないし・
実際自身の生存に関わるような問題でもなかった為、「どうも変な流れだな?」と
薄々思いながらも、深刻に思い悩んだり煮詰まるほどには、当時至っていませんでした。
最後には義実家問題で強制終了となったわけですが、本当に、「なるべくして」
この苦難に遭わせてもらえたんだなぁ・・とw
「そっちじゃないよー」と、大いなる存在が常々教えてくれたんだなと、今は解ります。
それでも私が気付かないから、ショック療法的な義実家問題が出てきちゃったのかな?と。
スピリチュアル系の本を読むと概ね、そう書いてあるんです「ピンチはチャンス」的なことが。
エックハルト氏も「人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える」と言ってました。
なので、もし今なんらか、人間関係・家族関係でうまくいかない流れや・苦難のさなかにある方は
”気付き・見直しのチャンス”だと捉えてください。
きっと無用な思い込みをたくさん握ってるよ!手放してね!という、サインです。

さて、ここからやっと神社のエピソードです(前置き長!)。

私が自ら神社へ出向き初のお祓いを受けたのは、2013年夏でした。(この記事
日蓮仏法を否定した後、精神的に落ち着かない状態が続き・自宅内で奇怪な現象も
続いたため、友人の助言を思い出してA神社へ向かいました。
その時は「お金で解決できるなら楽だ」くらいの考えで出向いたんです。
半信半疑でしたが、見事に御祈祷を受けたその夜から怪現象はなくなり、私自身も
精神的な落ち着きを取り戻しました。
この経験で「神社ってパワーあるんだなぁ(上から目線)」という感想をもちましたが、
これがきっかけでハマったという事もなく、その後暫く神社を訪れることはありませんでした。

次にA神社を再訪したのが、2015年の1月。
前年の暮れに、人間関係でちょっと心配な出来事があり、ふたたびお祓いをしたほうが
良いのではないか・・と感じて、年明けに伺ったのです。
そこで2月の「節分祭」を教えていただき、年の災厄をはらう神事に参加することに。
この記事の後半にも書いたのですが、その後、縁切り社であるB神社へも参詣したところ、
心配に思っていた事の張本人が、海外転勤でいなくなるという朗報があったのです。
ここで「神社って、やっぱすごいんじゃない?!」と、そのパワーを見直したというか。
この結果が何によるものなのかは当時わからなかったけど、
神社には災厄をはらうパワーが確実にある!と感じた出来事でした。

翌月、新居への引っ越しを控え、C神社にて方位除けの御祈祷を受けました。
そして新居の近くにある氏神様のD神社でも神宮大麻と御札を頂きました。
都合、御札が多数になったので神棚を祭ることにしたのです。
リビングにむき出しの御札を複数飾ることに抵抗があり、コンパクトに収納したいとの思いから
シンプルな一社祭りを選択。
何か特別な思い入れというよりは、インテリア(見た目)重視での神棚設置でした。
あまり仰々しくしたくなかったので、当時は御供・御榊もあげていませんでした。

新居近くのD神社はとても雰囲気が良く、初めて行った時から空気感が好きでした。
そちらへ月に一度参詣をするようになったのは、お参りをすると不思議と頭がすっきりすると
気付いたからです。
一か月無事暮らせたことへの感謝と・また来月もよろしくお願いしますという祈り。
そのD神社で、不思議な経験をしたのが昨年12月。義実家問題勃発した時でした。
主人が話し合いで帰省した日の朝、いてもたってもいられずお参りへ。
D神社で具体的なお願いをしたのは、このときが初でした。
早朝、誰もいない拝殿前で参拝を済ませると、突然上方からザーッと風が吹き下ろし
私の体の周りをくるくると暖かい風が巻き上げていくのです、葉っぱも舞っていました。
12月なので、暖かい風という時点でもうかなり不思議だったんですが。
えー?なにこれ?と思っていると、風がやんで頭の中に「全て思い通りになる」という言葉が
浮かびました。 こんな経験は初のこと。
一瞬のできごとで、その前後は全くの無風。不思議だな~と思いましたが、励ましてもらって
いるのかな?と嬉しくなり。
しかし、年が明けてから新事実が多数出てきてパニックで「どこが思い通りなの?!」と
不信に思ったんですがw 今はあの風が示唆だったとわかるのです。
”大きな風(ごたごたのアクシデント)が吹き去ったあと、思い通りになるよ”との意だったと。
実際、1月2月は波乱でしたが、おかげで大きな気付きを得ることができましたし、
出来事が過ぎた後の状況は、絶対変わるはずないと思っていたことが変わり、私の思い通りに
なりました。

2016年2月もA神社の節分祭へ参加しました。
御祈祷を終えて帰宅した直後、義母さんがらみで訴状が裁判所から届きました。
凄いタイミングで、この時も一瞬
「なんなの?!お祓いしてきたばっかりなのに!もう災いが来てんじゃん!」と
不信に思いましたw が、この日の夜に主人と話しているうちに急に馬鹿馬鹿しくなって・
私は全ての問題を「手放す」ことを決めたのです。
以前も記事にした通りですが、すべてがここから変わったと言っても過言ではないほど。
後になって「必要があって、起きたこと」だったとよくわかりました。
当時は様々悩み、このトンネルを抜け出ることはできるのか?と疑わしい心境でしたが
心理学やエックハルト・トール氏、現代の覚者の教えと次々に出会うことができ、
大きな気付きを得て、いまも気付きの連続です。

今だから言えることなんですが、この、神社参詣後に起きてくることのタイミングが
まさに「神の采配」で、絶妙だったのです、今までずっと。
(他にも小さなエピソードがいくつかあるのですが、長くなるので機会があれば別記事で)
2013年夏と2015年初頭なんて、まさに「困った時の神頼み」
普段まったく神社にいくでもない・神様を信じていたわけでもない私でも助けてもらえた。
必ず良い方向へと・思ってもみない解決策へとガイドしてくれていると気付いたのです。
「大いなる存在」が、動いてくれたとしか思えない。
これって、すごい事だよなぁ・・と、しみじみ驚いたのは今年の夏ごろでした(遅)。

創価脳時代の祈りや願いと比較したら、よくわかります。
「祈るだけじゃだめだ。信行学だ!」「自行化他に渡らなければ願いはかなわない」
組織じゃこんなケチくさい・厳しい事ばっかり、言われてましたよねw
本当は祈り願うだけでよかったのに、時間と労力と金銭奉仕(←ほぼこっちメインだったかも)を
励行されて。
だから時に凄く頑張ったりしてましたが・・頑張らなくても簡単に叶ってしまったこともあったし・
頑張ったってどうにも叶えられないこともありました。
叶った時は「ご本尊のおかげ」叶わなかったときは「これも意味のあること、あとでわかる」と
していました。
神社参詣するようになってから、スピリチュアル系の本を読むとこう書いてありました
「神の采配は完ぺきで、その人にふさわしいタイミングで物事が起きてくる。
 願いが叶う・叶わないも、神の采配である」と。
この2つの融解点を考えた時、私はひとつの答えを得ました。
「どの時にあっても、生まれてこのかたずっと自分を護ってくれて・時に願いを叶えてくれたのは、
 大いなる存在だったんだ!」
と。

OOの信仰をしていたから「願いがかなった」わけじゃないんです。
OOの活動をしていたから「願いがかなった」わけでもなかったんです。
崇敬対象がなんであれ、願い祈った時、あなたの思いは「大いなる存在」を動かす。
創価時代の「願望成就」は”たまたま”だったと、私は日蓮仏法を否定した時そう思ったのですが、
”たまたま”じゃなくて「大いなる存在」が叶えてくれていた。護ってくれた。
それだけのシンプルな話だと、理解したのです。
「他力=大いなる存在は、祈り願う誰人をも無条件で助ける」
だからやはり、枝葉的なこと(選挙活動・勧誘・新聞推進・その他)は無用だと
いうことです(いまさらですが)。
創価脳の皆さんが「願いが叶った」と思っているのも、実のところ「大いなる存在」に
願いが届いてるということですし・「頑張ってるのに叶わない」というのは願いが頓珍漢だから・
矛盾があるから、そもそも叶える必要ない、ということで。 
活動や祈りの数量は直接関係なかったということです。
↑このあたりに関しては、他にも考察あるので別記事で来年書いてみます。

そして言うまでもなく、「大いなる存在」は誰人にも平等です。
空気のように、誰人にもいつも寄り添っています。

あの信仰対象でなければだめ・この宗派が絶対・・そんなことは人間が勝手に言ってるだけの話。
そういった凝り固まった「選民思想」は、わだかまりを確実に生みます。
エックハルトが指摘しているように選民思想なんてエゴの最たる形ですからね。
自分がまっすぐに、素直に、願い祈れば、それだけで十分なのだと思います。

祈りや願いは、心に安心感と余裕をもたらします。
「大いなる存在」がいつも自分のそばについている。大丈夫だ!っていう気持ちでいれば
ガチガチにならずに済みます。
そういった意味でも、宗教アレルギーはちょっと忘れて「天」に向かって願うことを
してみてもいいと思います。
「大丈夫、自分はいつも見守られている」って、思うだけでも心持ちはずいぶん変わってくるでしょう。
要は「依存」しなければいいのであって、「ギブ&テイク」の考えも捨てることです。
無条件で助けてくださっているのだから、「これだけやったのに!」なんて思わない。
そもそも、「天」にむかって願うだけなら「これだけやったのに!」なんて感情は湧かないですよねw
そこに労力やお金が絡むからおかしくなるのです・・たぶん。

2016年2月から、神棚を三社祭にし、御榊と毎朝御供をし、朝夕の参拝を
しています。
神道の基本は、始祖崇敬であり、自然の恵みへの感謝です。
何千年と連綿と続く「命」「循環」への感謝。
神話には陰陽があり、生命体のすべて、宇宙のすべて、といってもいいくらいで
(古事記や日本書紀を読んでみてください)
神道でまつられる八百万神は「大いなる存在」ともいえると私は思っています。
朝夕、自宅の神棚にて
「生かしていただいて、ありがとうございます」
「いつも助けていただいて、ありがとうございます」という感謝を伝える。
シンプルで拘束感なく出来ますし、何より清々しいルーティンとなっています。
お供~参拝で3分くらいなので、気軽なところも続けやすく良い点だと感じます。

長文になりましたが、自分の現実はすべて自分の「思い込み」で出来ていると知ったら
心がけが変わります。 
本当に恐ろしい程、自分の思い通り・願いがかなっての「今」なんです。
だから思考には、よくよく気をつけたほうが良いのです。
絶望諦めよりは、何かを信じ希望を持って生きるほうがプラスであることは、言わずもがなです。

私の現状は、人間関係も家族関係も平穏な問題無いものになり、
日々機嫌よく過ごしています。
振り返れば、昨年のちょうど今頃に義実家の問題が発覚しました。
あのとき、こんな一年後を全く想像できませんでした。
今、好きな場所で音楽を聴きながら・マイペースでブログを書くことができている、
感謝しかありません。
あの一連の出来事がなければ、今をこんなに幸せに感じることもなかっただろうし、
そこでバシャールのいう「コントラスト」という言葉が、とてもしっくりくるのです。

過去も今も、あなたを苦しめるために在るのではありません。
自分の思考がそうさせているだけ、と気付くだけで世界は変わります。
気付けば・変われば、コントラストの意味も即座にわかります。
すべては自分次第です。

神社の話は一切でてきませんが、おすすめの本です。
意識の使い方・在り方がわかりやすく書いてあります。
タイトルが若干胡散臭いですがw同シリーズの「ワクワクの使い方」も
いい本です。
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

人生に奇跡を起こすバシャール名言集 [ ダリル・アンカ ]
価格:1296円(税込、送料無料) (2016/12/22時点)


Category: Notice&Replace

他力=大いなる存在に気づくこと

この一年を通じて、私が神道から学んだことは「他力」の存在でした。
そしてこの「他力」が、エックハルト氏のいう「大いなる存在」だという事にも気付きました。

「他力」というと、創価脳的には「他力本願の”神頼み”」という悪しきイメージが浮かびがちです。
心の弱い人がやること、みたいな。
言葉の意味を調べると「他力本願」とは仏教用語で、阿弥陀仏による衆生救済の力を
指すのだそうです。 「仏の功力」ということですね。
ありがたいことに、これは仏の本願。つまり、衆生を救うこと・助ける事が「仏の願い」だと
いうことです。 そして驚くべきことに、仏は衆生に対して、無条件で救済の手を差し伸べ、
力を与えてくれるという。
知ってる言葉をここに当てはめるなら「大慈悲」です。

仏教から離れてみても、人は誰しも「他力」に支えられて生きています。
たった一人の・自分だけの頑張りで生きているわけではありません。
なかなか忘れがちなところですが。
孤独に思える時でも、電車やタクシーやバスで移動できるのは其処で働く人がいてくれるから、
コンビニでおにぎりや飲み物を買えるのも、製造・輸送・販売に携わっている人がいるから、
ネットが24時間つながるのも、電気やガスや水道がいつも使える事も、
各種産業に携わる誰かが働いてくれているから、
自分が支払うそのお金も、誰かのところから巡り巡って自分の手元にある。
また、自分が支払ったそのお金が誰かの元へと巡っていく。
何気ないようでいて、人に支えられ・自分も見えないところで誰かを支えて生きている。
モノ申さないけれど確かに存在する、そんな大きな循環=「他力」があるということに、
創価脳時代まったく気付きませんでした。
というか、それを「他力」と呼ぶとは知らなかったのです。
「他力本願」のほんとうの意味を理解すれば、なんてありがたいんだろうと、
自然と感謝がわいてきます。

ところで創価脳は、「感謝」が口癖の割に、その対象は限定的かつ序列のあるものでした。
(当時は感謝感謝いいすぎて、超薄っぺらでしたね・・はずかしい)
まずいの一番は「ご本尊様」への感謝。これはまだいいとしましょう。
次に「大聖人」そして「組織」や「師匠」←私はコレはなかったけどw
その後ろに「家族」や「周囲の人」や「同志」だったような気がします。
同列に感謝はありえなかったというか・・まあ1番がご本尊で、残り全部が同列はあったかも
しれませんが「全体に対する感謝」という視点をもった人に、ほとんど会ったことがない気がします。
もし「全体に対する感謝」が基本にあるならば、外部に対しての上から目線は生まれるわけありませんw
自分がかつてそうだったからこう言えるのですが、「感謝」といいながらとても傲慢でした。
でもそれは仕方がないんです。
だって、創価の教義(日蓮の教義とも言えるでしょうか、ちょっとこのあたりは
掘り下げてみなければと思いながらも、面倒で勉強していないのですがw)は
「何か(功徳)がほしければ、何か(布教活動・票・お金等)をよこせ」というギブ&テイク型だから。
つまり「何かをしなければ与えてもらえない・与えられない」「甘えんなよ」という教義だったから。
施しの裏側には、必ず見返りを求める心がある。 これが「傲慢」の部分です。

仏様も神様も、そんなセコイ存在ではありません。
何もできなくても、ぶっちゃけ何もしなくても、
自分がどんなに非力で無力であろうとも、
いつも大きな力で支え・護ってくれているのです。

そしてこの教えは、わりと既成仏教宗派ではスタンダードで、神道においては、いわずもがなです。

もう少し創価脳のカラクリを書いてみますが、
たとえば祈って動いて何かが「叶った」とします。その時は「功徳を頂いた!」と、喜びます。
感謝の先は、もちろんご本尊様(=大いなる存在)です。 
ただ、その願いを実質かなえてくれたのは、他者である場合もあります。
そんなときも、感謝のベクトルがまっすぐ他者へは向かいにくかったように思います。
(一応他者へも「感謝」はあるのですが、何かが一枚挟まった感覚)
創価脳にとっては
「ご本尊」に祈って→「諸天」が動いて→「他者」を動かしたんだ・・というフローです。
これだとつまり、ご本尊に願ったり祈ったり・ついでに活動がんばっちゃったりしたのはあくまでも
「自分」です。 
だから「他力」よりも”自分の力(信心)でかなえたんだ!”が優位になっていた、と私は分析します。
それが「傲慢さ」を生む因ではなかったか、素直にまっすぐ「他力」に気付けなかったトラップでは
なかったか?と。

「創価脳時代のくせ」が抜けていなかった私は、2012年秋の覚醒~今年の春に至るまで
結構な気苦労を経験しました。
創価仏法を捨て去った後、信仰を保つことに関して異様なまでに慎重になっており。
2013年夏に神社でお祓いをうけましたが(この記事)その後、とくに神道にハマったというわけでは
ありませんでした。 もともと神社アレルギーでしたし・・このあたりの話を書くと長いので
神社参詣と神棚エピソードについては次回UPさせてもらいます。
いいことがあれば「ご本尊様のおかげだ」と喜んでいた私が、ご本尊様を信じなくなったら
今度は「相手」に対し、ダイレクトに感謝するようになりました。
ただ、私の「感謝」は「報恩」がセットだったんです・・これが創価脳時代のくせです。
(前に書いた、義母さんへのそれと同じです)
何かをもらったらお返ししないといけないし・何かをしてもらったら自分も役に立たないといけない、
「他力」に甘えることをよしとしない、それが自分の首を絞めることになろうとは
思いもしませんでしたw
2013年初旬以降、不思議なことに人間関係ががらりと変わったのですが、その中でやりたくない
役割をひきうけることになりました。
断ればよかったのですが、恩義があったため「それは無理」と勝手に自分で思い込み。
イヤイヤだったので当然不満だらけ、でも吐き出せない。人にはいい顔をしてしまう。
しかしストレスはたまる一方、それで派手に人と揉めたりもありました。
勝手に相手のことを決めつけて、本音を出せず、恩着せがましくその役割を引き受け続け。
結局、2015年末の「とある出来事」のおかげ?で、その役割を降りることができました。
ほっとした反面、自分の望む形ではなかったためしばらく忸怩たる思いが消えませんでした。
それが、神社参詣をつづけるうち・真言宗の御寺での法話を聴く機会に恵まれたのち
「ハッ」と気付かされたのです。
「ああ、私、勘違いしてたんだなあ・・」と。
「他力」を信用していなかったんだ、100%ありがたく「ただ受け取る」が、出来なかったんだと。
だってしかたないよ、「ただで功徳はいただけない・自分が動かなきゃ功徳はもらえない・
そしてなにがなんでも受けた恩は返せ」って、教わって生きてきたんだから(涙)と。
三つ子の魂百までも・・恐ろしい言葉です。
きっと同じ思いを抱えた、学会2,3,4世の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
他人の親切をただ受け取れない。受け取るけど意地でも返す。返さないと気が済まない的なw
これ、「忘恩の輩」系刷り込みなんですよね、げに恐ろしき。
だから恩を返さない人にはイライラしたりもするw 自分がなまじ、やっているだけに。
私は過去そのタイプで、ママ友でもお返しをきちんとする人とは親しく付き合うけれど、
てきとーな人とは距離を置いていましたw 
いろんな人がいて、一概には言えないけれど(見返りがほしい人もそれなりに存在はします)、
それでも「他力」って優しくて、とてつもなく大きなもの。
たとえば外出先で見ず知らずの方に親切にしてもらった事、一期一会で、お礼を言うだけで
精いっぱいだったけど
次は自分がまたどこかで、困った誰かに遭遇したなら気が向いたらお手伝いすればいい。
そういった軽やかな循環を「他力」とも、呼べると思います。
そこに「損得勘定」や「見返りを求める心」があったらおかしくなるのです。
ついでにいえば「押しつけがましさ」もw

信仰があってもなくても「他力=大いなる存在」は、誰人をも護り支えてくれます。
ただそれを知って、感謝できる心があれば、人生を大きく下げることはないと私は思います。

よく、創価を脱会した人が不幸になっているとか・精神を病んだなどの噂をきくことがあります。
それを創価脳はしたり顔で「仏罰」「現証」なんて言います。
これは何もそういった現象ではなくて、私思うに「他力」に気付けなくて・信じられないがため
一時的に人生を下げている、それだけの話だと思います。
何かのきっかけで「他力」の存在に気づいたら、瞬時に浮上するでしょう。
不遇が続くかに見えるのは「そっちじゃないよー」と、教えてくれているのです。
(↑私はそれを身をもって経験しましたw)
本人の意識はほんとに一瞬で大変換しますし、意識が変われば環境も徐々に好転します。

創価から脱した後、もう騙されるものか!と、宗教や思想体系にやたら警戒心を抱く気持ちは
わかります。
ガチガチの鎧を着て、自分を律しなくては!と自他に厳しくなることもあるでしょう。
が、忘れてほしくない&信じていてほしいのは「他力は存在している」ということです。
ご本尊様を信じていた当時の「諸天の護り」が「他力」であり「大いなる存在」のことです。
宗派や各世間で表現が変わっているだけで、とどのつまりは同じ事。
そして認識を変えるべきは「ぶっちゃけ何もしなくても、他力の存在を認めれば
大いなる存在はいつでも自分を支え助けてくれている」ということです。

だから「ありがたい」し「大慈悲」です。
だって、ぶっちゃけ何もしなくても・助けて支えてくれているんですから・・。
特定信仰も持たなくてよくて、とにかくなんの条件もいらない。
ただ自分が他力の存在に「気付く」だけ。
ただ自分が「生き」て「気付いて」さえいれば、「大いなる存在」はいつもそばにあって、
支えてくれています。
いまの私にとってはその「大いなる存在」へ、日々の感謝の思いを伝えに行く場が
神社であり・自宅の神棚であるという感じです。
でも、それは神道に限らず、お寺だったり・自然崇拝(花や木や滝とか岩とか)だっていいと
思います。自分が「大いなる存在」を感じられるのだったら、なんでもありでしょう。 
なにも絶対に神社に行きましょう!とか言いたいわけじゃないことだけ、お知りおきください。

前回記事の
ただ、自分がいま「生かされている」事について、シンプルに奇跡を感じられたら、
世界は変わります。

この部分について、本当に些細で、文章にするとたいしてインパクトないのですがw
一応書いてみます。

とても楽しみにしていたある予定が当日になって中止(延期なし)になってしまった日のこと。
かなり気合い入れて準備をし、その日に備えていただけにショックでした。
今年春に「思考はエゴのおしゃべり」と知り、俯瞰でみれるようになったとはいえ、しばし呆然とし。
腹を立てるとか・怒る・ひどく落胆などの感情の揺れはなかったけど気分は下がっていました。
少し時間が経過して「前にもこんなパターンあったよなぁ・・」と過去を反芻。
そうなると今度は原因探しがはじまる・・のが、以前のお決まりでした。
創価脳時代だと「一凶」探しで、最終的には「自分のせい」「業のせい」という自分責めに至り
「だから宿命転換しなくちゃ!」と繋がっていたわけですが
2016年の私はさすがにそのトラップにはまることはなくw
ただ過去のネガティブを淡々と思い返すにとどめていたのですが
「ああ、あのときそういえばキャンセルになったな」とか「あのときもこうだったな」とか・・
次の瞬間「!」と驚きました。
「いやいや、そんなこともあんなこともあったけど、
 全部大丈夫だったよ!」
「全部大丈夫だったから、いまここに生きて存在してるよ!」
「だから今もだけど、これからも大丈夫なんだ!」

ということに、気付いたのです。
過去の様々なシーンが巻き戻しのように頭の中に巡り、あれもこれも、大丈夫だった・・
大きな輪のように巡り巡って、全部今に繋がってて、大丈夫だった、と。
するとどっと涙があふれてきて、ずっと大丈夫だったことは「他力=大いなる存在」の
おかげであったと、しみじみと、解ったのです。
その瞬間もう、感謝しかありませんでした。

悲しかったこと、傷つけたこと、傷つけられたこと、騙された事、
裏切られた事、誤解を受けたこと、約束に間に合わなかったこと、
約束を破られた事、もう立ち直れないと思うほど泣いたこと、
冷たくされた事、冷たくあしらったこと、暴言を吐かれた事、悔しかったこと、
我慢したこと、いじわるしたこと、嫌味を言われた事、悪口を言ったこと、
負けたこと、勝ち誇ったこと、返ってこなかったこと、果たせなかったこと、
叶わなかったこと、一寸先も闇で何も未来が描けないと思っていたこと、
50年近く生きてきたなかで、本当にいろんなことがありました。
もう駄目だと思ったことが山ほどあったはずだったけど、私はここでこうして生きている。
どうにもならなかった事なんて、結局は一度もなかった。
うまれてこのかた、何百回と悩んでも困っても激しく憤ってもわだかまっても、
ちゃんと「いま」へ導かれた事に、
鳥肌がたつほど感動したというか・・改めて「生かされた」事に、驚きと感謝でいっぱいに
なったのです。
エックハルト・トール氏の教えに触れて「生きている」「呼吸が連続している」ことの奇跡に
気づけたからこそ、こんな心境に至れたのだと思います。
(まずそこが「あたりまえ」すぎてなんの感動も持てずにいるなら、人生は不平不満だらけでしょう・・)

そして「ずっと大丈夫だった」という気付きのあと、じわじわと環境が変化しはじめ
望んだことが現実化するスピードが速くなったのです。
偶々かもしれませんが・・具体的にいえば探していたものがすぐ見つかり手に入ったり、
ずっとどうしているかな?と案じていた昔の友人と20年以上ぶりの再会を果たせたり
(過去、何度かSNSで検索をかけても全く情報があがってこなかったのですが、
 先日友人の勤務先名+名字でぐぐったら、画像検索で瞬時に上がってきてビックリ!でした。
 そんな探し方を思いついたのも初めてで、まさかのまさかでしたが
 連絡もすんなりとることができ、驚く速さで再会まで出来たのです。)
この事のための準備だったのか?と思うほど、何気なく以前していたことが完璧に今と繋がったり、
某件に関する情報がほしい・・と思った次の瞬間テレビ番組やネットで紹介を目にしたり、
流れが良くなったというか、急いでいるとき信号が全部青ですんなり到着できたり、様々です。
スピリチュアルな人たちの間ではこれを「シンクロ」と呼ぶらしいのですが、
どっかの教団施設で爺様と読経の声をあわせなくても、宇宙とリズムは合致するようですww

創価問題に対しても、騙された腹立たしい・家族崩壊させられた云々、おのおの恨み節は
あると思います(私もありました、皆様ご存じのとおりです)。
だけれども、その期間があったればこそ、護られた事もあったかもしれないのです。
それがなかったとして人生が100%ばら色だったとは、誰にも言えないのです。
それは経験すべき魂の修行時間(?)だったのかもしれないし、それがあったればこそ、
この先の人生が彩られることもあるのかもしれません。
バシャールはそれを「コントラスト」と表現しており、私はその示唆にすごく納得ができたのです。
(詳しく知りたい方はぐぐってください)

「神の采配」という言葉があります。
全ての出来事は、その人に完璧なタイミングがもたらされているという意味です。
自分の人生の物語を、自らネガティブにする必要もないと思います。
なにも過去にとらわれなくていいのです。

私たちが生きているのはまぎれもなく「いま」しかありません。
生きられるのも「いま」しかありません。
だとしたらどんな「いま」を過ごしますか?
私は、抗わず・わだかまらない「いま」でありたいなと、思っています。

悩んでいる人も、わだかまっている人も、これまでが「大丈夫」であったことを
しみじみと、思い出してください。
そしてこれからも「大丈夫」だと実感してみてください。
不安を作り出しているのは紛れもなく自分の思考=エゴであり、思考の背景=過去です。

最後にエックハルト・トール氏の言葉を紹介します。
(「世界で一番古くて大切なスピリチュアルの教え」より)

出来事は、身体に苦痛をもたらすことはあるかもしれませんが、
人間を不幸にするパワーはありません。
人間を不幸にしているのは、ほかでもない、
自分自身の思考なのです。


次回はお約束通り、神社にまつわるエピソードを書かせていただきます。



Category: Notice&Replace

ニュー・アース 第二章(5)

欲望:もっと欲しい

エゴは所有と自分を同一化するが、所有の満足は比較的薄っぺらで短命だ。
そこに隠れているのは根深い不満、非充足感、「まだ充分じゃない」という思いである。
エゴが「私はまだ充分に持っていない」というのは、「私はまだ充分じゃない」ということなのだ。
これまで見て来たように、何かを持っているー所有ーという概念は、エゴが自分に堅実性と
恒常性を与え、自分を際立たせ、特別な存在にするために創り出したフィクションである。
だが所有を通じて自分を発見することは不可能だから、その奥にはエゴの構造につきものの
「もっと必要だ」というさらに強力な衝動が存在する。
これが「欲望」である。エゴは、もっと必要だという欲求なしに長い間過ごすことはできない。
だからエゴを存続させているのは所有よりもむしろ欲望だ。
エゴは所有したいという以上に欲したいと願う。だから所有がもたらす薄っぺらな満足は常に、
もっと欲しいという欲望にとって代わられる。
もっと欲しい、もっと必要だというのは、自分を同一化させるモノがもっと必要だという
心理的な欲求である。ほんとうに必要なのでは無くて、依存症的な欲求なのだ。(
中略)
あるエゴは自分が欲するものを知って、冷酷に断固として目的を達成しようとする。
ジンギスカン、スターリン、ヒトラーなどはその並はずれた例である。
だが彼らの欲望の奥に在るエネルギーは同じく強烈な反対方向のエネルギーを生み出し、
結局は当人たちの破滅につながる。そして他の多くの人をも不幸にする。

前述の並はずれた例でいえば、地上に地獄を生み出す。
ほとんどのエゴは矛盾する欲望を持っている。また時が移れば欲望の対象が変化する。
欲しいのは今あるものではない、つまりいまの現実ではないという事がわかっているだけで、
実はなにが欲しいのか解らなかったりする。
苛立ち、焦燥感、退屈、不安、不満は、満たされない欲望の結果だ。
欲望は構造的な物だから、精神的な構造が変わらない限り、内容がどうであろうと
永続的な満足はあり得ない。
(中略)
「私に(me)」「私のもの(mine)」「もっと(more than)」「欲しい(I want)」「必要だ(I need)」
「どうしても手に入れる(I must have)」「まだ足りない(not enough)」というような思考の形は、
エゴの内容では無くて構造に付随する。エゴの内容、同一化の対象は変わっていくだろう。
自分自身の中にあるこの思考の形に気付かない限り、それらが無意識にとどまっている限り、
あなたはエゴの言葉を信じてしまう。
無意識の思考を行動化し、見つからないものを求め続ける運命から逃れられない。
なぜならこのような思考の形が作用している限り、どんな所有物にも場所にも人にも条件にも
満足できるはずがないからだ。
エゴの構造がそのままである限り、あなたはどんな内容にも満足できない。
何を持っていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。いつももっと満足できそうな
他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、
探し求めずにはいられない。
 (p103- 109抜粋)


近年、断捨離や、極力モノを持たずに暮らすミニマリストという概念が広く知られるように
なりました。
若い世代の消費行動は、私が若かった時(80年代後半~90年代バブル)とは全く違ったものに
なっているなぁ・・と感じます。
少なくともバブル当時は「所有」が豊かさの象徴で、目指すべき処のように思われていました。
時代と共にエゴが小さくなったのか?と一瞬思わなくもないのですが、
エゴの形が「私はトレンディ(死語w)だ」から「私はミニマリストだ」というアイデンテティに
変わっただけなのかもしれません・・?! 勿論、皆がみな、そうだとは言いませんが。
私はバブルをかじった世代で、当時「買い物依存症」なる言葉を週刊誌等メディアで、
さんざん見聞きしていた記憶があります。 
「所有」では満足は追いつかない。常に「欲しい」が勝っている状態・・買い物してきた紙袋を
開けることもなく、クローゼットに突っ込み、タグを切らない状態の・一度も着たことのない洋服が
山ほどある・・過去、そんな友人も身近にいました。
虚栄心からの買い物~所有ではなく(←私はこちらのタイプでした)、
ただただ「いつも(なにかが)欲しい」という一瞬の欲求を満たすため、買い続ける。
「買う」行動で手に入れてしまえば、品物になんて興味は無い・・こんなパターンも、エゴの仕業です。
これはまぎれもなく「不足」からくる行動。
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、根源的に満たされている真実を
知らない(気付いていない)
がゆえに、
不足を埋めようと、エゴに突き動かされていたのでしょう。


そして太字にした部分は、宗教を使った錬金術の虜になってしまったオジサンたちも
(オバサンもいるんでしょうかね? 大本営ってどうにも男社会にしか見えないんですが・・
 副会長だのなんだの、大層な役職名の付く人は、ほぼオッサンだし)
全くこれと同じだなぁ・・と思い、紹介した次第です。
もう創価の事はあまり書くつもりがないと言いながらもwやはりエゴまみれというと真っ先に
浮かんでくるのは、大本営の中の人&上層部のこと。
年がら年じゅう「拡大!拡大!」と下々に号令をかけ、世界何百カ国に拡がった!と言ってる割に
なかなか「これでもう十分です」とは言わないw この先も絶対言わない・言うわけがない。 
”まだまだ、もっともっと、いつもずっと全然足りない”そう言い続けるのです。
これをエゴと言わずして、何だというのか。 
数をもって勝ち誇るような姿勢こそ、エゴです。

”ほとんどのエゴは矛盾する欲望を持っている。また時が移れば欲望の対象が変化する。
欲しいのは今あるものではない、つまりいまの現実ではないという事がわかっているだけで、
実はなにが欲しいのか解らなかったりする。
苛立ち、焦燥感、退屈、不安、不満は、満たされない欲望の結果だ。
欲望は構造的な物だから、精神的な構造が変わらない限り、内容がどうであろうと
永続的な満足はあり得ない。”

↑太字にした部分は「わだかまり」だと私が捉えた部分です。
そして、生まれてこのかた~創価脳だった頃も・アンチになってからも
ずっと私は「そこはかとない不足感」に包まれ、時に「わだかまり」を持って生きてきたんだなぁ・・
って事に、ニュー・アースや、現代の覚者の教えに触れて初めて気がつきました。

人それぞれ、出自もおかれた環境も違いますが、すべての人が平等に「恩恵」の下にあると
ひとつだけはっきりしていることがあります。
それは、「生かされている」という奇跡を「いま」経験していることです
そして実はこれが、何物にも代えがたい「満たされた」状態であるという事実です。
前回記事でもとりあげた、エックハルトの言葉

”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに見えなかった”
”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。”


まさにこの言葉どおりの、シンプルで深い「いのちある喜び」が「満たされた状態」です。
元創価脳の方なら知っているであろう言葉「輪円具足」とは、まさに上記を表現していると
私は思うのです。
尊極の生命、「ただ生きている」ことでもう、すでに完全で満たされた状態。
条件や環境は関係ありません。

輪円具足とは
”全てのものが具わって欠けているものはないという意、十界具足(十界互具) を表わす”
これはまさに、生命のこと。 
日蓮が活躍した鎌倉時代というのは、歴史に詳しい方ならご存知の通りですが
戦乱も、疫病や飢饉も頻繁にありましたし、ひとたび飢饉があれば数千人が命を落とし、
ひとつの村ごと消滅してしまう・・そんな過酷な時代。 今とは生存率が全く違うわけです。
生活環境だって今とは格段に違います、つまり今日を生き・あすを一日でも長く「生きる」ことが
現代よりもっともっと奇跡に近い、そんな時代であったと推察できます。
「命落とさず、一日でも長く生きる」←これが現世利益だったといっても過言ではないでしょう。
輪円具足を「またの名を功徳聚」とあるくらいですから、やはり「生存こそ功徳」だったのです。

現代はといえば、まず食糧難は回避できています。棄てるほど食べ物があふれている時代。
時々貧困で命を落とす方のニュースを耳にはしますが、ニュースになるくらいですから
レアケースです(数多かったら報道すらされないでしょう、一般人の離婚と同じで)。
基本的な「生存」に関して、鎌倉時代ほど恐れなくて済む時代だとわかるかと思います。
良くも悪くも、現代の人にとって基本的「生存」は当然のことであり、そのことを
絶対的+(プラス)とは捉えない。だからこそ、上積みの「何か」を求める。
生かされている奇跡や不思議は「あたりまえ」すぎて、エゴの前に見落とされています。

人それぞれ、条件や環境や、どこかしらに不足を感じ不満を憶え暮らしている。
その不足や不満は「生きている」状態がなければ経験はおろか、意識もできないことです。
そして、条件や環境にネガティブな感情をもつことについても「思考の背景」が邪魔をしているだけで
実際に「思考の背景」が変わるような出来事があれば、不満も悩みも一瞬にして消え去ることがある。

で、実は「不安」や「不足」や「問題」なんか無かった、そもそも無いと言ったら
まず誰も「信じられない!」「馬鹿言うな」と、怒り出す人もいるでしょう。
けれど少し立ち止まってみて、同じ人間でも「不安」「不足」「問題」のレベルが違うことに
気づけば、どうでしょうか? 感じ方は人それぞれ。
同じアクシデントにあっても平気でいられる人・少し落ち込んでもすぐ持ち直す人・
ショックからなかなか立ち直れずにいる人・・様々です。
どうして差が出るのかといえば、環境の違いよりは「思考の背景」の違いが大きいのです。
落ち込んでいる人も・腐っている人も・浮かれて調子に乗っている人も・平常心の人も
すべての人に、平等に与えられた「いま」この瞬間は「生きている」という事実。
「生きている」という揺るがない事実の上にあって、
どの状態を選択するかは自分しだいなのです。

「不安や恐れ」も「不足」も「問題」も、実際自分の思考=エゴが作り出した幻影ですから。
仏罰と呼ばれる概念も、いうまでもなく幻影です。

過去に書いたように、私の母は「一家和楽」という青い鳥を探してずーっとさまよっておりました。
私も同じくで、「信心に理解のない父と兄姉」に不幸不平不満を感じ・勝手にわだかまりを憶え、
母の青い鳥探しを手伝って(?)いました。
それが実は、青い鳥は家の中にすでにいて、母や私が「一生不退転」などと思いこみ・
握りしめてきた信心を手放せば、家の中の青い鳥に気が付けたという、お粗末な展開だったのです。
(が、これでよかった・私たちはこのことを「経験したくて」やっていたのだと、
 現在は納得できておりますので、創価を殊更恨んで糾弾してやる!なんて思いはもうありません。
 詳しくは、脱会の顛末とともに後日書かせてもらいます)
婦人部に嫌気がさして学会活動をやめたあと・選民思想で創価仏教を信奉していた頃も、
不足を感じていたから、怖かったから、安心がほしかった。
そして、創価信仰を持っていた頃はかろうじて「不足」を多少補えていたと、今は思えます。
ただしそれは「完全」ではありませんでした・・どのみちスタート地点・ベースにあったのは
「欠乏感」だったからです。
ゆる活だろうがバリ活だろうが、自分になんの不足も感じていないなら、わざわざ現世利益を
追求するような創価と関わらないはずで、そこは何かしらの「不安」「不足」「問題(意識)」が
あったから、救いを求めたのでしょう。
これはなにも宗教団体依存だけではなく、一般人で開運アクセサリーやグッズを節操無く
買い集める人も同じです・・そしてまさにこの「不安感」「不足感」「不完全と感じる心」は、
エゴの仕業です。
その「エゴ」に付け込んで、商売にしている人たちが少なからず存在しているということです。
なにも宗教団体だけではありませんw 騙されないように気をつけましょう。

”エゴの構造がそのままである限り、あなたはどんな内容にも満足できない。
何を持っていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。いつももっと満足できそうな
他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、
探し求めずにはいられない。”

では、エゴに振り回されないためには、欠乏感ベースにならない為にはどうすればいいのか?
答えは至ってシンプルで
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、
根源的に満たされている真実に気づく。

これだけです。

「そんなはずない!」「そんな馬鹿な!」「ええ?信じられない・・」という思考のおしゃべりは
「~と、エゴが申しております」で、ひとまず受け流してくださいね。

なぜ問題は問題でなく、条件や環境は関係ないのかについては、
この先に書いていきますが、多分かなり先になりますのでw
早く知りたい方は、エックハルト・トール氏の書籍を読まれることをお勧めします。

また、
「生きてるだけで感謝しろ、っていうの?贅沢言うなっていうの?」と思われそうですが、
(↑これは私が以前思っていたことですw 全く理解できなかった時期に)
決してそれが全てではありません。 
ただ、自分がいま「生かされている」事について、シンプルに奇跡を感じられたら、世界は変わります。
私がそのことに気付いたのは、実は最近です。
ある日突然「!」と、気づかされました。
本当に些細な話で恐縮なのですが・・今回書くつもりでしたが、まとめられませんでしたので
別記事で書きたいと思います。
リクエストをいただいている神社参詣と神棚の件と共に、次回とさせていただきます。

ニュー・アース 第二章(4)

所有という幻

何かを「所有する」、これはほんとうはなにを意味しているのだろうか?(中略)
多くの人は、死の床に就き外部的な物がすべてはげ落ちて初めて、どんなモノも自分とは
なんの関係もないことに気付く。死が近づくと、所有という概念そのものがまったく無意味で
あることが暴露される。
さらに人は人生の最後の瞬間に、生涯を通じて完全な自己意識を求めてきたが、
実は探し求めていた「大いなる存在としての自分」はいつも目の前にあったのに見えなかった、
それはモノにアイデンテティを求めていたからで、つきつめれば思考つまり心に
アイデンテティを求めていたからだ、と気付く。
「心の貧しい者は幸いです」とイエスは言った、「天の御国はその人のものだからです」と。
「心が貧しい」とはどういうことか?
心になんの持ち物もない、何も自分を同一化(アイデンテティファイ)していない、という事だ。
そういう人はどんなモノにも、また自己意識と関係するどんな概念にも、アイデンテティを
求めていない。それでは「天の御国」とは何か?
それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の喜びのことだ。その喜びは、何かに自分を
同一化するのをやめて、「心の貧しい者」になったときに感じることができる。
だからこそ、東洋でも西洋でも古くからのスピリチュアルな実践で、あらゆる所有が否定されて
きた。しかし所有を否定しても、それだけでエゴから解放されるわけではない。
エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンテティを求めて
生き延びようと図るだろう。
(中略)
そのアイデンテティを通じて、自分は正しくて他者は間違っていると考えることが出来る。
あとで取り上げるが、自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の
主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。

いいかえれば、エゴの中身は変わってもそれを生かしておく構造は変わらない。
これに関係して無意識に想定されているのが、所有というフィクションを通じてモノに自分を
同一化すると、物質が持っているかに見える堅実性や恒久性のおかげで自分にも大いなる
堅実性や恒久性が付与されるはずだという事だ。(中略)
エゴはまた所有と「大いなる存在」を同一視する傾向がある。われ所有す、ゆえにわれ在り、
というわけだ。そして多くを所有すればするほど、自分の存在も豊かになる、と考える。
エゴは比較の中に生きている。私達は、他人にどう見られているかで、自分をどう見るかを決める.
誰もが豪邸に住んで誰もが豊かなら、豪邸も富も自意識を高めるのには役立たない。
それなら粗末な小屋に住み、富を放棄して、自分は他人よりスピリチュアルだと思う事で、
自分のアイデンテティを取り戻すことが出来る。他人にどう見られるかが、自分はどういう
人間か、何者なのかを映し出す鏡になるのである。

エゴの自尊心は多くの場合、他者の目に映る自分の価値と結び付いている。
自己意識を獲得するには他者が必要なのだ。そして何をどれくらい持っているかでほぼ自尊心が
決まる社会で暮らしていると、それが集団的妄想であると見抜けない限り、自尊心を求め
自己意識を充足させようとしてむなしい希望に振り回され、一生、モノを追い求めることになる。
モノに対する執着を手放すにはどうすればいいのか?そんなことは試みないほうがいい。
モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える。
それまでは、自分はモノに執着していると気付くだけでいい。

対象を失うか危険に晒されなければ何かに執着している、つまり何かと自分を同一化している事が
わからないかもしれない。
失いそうになって慌てたり不安になるなら、それは執着だ。
モノに自分を同一化していると気付けば、モノへの同一化は完全では無くなる。
「執着に気付いている、その気付きが私である」それが意識の変容の第一歩だ。
(p96-103抜粋)


「大いなる存在」とは、原書ではpresenceやbeingとなっています。
私は「生命そのもの」と解釈しています。

生きている、生かされている、呼吸が自分のコントロールに依らず、なにものかによって
生まれおちた瞬間から死の時まで、えんえんと続いている事・・この「生の奇跡」について
日常驚きをもって・また喜びをもって意識している人は、どのくらい居るでしょうか?
数分間、自意識で息を止めることはできても、自分でコントロールして心臓を数分間とめるなんて
ことは不可能です。
呼吸と心臓の絶え間ない動き、これこそ「神の所業」と言えると思います。

普段なにげなさすぎて・あたりまえすぎて気付いていないだけで「呼吸している」この状態は、
実は奇跡的瞬間の連続で・ものすごいラッキーな事なんだと、
普段から意識している人は(大病や大事故や九死に一生の経験から生還した人を除いては)
あまりいないのではないか?と、思うのです。

かくいう私も、30代手前で生命の危機を感じるような出来事を経験していたにもかかわらず、
「ニュー・アース」を読むまで、「生かされている」という状態、生命の存続の奇跡については
すっかり忘れ去っていました。 
「ただ生きている」その事があたりまえになりすぎていて、ありがたみなんか全く薄れていたのです。
それどころか、生きているがゆえに起きてくる様々な出来事に対して不満を持ち、わだかまり、
怒り、妬み嫉み、見下し、被害者意識で対象を攻撃し・・勿論、喜びも笑いもありましたが、
「生きていればこそ」の大前提、その奇跡への喜びはすっ飛ばしたところで↑これらの感情・想念に
振り回されたり・抑え込んだりーと、まさにエゴに振り回されていました。

”「大いなる存在としての自分」は、いつも目の前にあったのに
見えなかった”

”それはシンプルな、しかし深い、「大いなる存在」の
喜びのことだ。”


この2つが、「ニュー・アース」の結論で総論といっても過言ではないと思います。

「生きている」「生かされている」自分がどれほど尊い幸運な存在なのか、
人はエゴに囚われている間、そこに気付くことができません。
何ものを持たずとも、ただ存在する・そこに「ある」ことだけでもう完全で素晴らしいのに、
自分がどれほど尊くすばらしく、幸運な存在であるかを全て「アイデンテティ」に求めようとする。
以前から書いている通り、あらゆる「外付けパーツ」の増強で、自分という存在価値を
見出そうとするし、
他人の「外付けパーツ」と比較しては優越感をもったり・劣等感を持ったりする・・そんな繰り返しで
生涯という時間は消費される。
そして死の間際に立った時、それら「外付けパーツ」が、自分ではなかったことに”やっと”気がつく。
(以前も書いた通り)命尽き眼を瞑る時には、「外付けパーツ」はおろか、自己の肉体さえも
失うのです。 
ただ「いま」ここで呼吸をし、「生存」していられる、これこそが「大いなる存在の喜び」なのだと
エックハルトは教示しています。
つまりは、生存しているという状態、今ここでもうすでに、誰人も幸運で幸福であり・尊いのです。
そしてこの事が「今にある」と繋がってくるのです。


「生きて存在してるだけで幸福なんてありえねぇ!」と思うのは、エゴに囚われている状態です。
幸福に条件付けをしているあいだは、「存在している」だけで幸せだなんて思えるはずもありません。
あれがない、これがない、それもない。だから私は幸せではない・完全ではない・・と
自分がいかに「不足」しているかを、わざわざ探しだそうとします。
また、誰かと比較して「あいつよりは幸せだけど、上には上がいる」と考えたりもします。
そして恐ろしい事に、エゴは満足を知りませんから、一瞬「良かった」とか「最高に幸せ」と
思えるような出来事や瞬間にめぐり合う事があっても、次の瞬間にはすぐ
「よろしくない」「足りない」という状態を想像し・引き寄せます。 
それがエゴが存在するためのエサだからです。
私の文章力では、なかなかこのあたりを簡潔に・わかりやすく書けなくてもどかしいのですが・・(汗)。

で、物質面や社会的評価に依らずとも「自分たちは幸せの直道を歩んでいる!」と
胸張る「ぼろは着てても心は錦」タイプの信者たちは、
”エゴは何か別のものに、たとえば自分は物質的所有への関心を乗り越えた優れた人間だ、
人よりもスピリチュアルなのだという精神的な自己イメージにアイデンテティを求めて
生き延びようと図るだろう。”

まさに↑このパターンで、「信者というアイデンテティ」にハマっていると言えるでしょう。
宗教団体組織内における役職にこだわったりしがみついたり・昔OOだったと主張するタイプも
ここに当てはまるかと思います。
”自分は正しく他者は間違っているという考えはエゴイスティックな心の
主たるパターンの一つ、無意識の主たる形の一つだ。”

創価脳な人に、この部分↑ぜひ繰り返し読んで暗唱してもらいたいなと。
ただ、これこそが創価脳のアイデンテティで存在する理由みたいなものですから困ったもんですねw

このあともエゴについて、事細かに解説が続いて行くわけですが
「ニュー・アース」を繰り返し読み、「大いなる存在」のなんたるかが理解できるようになって
やっと解ったことがありました。
それは「幸せになれますよ」との触れ込みによる宗教がいかに嘘っぱちか、という事についてです。

大前提として、「生きているだけで丸儲け」を自覚できていれば、新興宗教なんて要りません。
ああしてこうして・何時間も仏壇の前に座って足腰の痛みに耐えながらw祈らなくたって、
外部他者にうとまれながらも「この教えは素晴らしいの!新聞読んでみて!」なんて言わなくても、
大丈夫なのです。
だって、息をしている・心臓が動いている、しかも勝手に。
それだけでもう「ラッキー」で「幸せ」なのですから。

そんな大前提の幸運を・自分が生かされている不思議・奇跡をまず感じてみれば、
悩みごとや一見「不幸」に見える事柄には、殊更フォーカスしなくなるのです。
勝手に心臓が動いている・呼吸が連続している、この奇跡をおこせている幸福に比べたら
目先の悩みやアクシデントはとるに足りず、いずれ「過ぎ去る」ものだ、と解ってきます。
できごとは四季や天候や車窓に流れる景色と同じ。
それが通り雨か台風か豪雪かは、時と場合によって違ってはくるでしょうが「事象」にすぎません。
そこにどんな「意味」を持たせるかは、自分次第になります。

「問題を問題化しない」ことをこの記事で書きました。
そもそも、生きている事それじたいが「ラッキー」です。
その大前提を放り投げて・なきものにして、「問題」を「問題化」し騒ぎ立て・
宿業や罰論なんかわざわざ「不幸探し」をしているようなものなのです。 
あえてもう、こまごまは書きませんが・・。
信仰の原動力が「不足」からくることは、元創価脳の方なら誰しも経験がおありだと思います。
「~しなければ」「~であるべき」「~じゃないから、こうなりたい」 全部、不足です。
そこにフォーカスしている間は、どれだけ頑張って不足を埋めたところで、また次なる不足が
やってきます。
何故なのか? エゴに取りつかれているからです。 
エゴにとりつかれているときは、どこまでいったって「満足」なんかありません。
そして信仰の原動力=エゴそのもの、です。
そこを克服するのは本当に単純なことで「エゴに気付く」
「生かされているという得難い幸福・幸運に気付く」 これだけです。

******************************

ところで、ブログタイトルを変えました。
ブログの趣旨を変えた6月にしたかったのですが、当時タイトルが思いつきませんで
今頃になった次第です。
すごくどうでもいい余談ですが、don't trust///の /// はどういう意味ですか?と以前に
質問されたことがあったのですが、本当は ・・・ としたかったのです。
それが、かなキーを押していなかったため、英数キーで///と入力されてしまっただけで
実はまったく意味はございませんw 今頃の回答ですみません)

そしてご報告、2016年内に脱会届を正式に提出することになりました。
しかも、実家の母も同時です。
なぜそうなったのかについては、来年以降、落ち着いてからご報告させていただきます。
いま言えることは、私はとくに何かを母に対して働きかけていません。
母に対しては、ほんとうに何もしていないのです。
ただ自分が「今にある」こと、わだかまらず「今を受け入れる」ことをやってきた、それだけです。

もともと、脱創価からはじまったこのブログですが、やっと卒創価となりそうです。
私にとっては、エックハルト・トール氏の書籍との出会いが、とても大きな転機となりました。
また、そのた現代の覚者の教えに触れたことで、肩の力が抜け楽になりました。
今後はタイトルどおり「わだかまらない生き方」について
「今にある」「いまを受け入れる」ことについて、私なりの方法とその結果を綴っていきます。

ますます、創価への被害者意識や文句は読めなくなると思いますがww
それでもよければ、引き続きお付き合いください。


「ニュー・アース」第二章(3)

なくなった指輪

スピリチュアルな問題について指導するカウンセラーとして、ある女性がん患者の元へ
週に二度ずつ通っていた事がある。その女性は四十代の教員で、医師から余命数か月と
宣告されていた。
(中略)ある日訪ねてみると、彼女はひどくがっかりし、怒っていた。
「何があったのですか?」と尋ねたところ、ダイヤの指輪が無くなったという。(中略)
きっと毎日数時間、世話をしにくる女性が盗んだに違いない、病人に対してよくもそんな
無神経なひどいことができるものだ、と彼女は言った。
そしてその女性を問いただすべきか、それともすぐに警察に通報したほうがいいか、と私の
意見を求めた。
どうすべきか指図はできないと答えたが、しかし指輪であればどんな品物で在れ、
今のあなたにどれほど重要なのかを考えてみてはどうか、と私は助言した。
「あなたはおわかりにならない」と彼女は言いかえした。
「あれは祖母からもらった指輪でした。毎日はめていたのだけれど、病気になって手がむくんで
はめられなくなったんです。あれはただの指輪じゃない。騒ぎ立てるのも当然じゃないですか、
そうでしょう?」
その返事の勢いや声にこもる怒りと自己防衛の響きは、彼女がまだ十分に「いまに在る」
心境になれず、おこった出来事と自分の反応を切り離して別々に観察するに至っていないことを
示していた。
怒りと自己防衛は、まだ彼女を通じてエゴが発言しているしるしだった。
私は言った。「それじゃ、いくつか質問をします。すぐに答えなくていいですから、自分の中に
答えが見つかるかどうか探してみてください。(中略)」
「あなたはいずれ、それもたぶん近いうちに指輪を手放さなくてはならないことに
気付いていますか? それを手放す用意ができるまで、あとどれほどの時間が必要でしょう?
手放したら、自分が小さくなりますか?それがなくなったら、あなたは損なわれますか?」
最後の質問の後、しばらく沈黙があった。
再び話し始めた時、彼女の顔には安らかな笑みが浮かんでいた。
「最後の質問で、とても大切なことに気付きました。自分の心に答えを聞いてみたら、
こういう答えが返ってきたんです”そりゃ、もちろん損なわれるわ”
それからもう一度、問い返してみました”私は損なわれるだろうか?”今度は考えて答えを
出すのではなく、感じてみようとしました。そうしたらふいに「私は在る」と感じることが
できたのです。こんなふうに感じたのは初めてだわ。こんなに強く自分を感じられるなら、
私はまったく損なわれていないはず。いまでもそれを感じられる。
穏やかだけれど、とても生き生きとした自分を感じられます。」
「それが”大いなる存在”の喜びですよ」と私は言った。「頭から抜けだした時に、初めてそれを
感じられるんです。それは感じるしかない。考えたって解りません。エゴはそれを知らない。
だってエゴは思考で出来ていますからね。その指輪は実は思考としてあなたの頭の中にあり、
それをあなたは自分と混同していたんですよ(中略)
エゴが求め執着するのは、エゴが感じることが出来ない、”大いなる存在”の代用品です。
モノを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたら、それはエゴだと気付かなくては
いけません。(中略)
喪失を完全に受け入れた時、あなたはエゴを乗り越え、あなたという存在が”私は在る”
ということが、つまりその意識そのものが現れるのです」(中略)
身体がますます衰弱していった最後の数週間、彼女はまるで光が内側から輝きだして
いるように明るかった。いろいろな人にたくさんのモノを分け与えたが、その中には
指輪を盗んだと疑った女性も入っていた。
そして与えるたびに、彼女の喜びはますます深くなった。
彼女の死を知らせてきた母親は、亡くなった後で例の指輪がバスルームの薬品戸棚で
見つかったと言った。手伝いの女性が指輪を返したのか、それともずっとそこに
置き忘れられていたのか?それは誰にもわからない。 だがわかっていることが一つある。
人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える、ということだ。(中略)

自分の所有物に誇りを持ったり、自分より豊かな人を羨んだりするのは
間違っているのか?そんなことはない。誇りや目立ちたいという思いや、「もっと多く」によって
自己意識が強化され「より少なく」によって自分が小さくなると感じるのは、善でも悪でもない。
エゴだというだけである。
エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。(p87-94抜粋)


このパートを初回読んだ時は、全く腑に落ちませんでしたw
愛着ある高価なアクセサリーが忽然と消えたら、そりゃ慌てるし、誰かを疑いもするだろうし・・
たとえ余命が幾許であっても・・盗まれたり・紛失したら辛いし、引きずるに決まってるじゃん!と。
エゴについて全く理解していない状態でしたので(エゴに囚われまくっていたので)
執着感ばりばりの私が、1回目はそう感じて当然だったと思います。
当時の私は、「とある出来事」で義実家や主人がいろんなもの(財産)を失っていくのを見て、
なんともいえない不穏な気持ちに苛まれていた時期でした。
不動産が人手に渡り、「管理物件」という看板が立っているのを見た時(春休み)も
忸怩たる思いがありました。
それらが「わたし」のものではないにもかかわらず、です。 
(余談ですが、私が義母さんに貸したお金は主人が戻してくれました)
「とある出来事」さえなければ、あれもこれも失わずに済んだんじゃないか・・なんでこんな事に
なったんだ!と、過去を責めていた頃で、まさにエゴにグルグルと巻かれた状態でした。

しかし、さまざま「いまに在る」を実践した数か月後に読むと、違和感なく受け入れることが
出来ました。
ふと思い出したことですが、20代半ば、私は腕時計を紛失したことがありました。
腕にはめていたはずのそれが、通勤帰りに「ない」と気付いて真っ青になり、すぐ電車を折り返して
会社までの道のりを探しまわりました(&社内も)。 
駅と交番に紛失届も出しましたが、結局戻ってこなかったのです。
その時計は父方の祖母が大学進学祝いでくれたものですが、高価な品だったため
父が「学生には分不相応。社会人になったら使いなさい」と、暫く父に預けていたものでした。
社会人になったとき手渡され、父も知っている特別な品物だっただけに、私は紛失した事を
ずっと黙っていました。 絶対に怒られる・大目玉をくらうと思い、言えなかったのです。
(これには父と父方祖父母の関係性や家庭環境もあるのですが、畏敬の念をもって
 父は祖父母に接していましたし、祖父母の前で姿勢を崩すのを見た事がありません。
 私達にもそのように接するよう・祖父母には敬語を使うよう教育されていました。
 私にとっての祖父母は親しみのわく存在ではなく、どこか遠い存在で、
 成人してなお、祖母からもらった大切な時計を失うなんて「とんでもないこと」だったのです。
 簡単にいえば、現代のような「フレンドリーな家族関係」は全くありませんでした。
 このエピソードを書くまで全く思い出しもしませんでしたが、改めて見るとちょっと特殊というか、
 こういった生育環境も私の「思考の背景」を作った材料の一つで、長らく囚われ続けた
 「絶対感」の基礎にあったものではないかと、思い当たりました・・)
十年以上経過してから、「あの時計、実は昔、紛失した」とカミングアウトしたところ
父は「災難を除けてくれたんだろう。失くした事をそんな深刻にとらえなくてもいい」と言ってくれ、
拍子抜けしたと同時に、とても気持ちが軽くなった事を思い出しました。
それはずっと私が一方的に・片思いのように抱えてきた罪悪感が、解放された瞬間でもあり。
父のエゴが軽かったのか・私のエゴが重たすぎたのか?w それは解りませんが、
腕時計がなくなっても「わたし」が損なわれることは、確かに無かったのです。

「罪悪感」とは、上記したように、自分がひとりでに抱え込んで勝手に重くなって身動きとれなく
なっているもの・・と、言えます。
もっと後の章で例を引いてエックハルトが解説してくれますので、ここでは一旦おきますが、
自分が気にするほど相手はなんとも思っていない(逆にいえば、自分に覚えのないようなことを
相手がしっかり覚えて恨みに思っている)パターンがある、ということを知っておくといいかも
しれません。

また、主人や義実家においても、半年経過し気付いてみれば、モノやお金を失いはしましたが、
以前と事情は様々変わったものの、義実家の皆も私達も「いま」驚くほど普通に・平穏に
暮らしています。
まだ一年経過してないにも関わらず、怒り悩み苦しんだ日々が、もう遠い昔の出来事に思えるくらい
私の中で「風化」しつつあります。恨みつらみは、嘘のように消えました。
私においては、「とある出来事」に出会わなければ、ずっとエゴに囚われて悩ましい毎日をおくり・
現実問題のはけ口に創価問題を使ってw悪口言って憂さ晴らしで過ごしていたかもしれません。
「とある出来事」のおかげで、エックハルトの本と出会う事が出来、エゴについても理解し、
さまざまな執着を手放すことができました。
それが本当に幸いなことだった、と感じています。
エゴに囚われたままだったら、(私のものではない)義実家が失ったあれやこれやを恨めしく思い、
「義母さんさえ騙されなければこんな事にならなかったのに!」などなど、いつまでも過去をネチネチ
蒸し返しては、いまごろ機嫌悪く生きていたことでしょうw
何よりも、わだかまりなく生きることが出来るようになったのが最大の収穫で
人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える、ということだ。
この言葉の真実味を実感しています。

本パートでは「指輪」(高価で大切にしていたもの)を題材にしていますが、なにも物にとどまらず、
特定の人間関係であったり・仕事・ステータス・恋愛・趣味・その他もろもろ全てに通じてくる話です。
それらを失ったとしても「わたし」は損なわれない。
なぜならそれらは「外付け」であり「わたし」ではないから。外的要因だから、です。
これが腑に落ちない間は「エゴ」にとりつかれ囚われている、という目安になります。

エゴは悪ではない。ただの無意識だ。 自分の中のエゴを観察する時、エゴの克服が始まる。
エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分の中にエゴの行動を発見したら、微笑もう。
ときには声を出して笑ってもいい。人間はどうしてこんなものに、これほど長く騙され、
囚われていたのか?
何よりも、エゴは個人では無いということに気付くべきだ。エゴはあなたではない。
エゴを自分個人の問題だと考えるならば、それもまたエゴなのだ。


ここを読んだ時「ほお!」と、大変おどろいたのを覚えています。
自分個人の問題じゃないなら、他人(エゴ)事なの?!そりゃ面白い、とw
そして私がすぐ実践を始めた事があります。それは、腹立たしいことや不愉快な想念が
浮かんできた際や・プライベートな日記を書いていて、わだかまりが文章に表われてきた際、
語尾に「~と、エゴが申しております」 と付け加えてみる事でした。
つまり、自分の意見じゃありません、エゴの意見です、という事にしてしまうのですw
これをやってみると、とても客観的に見ることが出来ますし、なんか面白い。
例えば「OOむかつく! と、エゴが申しております」とか
「XXいい加減にしろよ!と、エゴが申しております」という風に。
これは妄想の暴走を止めるのにも、とても効果があるのです。
憶測に対して「~じゃないか?、ってエゴが申しております」とすれば、あれっ?! 
それ、真実じゃないよね・・。確かめもしていない、勝手な想像だよね?
相手に聞いてみなければ、わからない事だよね。
なにわだかまってんだろう・・確認すればすむことじゃん!・・と発想の転換に役立ちました。
「~と、エゴが申しております」を習慣化すると、わだかまる時間も不毛な脳内会議も
どんどん短縮されていくのです。 
あ、いま自分はエゴに囚われてるな・・と気付き、その時点で思考を止めることができます。
ただ、ここで勘違いしてはいけないのは「善からぬことを考えている私が悪い」と我慢するのとは
違うという事です。 思考を止めるとは=自分の感情を、押し込めることではありません。
あくまでも、いま「こういう気持ちを抱いてるんだな(エゴが)」と、気付くだけでいいのです。
客観視しても、怒りやわだかまりが消えない時は
「自分(エゴ)が何をじぶん(真我)に解ってほしいのか?」を考えます。根問いです。
相手ありきの事柄であっても、自分が何を解ってほしくてその状態に在るのかを客観視して
答えを出す。

そこでわだかまりと一心同体になってイライラ・モヤモヤを続けていても、時間がたてば忘れますが、
根本的に解決はしていないので、またいずれおなじことを繰り返します。
ほんとうの自分の気持が解れば、相手に伝える事なくともあっさり溜飲が下がったり・
解決してしまうものなのです。 本当です。 これは経験した人にしか解らないと思いますが・・。

思考を止めることが習慣となれば、悪い・よからぬ想像が肥大化していくことを防げるという事で、
するとどうなるか、そこには平らかでなだらかな心の状態「いま」に在るが常態化するのです。
「~とエゴが申しております」とすると、自分がいかにくだらないことに腹を立てているのか・
自分が考えたり想像をめぐらしたところで、真実なんてわからないことに怒っているのか・
わだかまっているのか、とてもよく解って、時に脱力しますし、笑えます。 
まさに「自己観察」です。
あくまで私の場合ですが、この方法は効果的だと感じました。 
エゴを克服されたい方は、一度お試しください。

余談ですが、私が「~とエゴが申しております」を実践しはじめて一カ月くらい経った頃、
ふと「こんなに悩まない・考えないなんて、私はこのさき馬鹿になってしまうんじゃないか?」と
頭の中のおしゃべりが来ました。
そして「えっ・・?!私、悩んだり考えたりしない人=馬鹿だって思ってきたんだ!」と
古い思い込みに気付いたのです。 
我ながらビックリしました。若いころからよく周囲(外部)に「祥蘭は考えすぎだよ」とか
「あまり悩まないようにしてね」と、アドバイスされる事が多かったんですが・・。
確かにいつも何かを考え・大なり小なり悩むことが常でした。現状に満足するという事が無い時期も
ありました・・特に、30代手前で女子部の活動に戻った頃。
そして「すっごくよく考えてるんだね!」「いろんな(社会の)問題に関心が高いんだね!」と
他人から言われることに、ものすごい優越感を覚えていた事も思いだしました。
決して、そう言ってくれた方が私を「誉めた」とは限らないのに(暇なのね、にオブラートをかぶせて
そう言っていただけかもしれないのに)おめでたいことにw私は誉められたと勘違いして
喜んでいたのです・・。ほんと、我がことながら、面白くて笑えます今はw
私は、どこかで「悩まない・考えない人は馬鹿」という強い思い込みを握ってしまっていた。
だから、常に頭を忙しく働かせ、悩まなくていい事を悩み・考えなくていい事を考え思いをはせ・
問題にしなくていい事を態々問題化し・なにもかも自分の問題にして背負いこみ抱え込み・・と
やってきたんだなぁ~と。 なぜなら、馬鹿だと思われたくないから。馬鹿になりたくないから。
そら、疲れるわ!とw
そして、この「悩まない・考えない人は馬鹿」というメンドクサイ思い込みが何由来なのか?と
考えると・・やはり、創価教育(家庭内プロパガンダ)ではないかと行きあたり。
「悩みが無いのが幸せではない」 ←こんな言葉、子供時代からずーっと聞かされてきました。
ためしに”悩みが無いのが幸せ 創価”でぐぐると、上記が池田老人の指導だと判明しました。
やっぱり・・w

悩まなくても、考えなくても馬鹿ではありません。 当たり前のことですが。
そして、自分がいかに悩まなくても考えなくてもいい事を「態々」悩み・考え・問題化し、
勝手にわだかまり、無駄な時間を過ごしてきたのか・・と気付いて、唖然としました。
私が何度か「生きることがとても楽になった」と書いているのは、
この無駄に「悩み・考える」という時間が・無駄なことにエネルギーを使うことで精神的に疲弊し
パフォーマンスを下げることが、無くなったからなのです。
本当に気持が穏やかになりましたし、細かいことにいちいち腹も立たなくなりました。

「悩み・諸問題を考え」ている時は、決して楽しくはありませんし、わくわくもしません。
建設的では無い方向へむかったり、ただ嘆いてみたり、何かを叩くくらいしか出来ないのです。
問題点をあげつらうばかりで解決策を示すわけではない、そんな人をメディアやSNS上で
公人私人にかかわらず、よく見かけますが、そういった人たちは総じて楽しくなさそうですし・
わくわくともしていないでしょう。
一つ言えるのは、そういった人たちは「悦に入る」ことでバランスを保っているんだな、という
ことです・・そして過去の私も、創価問題に対してその傾向が大いにありました。
いうまでもなく、その思考性はエゴのなせる技です。
同じ「思考」であっても、楽しいことや・わくわくする事に時間を使えばいい。
そのほうが、ずっと平穏で心豊かであることは間違いないのです。

もと創価脳の方で論じ好きwなお方は、上記のような思い込みがないか少し振り返ってみると
何か発見があるかもしれません。ご参考まで。

それと、お問い合わせがあったのですが
私が本文紹介に書いているページ数は、電子書籍版のページ数です。
実物(書籍版)の方とは違いますので、ご了承ください。

私があれこれ語るよりも、いちど読んでいただく方が
きっと何万倍も早いです↓まだのかたは是非。
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

ニュー・アース [ エックハルト・トール ]
価格:2376円(税込、送料無料) (2016/9/29時点)



(次回に続きます)

「ニュー・アース」第二章(2)

頭のなかの声

私が初めてアイデンテティの移行を体験したのは、ロンドン大学の学生の時だった。(中略)
あるとき地下鉄で、三十代はじめとおぼしき女性が向かいに座った。(中略)
地下鉄は満員だったのに彼女の両隣には誰も座らない。理由は、彼女がどうも正気には
見えなかったからだ。何やらいきりたって不機嫌な声を張り上げ、休みなく独り言を言っている。
自分の頭のなかの考えに夢中で、周りの人々にも状況にも全く気付いていないらしい。(中略)
私は好奇心に駆られ、方向が同じあいだはあとをつけてみようと思った。(中略)
もしや、彼女は私と同じところを目指しているのか?そう、確かに彼女はセネート・ハウスに
向かっていた。教員か学生か、あるいは事務員か司書なのか?それとも心理学者の
調査プロジェクトの被験者?答えはわからなかった。(中略)
私はいま目撃したことに衝撃を受けていた。
二十五歳でそれなりに成熟した大学生だったから、自分は知的な人間だと思っていたし、
人間存在のジレンマに対する答えは全て知性を通じて、つまり思考によって見出すことが
できると信じて疑わなかったのだ。
気付きのない思考こそが人間存在の主たるジレンマであることをまだ悟っていなかった。
教授陣はすべての答えを知っている賢者で、大学は知識の殿堂だと振り仰いでいた。
あの女性のような正気とは思えない人がその大学の一部だなんてことがあるだろうか?
図書館に行く前にトイレに入った時も考え込んでいた。
手を洗いながら、あんなふうになったらおしまいだよな、と思った。すると隣にいた男性が
ちらっとこちらを見た。私は思っただけでなく、口に出していた事に気付いて愕然とした。
なんてことだ、もうすでに同じだ。自分も彼女と同じように絶え間なく心の中でしゃべり続けて
いたのだろうか?私と彼女にはわずかな違いしかなかった。
彼女の思考に圧倒的な優位を占めているのは怒りらしいが、私の場合は不安、それだけだ。
(中略)
一瞬、私は自分の心から離れて、いわばもっと深い視点から自分を見ていた。
思考から気付きへの瞬間的な移行だった。
私はまだトイレにいたが、他にはもう誰もいなかったので、鏡に映る自分の顔を見つめた。
そして自分の心から離れたその一瞬に、声をあげて笑ったのだ。
狂気じみた笑いに聞こえたかも知れないが、それは正気の笑い、恰幅のいいブッダの
笑いだった。
「人生なんて、お前の心が思いこみたがるほど深刻なものじゃないよ」この笑いはそう語って
いるようだった。
だがそれもほんの一瞬のことで、たちまち忘れ去られた。
それから三年間を私は不安な鬱々とした気分で、思考する心に自分を完全に同一化して
過ごした。(中略)
だが、私はまだ、思考を培う以外の選択肢を見つけることができなかった。
思考は意識のほんの小さな側面でしかないことに気付かず、エゴについて何も知らなかったし、
ましてやそれを自分の中に見抜くことなどできはしなかったからだ。(p73-79抜粋)


上記内容は、この記事に貼った動画のなかでも語られています。
エックハルトが「頭のなかのおしゃべり」に初めて気付いたエピソードです。
トイレでのくだり部分を読んだ時、私にも似たような経験があるなぁ・・と思いだしました。
実際声に出すか・出さないか/行動に出るか・出ないかの違いだけで
どんな人間にも意識のない思考・衝動が存在しています。
意図せず無意識に本音が「声」になって口をついて出て、すっごく焦った、という経験のある人も
きっといると思います。 
声じゃなくても、ため息とか・舌打ちをうっかりしてしまって「やべぇ!」といった場合も
あるでしょう。 
焦るのはそれが、エゴの声(反応)だから。
エゴの声とは「他人に知られたら恥ずかしい・気まずい・よからぬ内容」とも言えるかも
しれません。

エックハルトが、鏡に映る自分を見て、声をあげて笑ったというクダリについても
自分で自分の尋常でない緊張っぷりや・怖がりぶりに気付いた時、情けないのと可笑しさで
おもわず笑ってしまう・・という状況と同じではないかと。 これも、誰しも経験があると思います。
まさに「我にかえる」状態です。
笑っている自分が「真我」であって、極度の恐怖や緊張に囚われたそれは「エゴ」の姿だ、と
考えるとわかりやすいかと思います。 
(自分を俯瞰で見ているもの=真我、思考が離れることなく完全一体化した状態=エゴ)
「はっと我にかえる」ことが「気付き」と呼ばれる状態かと私は解釈しました。
解りやすい例でいえば、創価脳が組織や爺様の悪口でもいわれようものなら、
条件反射や脊椎反応で道理の通らないことを言いかえす姿=エゴに囚われた状態でしょう。
逆も同じことで、創価話題や創価脳の言葉に脊椎反応し、怒り鬱憤、なにか一言言わずには
いられない!と応戦してしまうアンチも、エゴに囚われた状態です・・気をつけたいと思いますw

エゴの中身と構造

エゴイスティックな心は完全に過去によって条件づけられている。その条件付けは二つの面から
行われる。中身と構造である。(中略)
あなたのアイデンテティの中身は環境や育ち、文化によって条件づけられる。
子供が豊かでも貧しくても、動物に似た木切れの玩具でも精密な電子玩具でも、なくしたときの
苦しみと言う点では同じだ。どうしてそんな苦しみが生じるか、その理由は
「私の、僕の(my)」という言葉に隠されている。これが構造である。モノとの結びつきによって
自分のアイデンテティを強化したいという無意識の衝動は、エゴイスティックな心の構造に
しっかりと組み込まれている。
エゴが生まれる最も基本的な精神構造の一つがアイデンテティである。
「アイデンテティフィケーション(同一化)」という言葉の語源は「同じ」という意味のラテン語idemと、
「作る、為す」という意味のfacereだ。何かにアイデンテティを求める、同一化するというのは、
「それを同じだとする」という意味なのだ。なにと同じだとするのか?
「私(I)」である。私はそれに自己意識を付与し、それが私の「アイデンテティ」の一部になる。
最も基本的なレベルのアイデンテティの対象はモノだ。(中略)
私はモノに自分自身を見出そうとするが、しかしそこに完全に同一化しきって没入することは
できない。それがエゴの運命なのだ。
(p79-81抜粋)


エゴ=あらゆるモノ・コトに対する執着心であり
自己存在の証明=自己顕示欲・・虚栄心も、エゴに含まれていると思います。
基本的なレベルのアイデンテティの対象はモノだ、という事ですが、確かに虚栄心のカタマリの
ような人は、所有物(モノ)にそのエナジーを強く反映しています。
そういえば、晩年顕彰集めに暴走した名誉欲の塊みたいな爺様(とその周辺)もいますねw
どれだけメダルが集まっても、そこに完全に同一化しきって没入することはできませんし、
一部の支援者をだまくらかす事は出来ても、お金で買い集めているという事実を知れば
誰一人として、その大量のメダルを「誉れ」だとは思いません。
「どうだ凄いだろ!」と思っているのは、エゴと無意識状態の支援者だけです。
また、モノとは違いますが役職やポジションにしがみつき、永遠に降りようとしなかったり、
聞いてもいないのに「自分は組織幹部だ(だった)」「こんなにあれこれやってきた」
「全部私がやってきたんです!」と過去の栄光(?)、功績をアピールする人も、
エゴ臭きついなーと感じます。 

アイデンテティとしてのモノ

広告業界の人間は、ほんとうは必要ないモノを売りつけるためには、それを持っていると
自己イメージが、あるいは他者から見たイメージが変化すると消費者に思わせなければ
ならないと知っている。言いかえれば、自己意識に何かを付け加えられます、ということだ。
(中略)このとき無言のうちに想定されているのは、この製品を買えば不思議な作用が働いて
あなたは彼ら(注:広告塔)のようになれる、もしくは彼らのイメージとそっくりになれる、
ということだ。だから多くの場合、人は製品を買うのではなくて「アイデンテティの強化」を買う。
(中略)いわゆる消費社会が成り立つのは、人がモノに自分自身を見出そうとする努力が
どうしてもうまくいかないからである。エゴの満足は長続きしないから、さらに多くを求めて
買い続け、消費し続けなければならない。

勿論私達の表面的な自己が生きている物理的な次元ではモノは必要だし、暮らしに不可欠で
ある。住まいも服も道具も乗り物も必要だ。それに美や固有の質のゆえに高く評価される
ものもあるだろう。私達はモノの世界を毛嫌いするのではなく、尊重しなければならない。
(中略)
エゴがモノに同一化しようとするとモノへの執着や強迫観念が生まれ、そこから進歩の唯一の
ものさしが常に「より多く」である消費社会と消費構造が生まれる。
これは自己を増殖させることだけが目的であって、実は自分がその一部である組織体を破壊し
自分も破壊する結果になると気付かない癌細胞と同じ機能不全である。(中略)
スピリチュアルな実践として自分を振り返り、モノの世界との関係、とくに「私の(my)」
という言葉を付されるモノとの関係を見直してみることをお勧めする。
たとえば自尊心が所有物と結び付いているかどうかを判断するには、注意深くて正直で
なければならない。あるモノを持っているというだけで、なんとなく自分が重要人物だとか
優れた人間だと感じないか?
他人の目や他人の目を通じて自分自身に映る自分の価値を引きあげるために、
さりげなく自分の所有物をほのめかしたり、見せびらかしたりはしないか?
誰かがあなたより多くをもっているとき、あるいは大事な物を無くした時、恨みや怒りを感じ、
自分が小さくなったように感じることはないか?
(p81-87抜粋)


「他人にどう思われたいか」「自己顕示欲」ありきのモノ選びは、軸がぶれがちで、
次から次へと珍しい新しいものが出れば欲しくなり・際限もありません。
「他人に見せる」ことが第一目的になれば、たくさん持っていると思われたい・新作が出たら
誰よりも真っ先に持ちたい・イイものが欲しい・・と、なるのが常です。 
そんなアイデンテティ強化としての所有・消費行動は、きりがないよとエックハルトは
教えています。
下線を引いた自尊心のクダリを読んで、私がまっさきに思い浮かべたのは、
某SNSの、いわゆるキラキラアカウント。
こんな事件もありましたが
そこまでしてSNSで、不特定多数の人に「自分」をどう思われたい・見られたいというのか?
これらも、エゴにとりつかれた、無意識状態の姿といえるかと思います。

エックハルトがネット上での出会い
(会ったことのない人物)のイメージが独り歩きする事について語っている動画です。
なかなか興味深い内容です。ごらんください。


人は「見た目」や「持ち物」前回書いた「外付けパーツ」に意識を奪われ・騙されやすい、
とも言えます。
相手の本質なんて全くわかりもしないのに、そういった付属物を見て勝手に想像を膨らませ
「素敵な人」「すばらしい人」なんて、思いこんで憧れたりしがちです。
爺様がメダル蒐集家になってしまったのも、外付けパーツの増強で「素晴らしい大師匠!」と
みんなに思われたかったからでしょうし・そうすることが「カリスマ性」を強化すると
信じていたからに違いないと思います。
一部会員はまんまと「世界に認められた偉大な師匠!」と、羨望のまなざしで見ているわけなので
狙いどおりだったわけですが・・ほんと困ったもんですね?!
「人間革命」なる小説のいち主人公を爺様本人だと思わせ、主人公の人物像は会員の想像で
どんどん膨らみ、さらに「偉大なる師匠」像にハクをつけています。
上で紹介した動画でも指摘されている通り、全ては「メンタルイメージ」なのです。
半分は組織の意図的プロパガンダ・もう半分は会員個人の思考が勝手に、作り上げたもの。
繰り返しですみませんが、私は「師弟観」がまるでない人間なので、バリ活当時も・アンチ以降も
師匠命!な創価脳の事が全く理解できませんでした。 
が、これが「思考=エゴ」のなした事だった、と知ればとたんに腑に落ちましたw
みんな、まさに「恋に恋する」状態なんですね・・件の3人もしかり。

また、エックハルトは「モノを持つ(買う)ことがよろしくない」と言っているわけではなく、
「モノを自己意識の肥大に使うのはエゴだよ」と言っています。
モノはモノとして自分の娯楽、趣味として楽しんだにしても、それらが「幻」である(幻になる)と
判っていれば、モノに対して軽やかな気持ちでいられる。
自己意識の一部だという考えをもってしまうと、執着や差別観がうまれる。
モノが自分の一部などという、誤った認識を持たなければ、強いエゴを発揮しないで済むと
いうことでしょう。
執着心(エゴ)を手放すために喜捨しなさい・・なんて、高額なお布施を要求する
宗教まがいの団体や・占い師・霊能者(頗る怪しい)がいるようですが、それは完全に詐欺で
間違ってると私は思います。
某ロックミュージシャンの洗脳騒動も記憶に新しいところですが。
エックハルトのいうように、本人の意識の変容ひとつでエゴはエゴでなくなるのです。
モノ(お金)との向き合い方・姿勢の問題であって、物理的に手放すという事とは
違うんじゃないかと。 「どうするか」じゃなくて「自分がどうあるか」の問題でしょう。
脱創価をしても、拠り所がないと不安で、上記した「まがい者」に依存し騙される方もいると
聞きました。気をつけてほしいと思います。 

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


エゴの性質については、まだまだ序の口でこの先も解説が続々出てきます。
結局のところ「思考」そのものがエゴであり、
思考を超えたところにあるのが「悟り」だということです。

当初、なかなか自分の思考が「エゴ」だなんて信じられない!自己否定されたみたい・・と
私は憮然としていました。 が、「ニュー・アース」を読み進めていくうちに・思考を止める・
思考に囚われないという状態を意識してみるうちに、なるほど、その通りだなぁ・・と
腑に落ちたのです。

前々回に少し触れた津留晃一さんの教えで
「出来事は高次で見れば良いも・悪いもない。中立である」というものがあります。
出来事そのものは中立だというもので、
人の思考がその出来事を「良い」「悪い」と意味づけ、判断つけているのが本当のところなのです。
そして繰り返しですが「思考とは過去からの条件反射」です。そこには裏付けがあります。
同じ出来事に対して、スルー出来る人もいれば・殊更執着を燃やす人もいるように、
それぞれ「思考の背景」が違うため、トリガーポイントも千差万別ということだと、
私は認識しています。

創価の矛盾について知った際、私にとっては天地がひっくり返るほどの衝撃でしたし、
何度も書いてきましたように、当時の私はショックから嘔吐したほどです。
「絶対正義」と40年余り信じてきたものが崩壊し、裏切られた!どうしてくれよう!となりました。
かたや、同じ母親の元で育った、学会3世意識のまったくない姉に
「創価がこうでああで、ウソつきだった・・」と話してみても
「そりゃそうだろうねー」「うん、それ知ってる」「まあ、宗教団体なんて金儲けが目的だよ」と
当然といわんばかりに、あっさりしたものでした。 
この差がいったい何なのか?私はここ数年謎でした。個人の資質も、もちろんあるでしょうが
これは確実に「思考の背景」の違いだったと、最近理解が出来ました。
姉にとっては最初から創価など「胡散臭い宗教ビジネス」が思考の背景だったのです。
はなっから信じてないからショックなんか受けません、あたりまえです。
私は運悪く「命よりも大事な御本尊」ありきの、創価は正義の団体だと叩き込まれ・信じて
疑わなかった。だからショックを受けた。 それだけの話だった、と今は言えます。
なにも特別なことではなく、「思考の背景」が変わっただけ。
私の思考が、創価への評価を「いい」から「悪い」に変えてしまっただけであり、
創価は大昔から、一定の人たちから見れば「胡散臭い宗教団体」でしかなかった、のが現実です。
(「じゃあ創価は悪くないのか!騙された方が悪いというのか!」と怒り出す人がいそうですがw
 高次から見れば「いい」も「わるい」もない、という話です。個人的感情論は挟みません)

そして、覚醒ですっかり「思考の背景」が変わってしまった私は、命より大事だった御本尊も手放し
現在は神棚をまつっています。 
たまたま、神道に心惹かれてそうしましたが、きっかけ次第でキリスト教へ傾倒することだって
あったかもしれないし、一周回って正宗へ帰依した可能性だってある。
(神道に惹かれた経緯については別記事で後日書きます)
心理学にふれたことも、エックハルトをはじめとした現代の覚者の教えに傾倒していることも、
これを他人が「良い」「悪い」とジャッジするのは、全く意味がありません。
だって全員、思考の背景が違うのですから。 
「思考の背景が各個人で違う」と理解できれば「高次で見れば出来事は中立」だということが
なんとなくでも、わかると思います。
まさに表も裏も・いいも悪いもぜんぶ繋がっている、「メビウスの輪」です。

私が創価の矛盾に気付いてアンチになったのが、2012年の9月でした。ちょうど4年が経過します。
40年以上、創価を信奉していた事や・創価脳の母vsアンチの父ときょうだいという構図の家庭に
生まれ育ったことを、私は「ものすごく不幸だった」と思ってきました。
その思いはアンチになってからの方が強く、消せない黒歴史、膨大な時間を無駄にしてしまった、
善意の他者を巻きこんで申しわけなかった云々・・他にも言葉にならない、イヤな思いがありました。
これらは確実に「思考の背景」となって、アンチ創価濃度を増していたと思います。
こんなブログを立ち上げたのだって、ただでは済まさねぇ!という気持ちがありました(何を?w)。
繰り返し書いてきたとおり「仏罰は無い」を証明しなくては!という思いもありました。
今年に入って精神的に大きな動揺(とある出来事)があり、エックハルトの本に出会えたことで
エゴのメカニズムについて理解を深めていくうち、再び「思考の背景」は変化しました。
今はもう、創価脳だった40年あまりは私にとって「黒歴史」ではありません。
「今、こうなるべくして、通った不可避の道」だったと思えるようになったのです。
そうであった事で、私は何かから守られてきた面もあると考えました。
創価脳じゃなかったとして生きた人生が、良かったか・悪かったかなんて、今となっては
解らないという事です。 そこをえんえんクヨクヨしたり・恨んでたって、どうしようもない。
そう生きた事に悔いなし!とまでは言わないけれど、過ぎた事に意味は無く、「いま」が大事。
これはこの記事で取り上げた「未来から流れてくるボール」の話と同じです。
それが腑に落ちたら、もう創価は問題でも恨み事でも無くなるし、お笑いネタになりました。
最近読んだバシャールの本で「パラレルワールド」という言葉が出てきたのですが、
”自分の思考背景が変われば過去の出来事への評価も全て変わる(次元上昇)”とあり、
こういう事なのかもな、と感じました。
勿論、一足飛びにこんな心境に到達できたわけではありません。過去記事をみてもらったら
解るとおりですが。
様々な出来事や思いを経、創価問題とは別のところで精神的に衝撃を受けた
(とある)出来事があり、「ニュー・アース」を読んでエゴの存在、正体、メカニズムを知って
私はこんな心境に至りました。
そしてエゴがどんなものか把握してしまえば、生きることが実に楽になりました。
また自分がいかに「思考」に囚われて、物事や周囲の人物・すべての事象への評価を偏りで
「ネガティブ」なものにしてきたかが解って、驚愕しました。
創価問題も同じことで(私はたまたま「ニュー・アース」と出遭う少し前に、母が自ら
非活への道を歩み出していましたが・・)実はなにも問題ではなかったし、私が悩まなくて
よいことだった、と解りました。
ただ、在る程度の期間そこで悩み七転八倒する経験がなければ、私は「いま」を迎えることが
出来なかったのでしょうし・早い段階で「ニュー・アース」を読んでも、理解できなかったんだと
いまはわかります。
(腑に落ちるべきタイミングが各々あるのだ、ということです。)
「いま」を生きることが面白いのに、いつまでも「済んだ事(過去)」「他人事(家族の創価問題)」に
悩んだり「問題化」していたら、勿体ない。
もっといえば「アンチ創価」をアイデンテティとして生きるのって、果たしてどうなのか?wと。
もちろんそれが「人生の楽しみ」だという人のことを、止めはしませんが・・。

「思考を止める」と、思考の裏付けとなっている過去からの様々な思い込み・
ビリーフ(無意識の信念)・固定化された価値観・先入観などが、働かなくなります。
エゴが働かなくなって初めて、真我が働くようになります。
先入観や思い込みのない、無の状態から出てくる本当の「思い・感情」です。

子供時代から特定の思考回路を持つように植え付けられてきた「創価脳」ですから、
自分で矛盾に気付くのは相当に難しい事で、気付けたことは「天啓(天からの啓示)」だったと
言えるほど、すごい出来事だと私は思っています。
集団的エゴ(=創価)から抜け出し、偏考で自縄自縛・排他的に生きる事から脱却できたのは
私にとってはありがたいことでした。
が、集団的エゴから抜け出してもなお、偏りを見せ、対象を憎み・恨み・間違いであると
叩き続けることを、まだ目覚めない活動家の家族や知り合いのことで思い悩んだりすることを、
えんえんやっているようでは、結局それもエゴに囚われた状況で、何も変わっていなかったのです。 
それはまさしく「エゴ」のしわざで、経験上私が思うに
なぜ執着するかと言えば、創価が正しいと騙されて信じてきた「わたし」は
間違っていなかった。
あくまでも「創価」が悪いんだ!「わたし」は悪くないんだ!と、エゴがわめいているのです。
「わたし」を悪者にしたくない!と、必死の抵抗をしていた。
ここでいう「わたし」とは、勿論「エゴ」そのもので、本当の自分ではありません。

そして創価に対するネガティブな想念・そこから出る言動は実際「あなた」の役目でも仕事でもない、
あなた自身が望んで本当にやりたくてやっていることではない。 
エゴがやらせていることだと、気付けばいい(気付いたら楽になります)。

次の章でエックハルトは教えてくれます「エゴは、あなたではない」と。

思考に囚われているうちは、どんな恨みもつらみも苦悩も、消えるはずがありません。
エゴは恨みたい・悩みたい・問題にしたい・モヤモヤしたい・わだかまりたいのです。
それこそがエゴが存在するためのエネルギーだからです。
エゴは存在し続けるために、怒りや恨みや鬱憤に燃料を注ぐような情報ばかり集めるし、
自然と引き寄せます。
社会に対する不安や不穏、混乱に関するニュースにばかり反応するようになる・
そのテの問題について「思考」したがるようになる。
そしてそれを多くの人と共有したいと、拡散する。
自分自身がネガティブ(エゴ)を発信し・それとおぼしき現実を寄せ付け・さらに拡散するという、
負のループ・機能不全に陥るのです。
SNSはまさに情報を引き寄せるためのツールですから、使用している方は気をつけて、
自分が何に強く反応しているかを、時々、自分を俯瞰で見てチェックしたほうがよいかと思います。
私生活にまで不安や不穏を引き付けるような事態になっては、意味がありません。

真の覚醒とは、両極を知って真中に戻る。エゴを超越することだと
いまの私は思っています。

創価の矛盾に気付けないまま一生を終える人も、その人がそれを幸福だと思うなら
幸福だと言えます。
信じているものに裏切られることなく、終わって行けるんですから。
「あいつは創価にだまされたまま人生終えて不幸だ」という評価は、外野が下す評価です。
本人の評価ではないので、その本人が「幸せだった」なら、それ以上でも以下でもありません。
物事の評価を下しているのは「自分の思考」でしかなく
その「思考」とは「過去からの条件反射」で、ほんとうの自分ではないのです。
(でも、外野から見てるとやってることは「馬鹿みたい」に思えてしまいますが・・
 それはエゴがそう感じているだけの話、らしいですw)

要は「自分の内側」に全てがあるということで、外野は関係ありませんし問題ではありません。
エックハルトをはじめとした現代の覚者(津留晃一さん、バシャール:ダリル・アンカ)は
そう教えてくれています。
それは仏教用語でいうところの「随自意」で生きましょう、ということです。

またしても長文になってしまいました。 気分転換にお花の写真でもどうぞ。
top17c.jpg
散歩道で発見した秋。

(次回に続きます)