ニュー・アース 第三章(1)

第三章
「エゴを乗り越えるために理解すべきこと」


エゴの構造

大抵の人は頭の中の声~自分でも意図しない強迫的で絶え間ない思考の流れと
それに付随する感情~に完全に自分を同一化している。
自分の心に取りつかれている状態、といってもいいだろう。
そんな状態であることに気付いていなければ、頭の中の思考の主が自分だと思いこむ。
その思考の主は、エゴイスティックな心である。(中略)
あなたの思考、あなたの心の中身は、もちろん育ちや文化や家族的な背景などの
過去に条件づけられている。

全ての心の活動の核心は繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンで
できていて、人はそこに最も強く自分を同一化している。それがエゴそのものである。

ほとんどの場合、あなたが「私(I)」という時は、エゴがそう言っているのであって
あなた自身では無い。これはいままで見てきたとおりだ。
エゴを形成しているのは思考と感情、あなたが「私と私の物語」として自分を同一化している
記憶の集積、知らず知らずに演じている習慣的な役割、それに国籍や宗教、人種、
社会階層、政治的党派などの集団的アイデンテティである。
そこにはまた、所有物ばかりでなく見解、外見、積もった恨み、優越感や劣等感、
成功や失敗という個人的なアイデンテティも含まれる。
エゴの中身はひとによってさまざまだが、どのエゴでも同じ構造が作用している。
いいかえれば、エゴの違いは表面だけで、根底ではどれも同じだ。
ではどういう風に同じなのか?
どれも同一化と分離によって生きながらえている。(中略)

エゴが「私(I)」という思考を支えるには、その対極の思考である「他者」が必要だ。
「私(I)」という概念は、「他者」という概念が無いと生き延びられない。
その他者は、「私(I)」が敵とみなした時に最も確かな存在になる。

この無意識のエゴイスティックなパターンのものさしが一方の端に在るのは、人の過ちを
あげつらい、不満を言うエゴイスティックで脅迫的な習慣だ。
イエスが「あなたは兄弟の目に在るちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には
気付かないのか?」と言ったのも、このことを出している。
物差しのもう一方の端には、個人間の物理的暴力や国家間の戦争がある。
聖書では、先のイエスの問いには答えが書かれていないが、もちろん答えは
こういう事である。
”他者を批判したり非難したりすると、自分が大きく優れていると感じられるから。”
(p129-132抜粋)


前半部は、これまでのおさらい的にエゴのあらまし・性質について述べられています。
人間は唯のエネルギー(魂=大いなる存在)であるところ、3次元に出生したその日から
様々なもの(=アイデンテティ)を身にくっつけていく。
日々のドラマがアイデンテティを形成し、「個人」「私」となっていく。
全ての心の活動の核心は繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンで
できていて、人はそこに最も強く自分を同一化している。それがエゴそのものである。

とある中で、
「繰り返ししつこく反復され」て出来上がるものとして「観念」もあります。

ここで脱線。本文から離れますが、
私がエックハルト氏の本に出会った後、さらに知識を広げるべく「宇宙の法則」が
書かれた本をいくつか読みました。
津留晃一さんやバシャール、セス(という宇宙存在)の本には
”「観念」が現実を作っている”という事が、それぞれの表現で書かれています。
思考の現実化・願望の現実化についても「観念」が重要なカギを握っていて、
3者の言っていることを総合すると「自分は無価値だ」「自分はダメな人間だ」というような
ネガティブな観念をもっていることが、一番よろしくないとあります。
(観念=思い込み)
ネガティブ観念が基底部にあることで、自分が自分に制限をかけているという説。
私はこの説にとても納得したというか、これまでの自分の人生振り返ってもまさにそうだったので
「知りたかった答えがあった!」と、非常にワクワクしました。
ネガティブな観念をもっている人がいくら「仕事で一番になりたい」「モテたい」
「人気者になりたい」「好きな人に愛されたい」「お金持ちになりたい」なんて願っても、
観念が現実を作っているだけに、目の前に望む状況は中々現れません。
何かの拍子に、まぐれのようにその状況が現れても、チャンスをものにできなかったり・
長続きせずに終わってしまうのは、望みよりも「観念」が勝つから。
「観念」のほうが強いから、「望み」を叶えることを許可しないというのです。

そして「自分には価値がある」「自分は幸いである」という、
願望成就に必須のポジティブな観念は
「他者への尽きない恨み」にフォーカスしている間は表出し難い・・ともあるのです。
(ネガティブな感情は、観念が創り出している故)
ざっくりいえば「全てが繋がっているから」なのですが、詳しくはニュー・アースを
全編読んでもらえれば解ると思います。
なので自分の望んでいることと一切・直接の関係がないようであっても、
創価にまつわる問題(それ以外のなんでも・・自分を不愉快にさせるテーマ)に
ガチンコで固執し・深刻に取りあったり、ネガティブな感情を向け・長々時間を費やすことは
人生において時間の無駄で、辞めた方が無難です。
(お笑いネタとしてヲチする程度は、問題ないとおもいますが)
組織も大本営も無視していれば、集団的エゴはいずれは崩壊するんですからw 
無駄に気にかけて・イライラムシャクシャなんてせずに、放っておけばいいのです。
そして自分の人生の創造に集中するほうが、同じ時間を過ごすにしても有用です。
ここで全てを説明するのは無理があるので、願望成就や引き寄せに興味のある方は
バシャールの本やブログを是非読んでみてください。
引き寄せではエイブラハムの本も有名ですが、エゴのなんたるかを理解し・
エゴにふりまわされなくなってから読まないと、実践はただ苦しいだけだと思いますw 
願望成就の為には、徹底的な「ネガティブクリーニング」が必要なんだということが
最近の私の気付きです。 
「ニュー・アース」はその大きな助けになる、全ての基本と私は捉えています。


上に紹介した本のうち、セスが一番難解で、津留晃一さん、バシャールの順。
私的に内容に一番感銘を受けたというか・凄い・・!と思ったのはセスですが
(「セスは語る」「セス・ブック」の2冊が出ています。
1970年代に「カルマ(前世の業)は無いし、それを理由に帰依をあおる宗教は
ろくでもない(要旨)」と言いきっています。一念三千の真の解釈はこれなんだなー!と
感動した内容もありました・・ちなみに日本にこの本が入ってきたのは1999年です)
意識や感情の使い方については、バシャールが一番解りやすいと思います。
この話(願望実現)については、「ニュー・アース」とはテーマが異なりますので、
追々別カテゴリで書いてみたいと思っています。

話を元に戻して、後半部はちょっと耳の痛い真実が述べられています。
「私」を認識するための「他者」が必要、比較の世界です。
自分より相手がいいもの持ってる・優れてると感じれば憧れがいつしか嫉妬になったり・・
逆は優越感をもたらす。
他者は、「私(I)」が敵とみなした時に最も確かな存在になる。
とありますが、集団的エゴが常に「仮想敵」を用意して組織の統率をはかろうとするのは、
各個人の中に確かにある「エゴ」をうまく利用するためだと言えると思います。
(創価で言えば、宗門ですしかつての阿部法主ですねw)
敵(悪)を設定する事は、自身の正義感を高める=最も確かな「私」を確立できる、と。
その敵がいる限り、自分は正しいままでいられるから、責め続けもするし
執着もしますよね。 なんとも、わかりやすい仕組みです。
本当にエックハルト氏は、なんでも解ってるんだなぁ~と、感嘆します。

そして締めにこれ。
”他者を批判したり非難したりすると、自分が大きく優れていると感じられるから。”
これは一般世間においていえば、人間関係の中でしょっちゅう見聞きすることですよねw
バリ活がアンチを叩くのも、アンチ創価がバリ活を叩くのも、同じ理由からでしょう。

余談ですが、昨年、創価脳ブロガーどうしが叩きあう、という実に面白い状況wを
見かけたのですが、両者ともに「ニュー・アース」を読んで欲しいと思いました。
御書をいくら学んでも、毎日のSPや・爺様の著書や随筆を何百冊wと読んでも、
残念ながらエゴに気付く事は、なかなか出来ないのです。
(私も創価脳時代、そうだったから人の事は言えませんけどw)
それどころか、宗教依存はエゴをますます強化していた・・というお粗末さでした。

それとかなり前にも書いたかと思いますが、アンチ創価の内であっても
「非活なんてぬるい。脱会してこそ一人前だ(?)」みたいなことを
言う人がいたりするようですが(呆)、そんな事はいうまでもなく瑣末です。
自分が自分に納得していればそれでよくて、自分と折り合いがついていれば
他人の事なんか実はどうでもいいはずなのに
何故か他者と比較・差別に持っていきたがるということは、やはりエゴがそうさせており
「自分が大きく優れていると感じたい」 のでしょう。
または、わだかまりから他者を攻撃する反応が出ていると思われます。

年始にも「脱会したいのに諸事情で出来ない」とのお悩みコメントにお返事記事を
書かせてもらいましたが、
いま悩まれている方は、悩まなくてもいいんじゃないでしょうか。
脱会なんかしなくても・非活(金銭供与なし)で全然問題無いと、私は思います。
気持ちが全くないのに「会員」でいつづけることが気持ち悪い!というのは理解できます。
が、それも「組織に属している私」というアイデンテティに抵抗するエゴだと俯瞰すれば
「どーでもいいな」って、思えてきませんでしょうか?!
「いまここ」に、非活だから・脱会していないからって問題は何もないはずです。
頭の中に「早く脱会したい!」って焦るようなエゴの声が渦巻いているだけの話。
あなたは、あなたでしかありません。

実際のところ「脱会した」って言えば、家庭訪問が無くなる・・メリットはその程度かと。
けど、地域の雰囲気によっては、脱会後でも訪問され選挙やSP購読を頼まれたりすることが
普通に在るらしいですよw 
なので、脱会で完全に地域の人から無視してもらえるとも言い切れない?!
「脱会」に何を望むかは人それぞれですが・・殊更焦らなくてもいいと私個人的には思います。
外野の声なんて気にしないでください、どうでもいいことです。

また、誰か(親)を理由に、脱会できなくて忌々しい・・とわだかまるのもやめることです。
実はそれ、誰かのせいではありません。 
自分が「親の手前、脱会できない」という観念を握っているから、です。
「脱会したら外野がうるさい・もめごとがおこる」という観念も、あるかもしれませんね。
その観念を変えさえすれば、明日にでも脱会届を出せます。
観念を変えるのは大げさなことじゃなくて実に簡単なことです、
「脱会しても何の問題もおこらない」と自分が決めるだけ。
が、無理しなくても、誰人にも「脱会にちょうどいい時」が、必ずやってきますから
気持ちが不安でハカハカしている間は、じっとしておけば大丈夫。
大切なのは何事も「いちいち気に病まない・問題にしないこと」です。

だいたい脱会して統監名簿落ちなんて、実際本当にしているかどうか
わかったもんじゃないなと、脱会してみて私は思うくらいでw
だっていまや貴重な「個人情報」ですよw 
こいつ脱会した、とマークぐらいはつけているでしょうが
データとしては消去なんかせずに、「脱会者リスト」的に、そのまま保存されていても
不思議はないかと。 
厳格な運用基準も、表向きは企業じゃないからなさそーだし?!
(もし本部関係者でこのブログをお読みの方がいらしたら、実際のところを教えて欲しいw)

話が脱線しましたが、元に戻します。

エゴが他人を必要としているその理由が、「わたし」をより強く認識するためだ という点。
承認欲求はその最たるものでしょうし、誰かを批判したり・誰かに憧れて
他者を見張り続ける事もそうでしょう。
「自分が相手より優れてる」「自分が相手より劣ってる」「あの人は不幸」「あの人は幸せそう」 
どれもエゴが生きながらえるための餌です。
そしてエゴが「わたし」だと感じているそれを存続させるためには、他者の存在が不可欠で
他者動向を逐一意識しなければ「わたし」の存在を感じられないなんて・・
本末転倒だと思いませんか?

「わたし」は、誰かと比べなくても・誰かに認められなくても「いまここ」に存在している。
当たり前のようで見過ごしていること。

「わたし」が自分の存在を認めれば、他者との比較なんていらなくなります。
誰かをうらやましがる必要もないし、誰かを強くこきおろす必要もない。

「(エゴがそうだと信じている)わたし」を確立するために、他人に目を向けてあれやこれや
思考を忙しく働かせている間、
ほんとうの「わたし」が置き去りになっていることに、「気付く」のが大事です。
誰か比較対象がいなくても「自分」は「いまここ」に存在している。
「気付く」には「自分を俯瞰で見る」。
自分の思考を、ただ見つめてみる・・どんな考えにいま自分が囚われているのか?
客観視してみれば、簡単に気付きを得られると思います。

他者に対しても、自分に対しても、わだかまらない為に目指すべき処は
「自分自身との調和」です。

以前も書きました通り「いまの自分と仲直り」 これが自分自身との調和。
自分に対して腹を立てたり・わだかまっているうちは、外に意識が向きがちです。
そしてまた自分を見失い、エゴのなすがまま、外側に不愉快を求め・不愉快に遭遇し・
不快な気分を味わい・それを色んな形で周囲にもまきちらすのです。

「自分自身との調和」について書きたい事はやまほどあって(追々述べますが)、
今回ひとつだけお伝えするなら
「他人がどうではなく、自分がどうしたいか・どうありたいか」を優先しましょうという事です。
もと創価脳の方は、たいてい生真面目で、周囲を思いやる・周囲の事を必要以上に
考えすぎる傾向があると思います。 取り越し苦労ってやつ。
自分の事より周囲の事が気になって仕方ない人も、多いような気がします。
でも、本当はもっと「自分本位」で生きて良いのです。
他者がどうだこうだ・・はおいといて、本当にいま「自分はどうしたいのか」
意外と、その視点で物事の選択が出来ている人は少ないかと思います。
かくいう私も、点検してみたら8割がたが「他人がこうだから」という理由で動いていたことが
昨年解ってぞっとしました・・そして、強制的に&徐々に、「自分がこうしたいから」という動機で
行動するように変えています。優先順位の1番を自分にしたのです。
すると、ストレス激減。
過去にめんどくさいなとか・本人がやればいいのに・・と思いながらも
「迷惑がかかるから」とか「子供が・夫が困るだろうから」なんて気持ちで私が動いていた事、
辞めるのは勇気がいりましたが、辞めたのです。
(いつでもかまわないとしていた脱会を、突然思い立ち実行したのも、
 自分最優先の一環でした)
すると全く問題無しで拍子抜け。物事が驚くほどスムーズに流れて行くのです。
自分を後回しにして、イライラしつつも必死に頑張ってたことはなんだったんだ?!と思うくらい。
これも「観念」と深い関係があって、まだそうともわからないものを勝手に自分が
「相手が困るだろう」「相手が迷惑だろう」と仮定で思い込んで・行動していただけの話。
実はそこになんの問題も生じていないのに、生じる前から取り越し苦労していただけの話。
自作自演だったのです。

創価では「師弟不二」が声高に叫ばれ、自分の命よりも大切な組織信仰やご本尊などと
叩きこまれ・自分を後回しにすることが当然でしたよね。
でもそれ、違います。今更だけど。

自分が一番大切なんです。
優先順位の一番は、自分で良いのです。
自分を生きることに、罪悪感を持たなくて
いいのです。

組織で長年叩きこまれてしまった、不毛で不幸な観念を入れ変えましょう。


(続きます)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

私を含め、福子で育った方の多くが「自分目線」より「他者目線」を意識しすぎたり・
自分がどうしたいかよりは、誰かの意見を優先してしまったり・
他人の気持ちを優先して自分を押し殺して行動や発言をする、
「他人軸」で生きることが当たり前になりすぎて「わたし」を失っていた(いる)傾向について
精神医学的に「こういうメカニズムだったんだ!」と、目からウロコがボロボロ落ちた本が
あります。
大嶋信頼さんの「それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも」という書籍で
昨年読んで、早く紹介したいー!と思いつつ、なかなか納得行く言語化ができず・・orz
私的にはトリハダもので、衝撃的だった本です。
次回更新で紹介します。

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ニュー・アース 第二章(8)

忘れられる「大いなる存在」

エゴはいつも自分と形を同一化し、何らかの形に自分自身を求め、
それゆえに自分自身を失う。
この形とは物質や肉体だけでは無い。外部の形ーモノや身体ーよりもっと基本的なのが、
意識の場に常に生起する思考の形だ。(中略)
気付いてみれば、片時もやまない頭の中の声があるはずだ。絶え間ない衝動的な思考の
流れである。その考えに関心を全て吸い取られ、頭のなかの声やそれに付随する感情に
自分を同一化してしまって、その思考や感情の中で自分自身を失った時、そのときあなたは
自分を形に完全に同一化してしまい、エゴの手中に落ちる。

エゴとは、「自己」という意識、エゴという意識をまとって繰り返し生起する思考の形と
条件づけられた精神・感情パターンの塊なのだ。

形のない意識である「大いなる存在(Being)」「私は在る(I Am)」という感覚が形とごっちゃに
なったときに、エゴが生じる。
これが自分と個々の形との同一化(アイデンテティフィケーション)ということだ。
つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するという
とんでもない幻想が、現実を悪夢に変える。
(p118-119)


「大いなる存在」=エネルギーであり魂と前回書きましたが、
”自分の存在(生存)の大前提”にあるもの、と言えると思います。
繰り返しになりますが、人は普段エネルギーそのものに余り目を向けていないというか・
その摩訶不思議の上に在る「生きている」幸いについて無頓着です。
なんもしなくても呼吸が続き・心臓が動いている不思議・奇跡に意識を向けている人は
そう多くないと思います。
状態が当たり前すぎて、ありがたいとか幸いだとか感じない・疎くなっている。
自分自身がエネルギーであることなんか知らずにいて、
形ある「何か」や「思考」に自分自身を同一化し、出来事によって巻き起こる感情思惑に
ただ振り回され 
まるで”思考”とそれがつくった「かたち」が、自分自身になっている。
実のところ、自分という存在は唯のエネルギー。
形として見えているものすべてが、いずれは消え去る「幻」だと知っていれば、
目の前の現象や物質に、過剰に振り回される必要は無くなるよ・・という、非常にシンプルで
深い教えです。

つまり「大いなる存在」を忘れるという第一義的な誤りであり、存在が個々の形に分裂するという
とんでもない幻想が、現実を悪夢に変える

とあるように、「私の家」や「私の身体」や「私の仕事」や「私の家族」や「私のお金」などなど、
「私」と紐つけた形態に対し執着を持つ状態は
「存在が個々の形に分裂するというとんでもない幻想」に当たると言えます。
これらに執着した結果、得られなければ/失えば、自分が損なわれた・終わったと感じること
=「悪夢」になるわけです。

この身体すら、「死亡」と医師に診断されれば、日本では火葬され骨と灰になる。
究極この生身の姿は「幻」となります。
私という存在は永遠のエネルギー体で、この世にあるとき「身体」という形をまとって
ここ(3次元)に存在しているように見えているんだ・・という事実を、頭のどこかで
認識しておくことも、エゴにうっかり惑わされない為には、良い心がけかもしれません。

日蓮仏法では「三世の生命」を説いていましたね、教学を少しでもかじっている人であれば
このあたりは容易に理解できるかと思います。
ただ、過去世→現世→来世の時間軸=日蓮仏法創価版が教えていたバージョンは
凝り固まっており、その解釈は宿業論や罰論の強化体系にすぎませんw
なので旧いタイプの時間軸はまるっと無視し
(過去も未来も「いま(現在)」にあります、「一念三千」は、このことを指しています。
 詳しくは後日書きます)
「エネルギー・大いなる存在は永遠のもの」と認識しておいたらいいと思います。

すべての理解にまさる安らぎ

人生のどこかで悲劇的な喪失に出会い、その結果として新しい次元の意識を
経験した人は多い。 持ち物のすべてを失った人もいれば、子供や配偶者を、
社会的地位を、名声を、肉体的能力を失った人もいる。
場合によっては災害や戦争によってあらゆるものを同時に失い「何も」残されていない事に
気付いた人もいる。それは「限界的な状況」と呼んでもいいだろう。
何に自分を同一化していたにせよ、何が自分自身という意識を与えていたにせよ、それが
奪い去られた、そこでなぜかわからないが、当初感じた苦悶やはげしい恐怖に変わって、
ふいに「いまに在る」という聖なる意識、深い安らぎと静謐と、恐怖からの完璧な自由が訪れる。
この現象は「人のすべての考えにまさる神の平安」という言葉を残した聖パウロには
なじみのものだったに違いない。確かにこの安らぎは筋が通らず、人は自分に問いかける。
こんなことになったのに、どうしてこのような安らぎを感じられるのだろう、と。
エゴとは何でどのように作用するかがわかれば、答えは簡単だ。
あなたが自分を同一化していた形、自己意識を与えてくれた形が崩壊したり奪い去られたり
すると、エゴも崩壊する。

エゴとは形との同一化だからだ。もはや同一化する対象が何もなくなったとき、あなたは
どうなるか?まわりの形が死に絶えた、あるいは死にかけた時、あなたの「大いなる存在」の感覚
「私は在る(I Am)」という意識は形の束縛から解放される。
物質に囚われていたスピリットが自由になる。あなたは形のないあまねく存在、あらゆる形や
同一化に先立つ「大いなる存在」という真のアイデンテティの核心に気付く。
自分をなんらかの対象に同一化する意識ではなく、意識そのものとしての自分という
アイデンテティに気付く。
これが神の平安である。あなたという存在の究極の真実とは、私はこれであるとか
あれであるとかではなくて、「私は在る」なのだ。
大きな喪失を経験した人のすべてがこの気付きを経験して、形との同一化から切り離される
わけではない。
一部の人はすぐに、状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや
思考を創り出す。この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に
自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化に
たちまちとって代わる。言いかえれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。
この形が酷く不幸なものだということは、エゴにとっては大した問題ではない。
良くも悪くも同一化できればいいのだ。それどころか、この新しいエゴは前よりもっと凝縮されて
強固で難攻不落である。

悲劇的な喪失にぶつかったとき、人は抵抗するか屈するかしかない。深い恨みを抱いて
苦々しい人生を送る人もあれば、優しく賢く愛情深くなる人もいる。
屈するとは、あるがままを受け入れることだ。人生に向かって自分を開くのである。
抵抗すると心が縮こまって、エゴの殻が硬くなる。あなたは閉ざされる。抵抗している時に
(否定的な状態の時に、といってもいい)どんな行動をとっても、さらに外部の抵抗に遭う。
宇宙はあなたの味方にはならない。人生は助けてはくれない。(中略)
抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。
そのとき行動が必要であれば、あなたの行動は全体と調和したものとなり、創造的な知性と
開かれた心、つまり条件づけられていない意識によって支えられるだろう。
状況や人々が有利に、強力的に展開する。不思議な偶然がおこる。
どんな行動も不可能ならば、あなたは抵抗の放棄と共に訪れる平安と静謐のうちに安らぐだろう。
それは神のもとでの安らぎである。(p122-127)


このパートを初めて読んだ当時、私の状況とぴったりで、「見てたの?!」と
思ったくらいw 驚かされたのを覚えています。
それほどエックハルト氏がエゴの構造を見事に言い当てている&私が完全に
エゴにとりつかれていた、ということです。
2015年末に「とある出来事」によって、義実家が資産を失う事が決定したとき、
強いショックを受けましたが、同時に私は平安を確かに覚えていました。
嫁ぎ先(=玉の輿といわれる事は自慢=アイデンテティの一つでした・・これはエゴ)が
不動産も人手に渡り・金銭的に厳しい状態に陥ることはエゴの崩壊にあたります。
そして、同時にやってきた平安とは、
前にも書いたと思いますが、義実家(4家族が泊まっても十分なスペースがある
家屋でした)が人手にわたることで(転居先は手狭)、
毎年恒例の年越し帰省がなくなる!という喜び&姑の金銭にものをいわせた支配が終わる!
(しかも、これらは崩れることなくずっと続くものだと私は「思い込んで・諦めて」いただけに
 ものすごいサプライズだったのです)
という安堵感でした。 

しかし、エゴのなんたるかも知らなかった私は、その後に発覚する「とある出来事」について
姑がついた嘘・新事実を知ると、今度は途端に「被害者」というアイデンテティにしがみつき、
自分がいかに不当な扱いを受けたか・従順に接してきたのに酷い仕打ちを受けたか・・と
恨みをもち、苦しむ状態に陥ったのです。
”状況や他人や不当な運命や神の行為の被害者という強力な精神的イメージや
思考を創り出す。この思考の形とそれが生み出す怒りや恨み、自己憐憫などの感情に
自分を強く同一化するから、これが喪失によって崩壊した他のすべての同一化に
たちまちとって代わる。言いかえれば、エゴはすぐに新しい形を見出す。 ”

もう↑まさにこの状態だったわけですw
その後、自分の中のおさまらない怒りの原因・根っこを見て行ったら
自分の姑への接し方に、創価時代の刷り込みが背景としてあったことが判明し、ビックリした・・
という話をこの記事に書いています。 
そして根っこがわかれば、どういうわけか怒り恨みの感情はサーっと引いて行きました。
自分が自分を解ってあげられたから、安心したのだと思います。

そしてこの構造は、アンチ創価で長く機能不全をおこす仕組みと同じだと気付きました。
「覚醒」によって、清く正しい組織の一員というアイデンテティの崩壊がやってきたとき、
ショックと同時に、安堵も生まれたと思うのです。 
それは誰にも見せないよう押し隠していた理不尽さが認められる・やっと日の目を見る、
長年自分が感じてきた矛盾違和感はやっぱり間違いがなかったんだ!という、晴れやかさでした。
もう意味不明の恥ずかしい各種活動をしなくてすむ!という開放感もありましたね。
しかし、「覚醒者」となって晴れやかすっきり~!で、
その後を何の引っかかりもなく歩むということが、まずない事は皆さんもご存じのとおりですw
(軽やかに進むことができた人は、エゴがとても軽い人だと思います。そういった方は幸いです)
今度は「アンチ創価」というアイデンテティにしがみつく。
創価のせいで私の人生を・家族を・青春をむちゃくちゃにされてしまったのだ!という、
被害者と言う強力な精神的イメージと「創価は社会の巨悪」という思考に占拠され、
倒さねば!許すまじ!と恨み憎しみを持ち続ける・・という状態を作りだしていました。

なにがそうさせていたのか、エゴがそうさせていたんですねw

だから、気付いた人は笑って手放せばいいと思うんです。
あー、私って・俺って、エゴにとりつかれてずっと怒ってたんだな~!テヘペロ、くらいにw
それが「俯瞰で見る」ということです。
エゴは、残念ながら完全になくすことはできません。
アンパンマンにおけるバイキンマンみたいなもので、呼んでないのにいつもどこからか
やってきて悪さをする・・そんな存在です。 
バイキンマンほど可愛いもんじゃない場合もありますがw
だから、「見つけた!」(気付いた)時は、さっさと追い払えばいいんです。
追い払っても隙を見てまた来るけどw その時はやっぱりまた追い払うのです。 
そう繰り返せばいつの間にか、悪さも可愛いレベルになっていくと思います。
あんまり大げさに考えないのが吉です。

いつまでも恨み憎しみを握り続けている必要はありません。
もちろんそれをライフワークとして・好きでやってる人の事は、いつものように止めませんw

ここで「創価は社会の巨悪、は正しい。間違いではない!」と怒りだす人もいそうですが
確かにそう思ってる人が大半で一般人もしかりです。
私も創価が「善」だとは思っていません。 
ただ「巨悪」だとまでは、最近思わなくなりました。
正直言うと「どうでもいい(存在)」です。
すくなくとも私の生活圏、自分の世界には全く不要なものなので
関知しない・採り入れないようにしています。

なぜ「巨悪」だとまでは思わないかと言えば、今現在も確かにその組織に救われている
(と信じている)人がいます。
イケダセンセーは素晴らしいって、心底うちふるえてるめでたい人だって存在するのです。
件の3人だってそうでしょう。生きる理由になってると思います。
そして私だって、覚醒前まで40余年、日蓮仏法創価版に救われていました。
これらはすべてリアルな話で、巨悪なんてみじんこも思わず、外界を知らず・
ただひとつを信じるが故に成り立っている(いた)「善」の世界が、今この瞬間にも
確かに存在しているのです。

何度も繰り返しですが
覚醒は「思考の背景」が変わったから、善だった世界が悪になっただけの話。
黒と白は、状況に寄りけりで、いとも簡単にひっくり返ります。オセロみたいなもんです。
私にとっての悪も誰かにとっては善だし、逆もあって、時と場合により変化する。
これを「高次から見て物事は中立」というのです。
ただそれだけの話だと、もう解ったらジャッジする必要がなくなりました。

エックハルトの言う「抵抗」はこの場合、「恨みつらみを握りしめる」こと・執着でしょうし、
「受け入れる」は「恨みつらみ、執着を手放す」ことに当たるかと思います。

恨み続けるのも、創価を殊更の問題とし・敵視&注視していくことも、エネルギーの消耗、
時間の無駄じゃないでしょうか?
お笑いネタとして楽しくヲチしている、または研究対象としてやってる方は別として・
各種情報を眺めていたって、憎しみからの目線では少なくとも
「楽しい・素敵な・いい気分」にはなれないと思うんです。
もっと他に見るべき対象が絶対ある。
自分を心地よく、楽しくさせてくれる対象がいくらでも。そっちを見る時間にあてたほうが
人生は有意義に・楽しくなることでしょう。

恨み憎しみ続けないとやっていられないんだよ!という人は、
おそらく「自分(や周囲)の不遇・不幸の原因は創価」にしておきたい方でしょう。
それはエゴなのですが、そのエゴから解放されない限りはずっとそのままです。
つまり「創価のせいで不遇で不幸な自分」というアイデンテティ下にある以上、
そのような現実ばかりを見聞きすることになりますし、
「創価のせいで不遇で不幸」なまま一生を終える事になります。
自分でその事に気付いて、思い込みを変えない限り、残念ながらそうなります。

前にも書いたと思いますが、思考は現実化します。
自分が信じていること(内面)が、今も目の前に現象として現れているのです。
だからよくよく、思考には気をつけないといけないし、
上記のようなネガティブな思い込み(観念)を持ち続けたまま生きる事は、賢明といえません。
(思い込みじゃない!事実だ!という人もたぶんいるでしょうが・・それがエゴなのですw
 詳しくはこの後に続いて行く章や、他の本の紹介で触れて行くつもりです。が、
 エゴに気付くための「今にある」実践を積み重ねる中で、自分の感覚・腑に落とさない限りは、
 いくら文章読んだって 理解できないかもしれません。)

わざわざ、不機嫌で不愉快な気持ちになる情報やニュースを自ら見に行ってしまう事が
いかに自分の魂にとってマイナスか・・それらを見ている時、自分の気持ちはほっとしているか・
幸せなのか・楽しいのか。チェックしてみることをお勧めします。
それらが思考を形作り・助長しているからです。
むかついたり、卑下するような思いを抱いたり、攻撃的な気分、その情報に触れることで
自分の恨みつらみ怒りを正当化しているような気分、ネガティブでわだかまるような感情であれば、
それは自身の内面・外面=生活にとって害でしかありません。
目の前の現実は、チャンネルを変えるのと同じで自分で切り替えることが出来ます。
自分で選べるのです
悩まれている方や、面白くないことが続いている・なかなか気分が晴れないという方は
ぜひ、自身がどんな情報に反応しやすいか・好んでチェックしているかを点検し
「観心」してみるとよいと思います。

手放すだけなんです、本当に。
簡単に言うなと怒られそうだけどw 
1%でも、そんなアイデンテティに自分を不幸にされてたまるかよ!と思った方は
是非に「ニュー・アース」を全編読んでみてほしいと思います。

第二章はこれにて終了です。次回から第三章に入ります。

ちなみに第十章まであるので、最後までたどり着くのは本当にいつになるやら
わかりませんし、私が途中で飽きてやめないとも限らないのでw
ご自身で一読されることを重ねてお勧めします。

(次回に続きます)


ニュー・アース 第二章(7)

内なる身体を感じる

身体への同一化はエゴの最も基本的な形の一つだが、ありがたいことにこれは
最も簡単に乗り越えられるアイデンテティでもある。
ただしそのためには、自分は身体ではないと自分に言い聞かせるのではなく、関心を
外形的な身体や自分の身体に関する思考ー美しい、醜い、強い、弱い、太り過ぎ、やせ過ぎー
から引き離して、内側から感じられる生命感に移す必要がある。
外形的な身体がどんなレベルにあろうとも、形を乗り越えたところでは身体は生き生きとした
エネルギーの場なのである。


内なる身体への気付きに慣れていないなら、しばらく目をつぶって自分の両手の中に生命感を
感じられるかどうか試してみるといい。
そのときは、心に聞いてはいけない。心は「何も感じない」と答えるだろう。
さらには「もっとおもしろいことを考えたらどうだい」というかもしれない。だから心に尋ねる代わりに、
じかに両手を感じる。つまり両手の中のかすかな生命感を感じるのである。
生命感はそこにある。それに気付くには、関心を向けさえすればいい。最初はかすかなちりちりした
感触かもしれがいが、やがてエネルギーあるいは生命感を感じる事ができる。
しばらく両手に関心を集中していると、その生命感は強くなっていくだろう。

(中略)

この「内なる身体」は、本当は身体では無くて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ。
できるだけしょっちゅう、内なる身体を感じる習慣をつけるといい。そのうち目を閉じなくても
感じられるようになる。

ところで、誰かの話を聞きながら内なる身体を感じることはできるだろうか。
逆説的ながら、内なる身体を感じている時には、実は自分を身体と同一化していない。
また心とも同一化していない。要するにもう自分を「形」と同一化せず、形への同一化から形の
ないものへの同一化に移行している。
その形のないもの、それは「大いなる存在」と言ってもいい。

それがあなたのアイデンテティの核心である。
身体への気付きはいまこの瞬間にあなたをつなぎとめるだけでなく、エゴという牢獄からの
出口でもある。さらに免疫システムも、身体の自然治癒力も強化される。
(p114-117抜粋)


「ニュー・アース」を1回目に読んだ時、軽い衝撃を受けた部分がこのパートです。

自分の「生命」「生命エネルギー」に気付いたことはおろか、関心を向けた事も
うまれてこのかた一回もなかった! ということにまず、自分で驚いてしまったのです。
それは未知の領域でした。
あたりまえすぎて考えた事もなかった、といいましょうか・・。
身体と・こころと・思考を個々の存在とし、切り離して捉えた事なんてまずなかったし・
そんな発想すらなかった頃でしたから。
「身体とこころと思考は一体」という認識(していたかどうかも今となっては?
あまりにも無意識)で生きていました。

グリーンで色づけした部分に書いてある事を、本を読んでさっそく実践してみたのです。
(注:中略部分にはエネルギーを感じるための簡単な手順がさらに書いてあります)

最初、まったくといってよいほど、手のひらの上に「感覚」がやってきませんでした。
手のひらを上に向けて、何かが湧き上がってくるイメージをしてみるも
うんともすんとも、何も感じないw
「私、ほんとに生きてる?」とw 自分に対し半信半疑になったほどでした。
自分の中に確かに流れているエネルギーというものを、知らなかったというか見ていませんでした。

もう少し後のパートには簡単な瞑想の方法が出てきますが、それをやってみた時に初めて
両掌が暖かくなって、熱が自分の身体から発せられている事を感じ取ることが出来、
「これが私の身体から発しているエネルギー(熱)なんだなぁ」と実感しました。
きっと、普段からヨガなり、ジョギングや水泳なり、呼吸に意識を向ける運動をしている方は
すぐにその「エネルギー」に気が付けると思います。 
そして「エネルギー」が、思考や身体とはひっついていない別個のもの、という感覚も
体感で理解できると思います。←この体感、めちゃくちゃ重要です。

「エネルギー」が身体という入れ物におさまってる、それが”いまここ”にある自分。
「エネルギー」は形を持ってない。
この「エネルギー」を「魂」と言い換えた方が、日本人的には解りやすいかもしれませんが
それこそが「大いなる存在」なのだと、エックハルトは教えています。
(「内なる身体」=「エネルギー・魂」=「大いなる存在」)

この「内なる身体」は、本当は身体では無くて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ
とあるように、エネルギー(魂)と入れ物(身体)は別個のものだ、ということを理解でき
切り離して捉える事があたりまえになると、
うつ病なんか薬が無くても治せると、私は思います。
身体というエネルギーの入れ物と思考とを結び付けすぎて、
さらには思考に振り回されすぎて・とらわれ過ぎて・偏り過ぎて
暗黒面ばかり(自分の思考に)見せられてしまうことが、うつ病の原因といっても
きっと過言じゃないでしょう。
「頭でっかち」という言葉のとおり、思考ばかりが優先して先走って、状況や周囲が見えず
自分の脳内が勝手に作り上げた暗いストーリー(思い込み)にどっぷりとハマりこみ、
心や体をなおざりにしているうちに、機能不全を起こした状態(=うつ)といえるのでは
ないでしょうか。

苦境・辛い状況や、思うに任せない状態って、
結局は「その時の頭の中身・思考状態」です。
思考の背景によって決定づけられるイメージともいえます。
もうだめかもしれないとか、諦め状態の時、先々の悪い想像や見通ししか浮かばない時、
結局それは「頭の中で自分が作り上げたストーリー」にどっぷりハマりこんでいる。
以前も書きましたが「高次から見て出来事は中立」です。
出来事は必要があって起きている、という視点を持っていれば、殊更ネガティブに陥った後に
自分で自分を追い込むような事には、発展しないのです。

たとえば事故に遭った、病気になった、盗難に遭った、子供が不登校、非行に走った、
その他もろもろ何か事が起きた場合に
「悪い事がおこった!」と即座に決めつけたり・思わないのが賢明です。 とはいえ
なかなか難しいところではありますが。
なぜならそれは(高次から見て)悪い事、ではないからです。
悪いことだ!と感じてしまうのは、これも前に書いたとおり「思考の背景」がそうさせている。
世間一般常識、経験則に当てはめてるからそう感じてしまうだけの話。
「災い転じて福となす」という言葉がありますが、一見災難のようにも感じられるその出来事が
思ってもみない好転反応をおこすことだって十分ありうるのです。
なので一瞬落ち込んだり、悲しんだり、怒ったり・・というわいてくる感情については受け止め
解放してやる(決して我慢はしない。感情の抑圧は鬱になりますから)
で、ひととおり怒ったり泣いたりすればスッキリしますよね。
そのあとが肝心で、決してその出来事に対してわいた「悪しき感情」に執着を持たない・
グダグダ頭の中でその出来事を増長させないのが、とても大事です。

「悪しき感情」への執着=エゴの仕業だと、早めに気づくことです。

概ねそのような出来事が起きた時は「立ち止まって、休みなさい」というサインです。
当事者にとってもだし、その出来事を見て右往左往したり・仏罰だ!なんてファビョってしまってる
傍観者のあなたに対してのサインでもあります。 
「問題」と感じずに「いま」に在ることが出来る人にとっては、上記は問題にはなりません。
前にも書いたとおり「問題」にした人には本当にややこしい問題になっていきます・・
先のことなんてどう転ぶかわからないのに、悪い想像しかできずに対応したことで
さらに事をこじらせたり、長期化させたりするのです。
「いま」に在るなら、先のことはどう転ぶかわからないから想起しない。
不安は思考が作り出しているんだ、ということに早めに気付く。
そして自分の心身が落ち着けるような対処をとる。
とりあえずお茶を飲むとか、その時食べたいものがあれば採るとか、
体温が下がってるなら暖かくする、座ったり横になって休むなど
身体のケアをする(これらは「現実逃避」ではありません。大事なことです)。
そうして内なる身体・エネルギーにまず意識を向け・充電すれば心も落ち着いてきて、
冷静に状況を見ることも出来るようになるでしょうし、
慌てている時は絶対に見えてこない「抜け穴」をあっさり見つけたり出来るものなのです。
「ない」と思っていたものが「ある」ことに気づけるのは、落ち着いている時だけです。
そして出来事は「過ぎて」いくものであり、次なる展開への布石なのだと解るようになります。
一見ネガティブに思える事が、実はポジティブを開く扉だった!という気付きになることだってある。
だから「出来事は必要があって起きている」という視点をもつことが大事なのです。

瞬時に「悪事だ」と決めつけず、「中立だ」とまずは捉え、
常に「いま」にあることが大事なのでしょう。
↑こういうことを、本当は宗教が教えてくれたら一番いいのだけど、
宗教団体の多くはビジネスだからw
儲からなくなったら困るんで、本当に幸いな生き方や物事の見方は教えないんですね。
教えるどころか、それ今が活動のしどきだぞ!新聞・票取り!なんて焚きつける。
いいように吸い上げて、団体側の養分にしてしまうわけだからorz
まったく困ったもんですw

頭の中がネガティブでいっぱいのとき、身体もなんだか元気をなくすし、心だって冷えてくる。
するとちょっとした「現象」を、ことさら悪い兆しのように見てしまったりする。
「思考」と「身体」と「こころ」が別個の存在だと知らない間は
ネガティブな思考に囚われ~紐つきになって身体にも不調をきたし~紐つきになってる
こころも病んでいく・蝕まれる・・といった、負の連鎖状態が完成しがちです。
先にも書きましたがうつ病などは、その代表格でしょう。

けれど、実際は「思考」「こころ」「身体」はそれぞれが独立している。
そのことをしっかりと認識していれば「思考」が作り出したネガティブに、こころや身体を
支配され・蝕まれる事はなくなります。
エックハルトが何故「思考を止める」提唱をしているのか、ここで生きてくるというか、
その意味を理解できると思うのですが、
「思考」が作り上げた悪夢の物語に、こころや身体を
飲みこまれないようにするため
 だと私は認識しています。

自分を苦しめたり、追い込んでいるのは、自分の思考だと「ただ」気付く。
苦しんでいる時も、追い込まれている時も、自分の中に静かに流れている
エネルギーに目を向け・気付く事は、重苦しい思考にとらわれた状態に
風穴をあける一助になると思います。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

ブログの趣旨を変えた頃(2016年6月~)より、繰り返し書いている事ですが、
創価の矛盾に気付いて、活動をやめたり・脱会した方は
出来るだけ早く、創価問題から離脱されることをおすすめします。

親や家族や友人がまだ学会員で・・という事で悩まれている方も多いようですが
それは、あなたの課題ではありません。
文字通り「親や家族や友人」当事者における課題(じゃない場合もあります、当事者が喜んで
やっているのなら、それは問題でも何でもありませんから・・)なのであって、
あなたは悩まなくていいんです。
考える必要も実はありません。
あなたが考えてもどうにもならない事は、ちょっと頭を働かせたらわかることだと思います。

で、自分以外の創価問題で悩んだり憤ったりわだかまっている方は
それ(他人の創価問題)がなぜ自分をそうさせているのかを、自身に問うていくことが
あなたの課題です。
その問題がどう自分の生活を脅かすのか、自分をどういった面で困らせるのか、
自分の生活の質を下げているのか?と、掘り下げてみるのです。
するとおのずと解決策が見えてきます。
「その問題に関わらなければいい(意識を向けない)」 これだけです。

自分の人生は自分のものです。自分を生きるのは自分だけです(あたりまえ)。
その人生を、誰にも明け渡してはいけません。
私たち福子は長らく、宗教団体やその団体の長に自分の人生を明け渡してきた。
その癖が抜けきっていないうちは、組織と離別を決意してもなお
他者(親家族含む)の事が気にかかって仕方ない。
「自分」をおいてきぼりにし、他者のことばっかり気にして躍起になったり執着する
傾向があります。
そうすること(他者の創価問題をなんとかしようとする)を「救済」のように思っている・
まだ目覚めない親家族を助け出さない自分は悪意の人みたいに思っている。
実際はただのおせっかいなのにw
そして、それが創価時代の「折伏精神」と何ら変わらないことに気付いてない。
(過去の私が、まさに上記タイプでした)

他者を変えようなんて、思わなくていいし、それは無理。
他人を変えることに満足を見出すーそれはエゴの性質だと知ることです。

真の満足は、自分が自分を認められたところにしか存在しません。
他者にわだかまるよりもっと前に、自分が自分を満足させてあげられることに注力する。
それが自分を生きるための早道だと、私は思います。

あと、組織の事をgdgd考えているその状態は、あなたの生活の質をたいして向上させないと
思うのですがw いかがでしょうか。

悩める方には自分の事、自分の生活を大切にしてもらいたいなーと願っています。

(次回に続きます)

ニュー・アース 第二章 (6)

身体との同一化

モノ以外に自分を同一化させる基本的な対象は「私の(my)」身体だ。
体はまず男か女だから、ほとんどの人の自己意識の中では男性であるか女性であるかが
大きな部分を占める。その性別がアイデンテティになる。
自分の性別への同一化は幼いころから促され、役割意識が植え付けられ、
性的な面だけでなく生活のすべてに影響する行動パターンを条件づけられる。
多くの人たちは完全にこの役割に囚われている。が、性別に関する意識が多少とも
薄れかけている西欧より一部の伝統的な社会のほうがその傾向は一層強い。
そのような伝統的な社会では、女性にとっては未婚や不妊が、男性にとっては性的能力の
欠落と子供をもうけられないことが最悪の運命となる。
満たされた人生とは性別というアイデンテティを充足することだとみなされる。
西欧では物理的外見的な身体が、つまり他人と比較して強いか弱いか、美しいか醜いかが
自意識に大きな影響を及ぼす。多くの人々の自尊心は肉体的な力や器量、容姿、
外見などと強く結び付いている。身体が醜いとか不完全だと思うために自尊心が委縮して
傷ついている人たちは多い。
(中略)

美しい容貌や肉体的な力、能力などと自分を同一化している人は、そういう資質が
(当然のことながら)衰えて消えていくと苦しみを味わう。それらの資質によるアイデンテティ
そのものが崩壊の危機にさらされるからだ。
醜くても美しくても、つまりマイナスでもプラスでも、ヒトはアイデンテティのかなりの部分を
身体から引き出している。もっと正確にいえば、自分の身体に関する精神的なイメージや
概念を間違って自分だと思いこみ、その思考に自分を同一化しているが、実は体も
他の物理的な形態と同じで、すべての形がもつー 一時的なもので結局は滅びるしかないー
運命を分かち合っている。
近くに感知される物理的な身体はいずれは老いて衰え、死ぬ運命に在るのに、
その身体を自分と同一視すれば、遅かれ早かれきっと苦しむ。

身体にアイデンテティを求めないということは、身体を無視したり嫌悪したり、かまわずに
放置することではない。身体が強くて美しく、背力的ならば、その資質をーそれが存続
するあいだはー感謝して楽しめばいい。
さらに正しい食生活や運動で体のコンディションを改善することもできる。
身体を自分と同一視していなければ、美貌が色あせ、精力が衰え、身体の一部や能力が
損なわれても、自尊心やアイデンテティは影響されないだろう。それどころか身体が衰えれば、
衰えた身体を通して形のない次元が、意識の光がやすやすと輝き出るようになる。

完璧に近い優れた身体をもつ人々だけが身体と自分を同一視するわけではない。
人は「問題のある」身体にも簡単に自分を同一化し、身体の欠損や病気や障害を
アイデンテティに取り込む。そうなると自分は損傷や慢性的な病気や障害に「苦しんでいる者」
だと考え、人にもそう語る。そして障害に苦しむ者、感謝という概念的なアイデンテティをつねに
確認してくれる医師その他から多大の関心を獲得する。
すると無意識のうちに疾病にしがみつく。それが自分の考える「自分自身」アイデンテティの
もっとも重要な部分になるからだ。
それもエゴが自分を同一化する思考の形の一つである。エゴは一度発見したアイデンテティは
手放そうとしない。驚くべきことだが、より強力なアイデンテティを求めて、エゴが疾病を
創り出すことだって珍しくはない。
(p109-114)


以前「外付けパーツ」の話を書きましたが、今度は「身体(生命の入れ物)」について。

体型や肌の色、髪の毛の有無、美醜といったものもやはり「外付けパーツ」であって
「わたし」そのものではない。
年齢を経れば変化していくし、環境によっても左右される。
中略した部分に拒食症のことが書かれているのですが、若い女性が見た目を異様に気にして
行きすぎた食事制限をすることも、エゴに取りつかれた状態であると書かれています。
誰かと比べて自分をいじめるような事は、生命そのものを傷つけているようなもの。
エゴって、地獄からの使いみたいなもんですw
あるがままをまず受け入れる・自己肯定のためには、
自分が生かされている奇跡と幸いについての「気付き」「意識」が必要であると思います。
ダイエットをしたり、自分磨きするにしても自己否定から入れば欲求は尽きません。天井知らずです。
美容整形を経験した人が、一か所では済まずに「次は豊胸」「もっと鼻を高くしたい」etc
止まらなくなるという話はよく聞くのですが、これも命ある幸いを無視した・自己否定が
ベースにあるからなのでしょう。
まず、命あることが幸い。この身体(生命の入れ物)を授かっていることが幸い。
そう心から感じていれば、自分の身体とも仲良く出来ると思います。
(べつに整形を否定している訳ではないのです。
エゴにとりつかれて顔面崩壊するのは怖いよね!ほどほどにしようね!ということで。)

また肩書きや社会的地位の前に、男性であるか・女性であるかということもアイデンテティに
含まれており、女性も男性もその「性」にまつわる事柄において
比較や格差を感じることによって、執着を持ってしまう傾向について述べられています。
男女ともに、「恋人」や「結婚相手」がいないことに不足を覚え、周りの目が気になったり・
自分はおかしいのではないかとわだかまったりすることは、大いにあると思います。
また、結婚すると今度は「子供」がいないことに不足を覚えることもあります。
それらが(恋人、結婚相手、子供)ないと、自分は「完璧になれない」「完成されない」
「(女や男として)完全ではない」という不足感や欠乏感からくる苦悩は、エゴの仕業です。
そんなものがなくても、いのちある時点で完全なのです。

基本的な捉え方として、自分vs外界(周りの世界、世間)を比較で見ない事が大切なのだと
思います。 
他との比較で見てしまうと「あれもない」「これもない」となって、自分自身の生命の尊さ・
呼吸が続いている奇跡、幸いをまるまる見失うからです。
また「あいつよりは持ってる」「恋人いる・結婚してる・子供居るから自分の方が上」というような
「下見て満足」も、エゴに取りつかれている状態です。
それらはやっぱり「外付けパーツ」であり、状態は一定ではなく変化し、いずれは失います
(別れ、離婚や死別、自分の寿命)。
言うまでもなくそれらの有無は人生の幸、不幸を決定づけるものではありません。
いろんな生き方があって良いのだから、他との比較で矮小になる必要なんかないんです。
このブログを読んでいる若い人で、恋人がいないとか、結婚が出来ないから「自分はだめだ」とか
「自分は劣っている」ように思う方がもしいたら、何故恋人がほしいのか・結婚がしたいのかを
自分に聞いてみましょう。
「世間体が・・」「周りが・・」「自分だけ独身は世間に対して恥ずかしい」
というのであれば、恋人ができても結婚出来ても、次なる不足感や不満足がおそらく来ます。
外の世界(一般世間)との比較をやめない限りそうなります。
エゴとはそういうものだからです。
恋人がいなくても、結婚相手がいなくても「いま」私には生命があり、呼吸の連続と言う奇跡もあり、
幸いで不足はない、とわかっていれば・
そうして自分にわだかまらずに、自分と仲良くできる人のところに縁はやってくる、と私は思います。
または縁がこなかったとしても、人生が楽しい驚きに彩られていくでしょう。
なぜなら自分の内面が、心模様が、外の世界を作り出し目の前の現実で見せてくれるからです。
それを解りやすく教えてくれているのがバシャールで
「鏡は先に笑わない」という有名な一節があります(バシャール 鏡でぐぐると出てきます。
引用すると長くなるので、興味のある方はぐぐって読んでください)。
自分自身の内面世界が映し出されるのが、目の前に広がる現実だということ。
内面が変われば、少し遅れて目に見える現実も変わっていく。
環境に左右されるのではなく、まず自分の心状態ありきという法則です。

そして身体にとって「病気」さえアイデンテティという、驚くべき指摘。
”エゴは一度発見したアイデンテティは
手放そうとしない。驚くべきことだが、より強力なアイデンテティを求めて、エゴが疾病を
創り出すことだって珍しくはない。"


エゴは「かまってちゃん」なんですよね。
ここを読んで「うわっ・・思い当たる節ありまくり!」と怖くなってしまったのですが、
私の母は数年前(まだ猛烈創価脳だった時)国の難病指定疾患に罹りました。
現在も認定患者で、薬代や治療費の助成金を頂いております。
当時はどうしてそんな病気にかかったのか?さっぱり意味がわかりませんでした。
遺伝的なものもある、とネットサイトに書いてあったのですが、母の親族にその病気に
罹った人は誰もいません。
「ニュー・アース」を読んでエゴの構造を知るうちに、そういうことか!と合点がいったのですが
母は常々「自分は他人とは違う」という意識を強く持っています。
私は特別なんだ、という意識です。 
いいことに対しても悪い事にしても「私は特別」を発動させていました、大昔から。
それが日蓮仏法に紐ついた選民思想の軸にもなってると思います。
病気になりたいと願ってた訳ではないと思いますが、人生の仕上げという時期に来て
「難病認定」をもらうという、「私は特別」だと思いたい・アイデンテティがいつでも欲しいと願ってた
母にとってはある意味、宇宙からのギフトと言えるかもしれません?!
なぜなら、そのこと(難病認定)を自慢のように周囲に語っているからですw
「難病認定もらってるけど、私こんなに元気で活動的なの!海外旅行もいっちゃうし~」的な。
そしてそれを「信仰のおかげ」と胸張って言う、まるで勲章みたいなものになっているんです。
強い痛みや不定愁訴、手術やいつ終わるか解らない治療投薬を伴ってでも、
手に入れたかった(?)「難病患者」というアイデンテティ。
これを「願兼於業」と呼ぶんだなぁと、その言葉の意味するところがやっと納得できました。

学会員の方々にも、聞いたことないような難病に見舞われている人が多くいることを
SP紙上で皆さんもよく目にしていたかと思います。
また、私が以前居住していた地域でも、ある婦人部員の子どもさんが兄弟そろって心臓疾患で
幼い年齢の頃、連続で大手術を受けていました(=同盟題目お願いしますメールが来て
そのことを知りました)。
思い返せば、知ってる学会員の方でも難病にかかっている人・九死に一生を得るような
大事故で障害をおった方などなど普通に組織にいました。
いま、まったく学会と無関係の世間に身を置いてると、そんな人が誰もいないんです。
偶々なのかもしれませんが、見事に居ない。
これが何を意味しているのかといえば、学会員の多くは「難を乗り越える信心」という
思い込み(=刷り込み)ありきで生きています。
信心で困難を乗り越えること=学会員のアイデンテティ。
辛いことを乗り越えるための信心なので、辛いことや難問が必要・セットになっているのです。
いわば信仰、学会活動のモチベーションが、難病や諸問題。
辛い事も難問も無いのなら、信心なんかしなくていいのだから。
「こんなに辛いことや難病ありましたが、信心のおかげで乗り越えて生きています!」
難病や諸問題は、アイデンテティ充足のために必要不可欠なのです。
願って災いを受けているような感じが、しないでもありません。
私が女子部だった頃、100万遍唱題が課題のひとつにあって皆でとりくんでいましたが
なんでこんなに不幸がおこるの?!と思ってしまう状況が、自分にも周囲の挑戦者にも
ありました(この記事に書いています)。
当時はその原因がわからず「魔が競ってるから負けないように闘おう!」なんて
励ましあっていましたが・・なんのことはない、自分たちで難を引き寄せていたのですねw
今更だけど、すっごく合点がいきましたw

こんなことを書くとお叱りを受けるかもしれませんが、信心しても一向に幸せにならない・
何も上向かない・良くならないって方は、おかしな思い込みを握っているからそうなっていると
気付いたほうが良いと思います。
「幸せになったら、上向いたら、良くなったら困る」って、潜在意識が働いている可能性が
あります。
「幸せになったら、良くなったら、信心や活動をさぼるようになってしまうかもしれない!」
「天界に魔は棲むっていうくらいだから、幸せになったら堕落するかもしれない。
 だったら不幸なくらいがちょうどいい!」
という、無意識下の自作自演です。

またこれは、特定宗教を信仰していない一般人にだって言えることです。
願いがかなわない・・と言う時、必ず無意識下で「その願いがかなうと困る(ことがおきる)」
という、相反する思いを握っている可能性があります。
疾病で言うなら「病気が治ったら周囲にかまってもらえなくなるかもしれない」し、
恋人がほしいなら「自由を奪われるかもしれない」など。
お金がほしいも「人にねたまれたり恨まれるかもしれない、盗難に遭うかもしれない」
その願いが叶うのと引き換えに、今のポジションを手放さなければならない・
危険にさらされるかもしれない・・そんな思い込みがブレーキをかけて
「不足」の現状を維持するという、これはエゴの仕組みだそうです。

また、その願いや願望が叶わないから「自分はダメなんだ」「劣った人間だ」というように
その願いがかなわないことを「自分責め」の材料にしている間は、願望が達成されることは
ありません。仮に達成されたにしても、すぐまた別の「不足」「不満」が生じてきます。
いったい何故なのか、「自分責め」はエゴが生き延びるための餌だからです。
エゴが居場所や目的を失うことを究極に恐れていることは、これまでもエックハルトが
教えてくれた通りです。

自分が「完全ではない」「不幸である」「不足している」「十分ではない」という思い込みが、
いかに恐ろしいか、上記の例で解っていただけるでしょうか?
もと創価脳の方なら、理解できると思うのです。

生きているだけで、呼吸の連続という奇跡を「いま」体験していることで
自分がいかに幸いな存在であるか、もう認める。
だって本当にそうなんだから。
この「生きているだけで丸儲け」がベースにある人生が、ないものねだりや青い鳥探しに
陥らないことは明白です。


(次回に続きます)


2017年 ご挨拶

本年もよろしくお願いいたします。

すでにご報告した通りですが、2016年内に内容証明を発送+地元会館への連絡を通じ
脱会手続きを完了しました。
細かい話は、後日書かせていただきます。

今年のお正月も自宅で迎え、初詣は氏神様と一の宮神社へ出向きました。
帰省は2泊3日と短めの中、
初めて、自分の産土神社へ行くことが出来ました。

このブログを読む大半の御方が、創価家庭に育った人という前提のもと
「産土神」を説明しますが、自分が生まれた時に住んでいた土地を護っている
氏神様のことです。
私は福子ですから、お宮参りなんて当然していないわけで(汗)、
実家方面の神社についても全く知識なく・まず足を踏み入れたことがありませんでした。
昨年友人から「産土神参りもすると良い」と聞かされ、興味を持ち、調べたのです。
神社の名前を知って驚きました。単なる偶然ですが、私の現姓(苗字)と
同じ名前の神社だったからです。
なにか不思議な御縁を感じ。
参詣し、生まれてから今日まで生かして頂いたお礼を述べてきました。
それほど大きな神社ではありませんが、歴史は古く、多くの参拝客でにぎわい
地域の方々に崇敬を受けている様子がよく解りました。
そして子供たちのお宮参りも、実際の(居住地の)氏神様ではなく、主人の氏神様で
してもらったので、改めて先日、子供たちを連れて産土神へ参詣に行きました。
(注・絶対そうしなければならない、というものではありません。単に気の問題です)
今年は遠方に在る父方の親戚筋の神社へも、正式参詣する予定でおります。

さて、話は変わりますが、前回の記事に対して1件の質問コメントがありました。
非公開希望のコメントには返事をしないというのがマイルールですが、
この質問(疑問)は、多くの人が立ち止まっている個所かもしれないと感じたので
こちらで回答いたします。

その方は親御さんが強固な創価脳でお悩みとのことで、御自身の脱会を許してもらえないし
親御さんが組織を信じ切っていることがもう耐えられない。他人事だなんて放置はできない。
親と縁を切ってまで脱会する気はないし、親をほっとけない。
親と同時に脱会出来たら一番いいが、どうしたらいいのか?ということでした。
年代が書いていなかったのですが、たぶん成人した方だとおもいますのでその前提で
お答えします。

脱会については、してもしなくても、あまり変わらないと思います。
気の問題というか、地域の学会員が来るからうざいっていうのであれば
「脱会の意思がある。絶対訪問禁止・来たら弁護士に相談しちゃいますよ」くらい言いましょう。
あくまでも事務的に対応。まちがっても愛想なんてふりまかないでくださいw いい顔したら
つけあがることは、皆さんも知ってのとおりです。
訪問はスルーしているが、チラシを入れられて気持ち悪いとかむかつく、というのであれば
それは他のチラシ同様「ただの紙片」ですから、感情をはさまずにゴミ箱へ捨てましょう。
「創価関連のもの」って思うからわだかまるんです、多分。 
気持ち悪がったり・ムカついてる感情はあなた自身ではなくエゴですから、惑わされないでください。
暫くその感情を観察してみればいいのです、決して感情にとらわれないように気を付けてください。
これでひとまず平穏は保たれるはずです。
で、学会員のことはきれいさっぱり「忘れて」ください。
また来るかも、いやだなとか、意識するから来る(引き寄せる)んです。これは本当です。
そして脱会を本気でしたいのであれば、なにも親の許可はいりません。
気の向いた時に本部に内容証明を送りましょう。
親と同時に脱会するつもりなら、その時がやってくるのをただ待つしかないと思います。
親に働きかけることは何もしなくていいと思うし、あなたはあなたを生きていれば
自然とその時が来るかと思います。

こちらから逆質問をしたいのですが、
親御さんが脱会すればあなたの機嫌は直るのでしょうか?
親御さんが自分の思う通りになれば、あなたは幸せなんでしょうか?

その逆を、親御さんがあなたに望んでいる現実についてどう感じますか?
(=活動家として頑張ってほしいと思われている)
其処に矛盾が生じてくることに、気がつきませんか?
「創価がまちがってて悪だから、こっちが正しいから親に気付いてほしいだけだ!」
っていうのも、その逆を親御さんが望んでいる現実について考えてみてください。
互いの利害が一致しない以上、どこまでいっても平行線ですw
高次から見て、物事に良いも悪いもないのです。
そこを知っておけば、思考の背景が各自違うことが理解できていれば、
誰かを自分と同じ考えにさせようなんて、高慢な発想にはなりません。

私もそうだったからわかるのですが、私たち学会2,3,4世で
一瞬でもまじめに学会活動に取り組んだり、学会員として信仰活動してきた人間のほとんどは
そうすることで「親の機嫌を取ってきた」経緯がある。
その自覚は誰人にもあると思います。
(中には、親はたいしてやってなかった未活だったけど、家に女子部や男子部が訪ねてきて、
 自ら活動家になったってパターンの方もいるかもしれませんが)
たぶん親から勤行や信心のイロハを教わった人たちは、「それで親の機嫌を取ってきた」んです。
少なくとも、そうする(活動)ことで親が上機嫌になることはあっても、
不機嫌になることはなかったはずです。
(注:親子関係を夫婦間におきかえてもらっても、いいとおもいます)

親の機嫌を取ってきた私たちは、活動をやめたり脱会(決意)することで、
もう親の機嫌を取るのをやめました。 いわば自立、親離れです。
大人ならば、そこで終われるはずなんです。 自分は一人の人格者として、活動を拒絶した。
信じるに値しないって思って離れた。 それでいいんですよ、それだけで。

ここでさらに「親にも創価をやめさせたい」っていうのは、実は子供のわがままですw
大人になりきれてない、子供の側からの「駄々っ子」です。
「私もいい子にして従ってきたんだから、お母さんお父さんも応えてよ!」っていうアレです。
気付いてください。 私も長らくそれをやってました!(お恥ずかしい)。

そして親もりっぱな大人であり、一人の人格者として創価を信じています。
それがどんなに子供の側から見て間違いで・くだらなくて、腹立たしい事であったってw
親はそれを、人生をかけて信じている。
嫌だったら、少しずつでも離れて行っているはずです。嫌じゃないからついて行ってる。
一寸は楽しいのかもしれないし、心の支えかもしれないし、功徳を感じてるのかもしれない。
御近所づきあいの一環もあるかもしれないし、親子とはいえ自分以外の他人の心の中なんて
はかりようがありません。 
盲目状態で目覚めないのには、それなりに理由も条件もあるのです。
かつての自分たち(活動家からアンチへ転じた、離れた)と同じように、です。
だから、そんな「他人ごと」にわだかまるだけ時間の無駄です。
そんなこと考えていらつく暇があったら、自分の機嫌を取ってください、全力で。
好きな飲み物をのむもよし・おやつをたべるもよし・マッサージに行くもよし・好きな音楽を聴き
リラックスするのも・DVDを見たり・好きなマンガを思いっきり読むもよし。
好きな場所へ行ってのんびりぼーっと過ごすとか、欲しかった物をひとつ買うとか、
出来る範囲で、なんでもいいので気分を「上機嫌」に変えましょう。
嫌な気分を引きずるのも良くないし、我慢するのも良くないから「気分転換」してください。

親が創価脳である現実は、文字通り「親」のものです。
あなた自身とは関係がありません。
(このあたりのことは「ニュー・アース」を読めば簡単に理解できると思います)
あなたが親の「現実」を気にするから、それが自分の世界に入ってきて、うっとおしい事になって
いるだけです。 
(親とか他人だけではなく、創価組織そのものも、あなたとは関係がありません。
 創価の「現実」を気にするから~以下、上記と同文)
そしてそれをさせているのは(繰り返しですが)エゴの仕業です。
エゴは問題を作り出したいし、わだかまりたいし、悩みたいんです。
自分が幸いな人であるという事実をそう簡単に認めさせようとはしませんw
エゴとは、そういうもんなんです。 だからみんな、問題でないことを問題にし・悩みにし・
不平不満を抱えて最終的には宗教にハマるんですw
詳しくはこれから先「ニュー・アース」の続章で書いていきますが、上記エゴの動きの基本を
覚えておいたらいいと思います。

自分以外の人に、自分のご機嫌取りを求めるのはやめましょう。
今更親や他人に、自分の機嫌を取らせようなんて、思わないほうが賢明です。
相手に求めてるうちは、安定感もないし、幸せをいつまでも探し続けることになります。
「親の脱会が自分の幸せ」なんて、幸福に条件をつけているのは、エゴの仕業です。
他人のことはほっといて、自分が「いま」安らぎを感じられることに全力を傾ければいいんです。
自分の機嫌は自分でとるのが一番です。

「ニュー・アース」にも書かれているのですが

エゴには他者が必要なのだが、しかし深いところで他者を憎み恐れているという
ジレンマがある。(中略)
あなたのなかのエゴが強ければ強い程、人生でぶつかる問題は誰か他人のせいだと
思うはずだ。
それに、きっとまわりの人たちに生き難い思いをさせているだろう。
もちろんあなたはそれに気付けない。いつも苦しめられているのは自分なのだ。
(p246抜粋)


「他人に嫌な思いをさせられている、人生を狂わされている」と思っている人は
自分の人生を生きていない・・我慢ばかりして、勝手にネガティブな思い込みで見通しを
悪くして、自分が自分をつかまえていない(「いま」にない)状態で、
他人の動向ばかりを気にして・自分がどうしたいかよりは、他人の反応ばかりを憂慮している・・
まさに、エゴに振り回されているパターンだと思います(それが、以前の私でした)。
ここが解ったら、すべては独り相撲だった!ってことに気づいて、脱力するし笑えますよ。
そして自分が自分に優しくなれれば、しっかり自分をつかまえて「いま」に在れるようになれたら、
目の前の現実も優しい・穏やかなものになっていきます。

今年も「ニュー・アース」を通して、私の経験や思った事を交えながら
わだかまらない生き方をお伝えして行けたらと思っています。

皆様にとりましても、自分史上最高に面白い2017年になりますようにv


2016年 感謝

今年も、拙ブログをご覧いただきありがとうございました。

2016年は私にとって、大転換期でした。
ブログの路線も、6月以降大きく変更しましたが
それでも読み続けてくださる人が沢山いらっしゃった事が、嬉しかったです。

今年に入ってエックハルト・トール氏の書籍を読み、その叡智に触れ気づいたのは
「創価脳もアンチ創価も、自分責めという一点において根っこは同じ」だという事でした。
だからずっと腹を立てているし、わだかまってるんだなーと、そのメカニズムを理解しました。
そして概ね「自分」をみていない。
他人の事ばっかり気にして、他人のことばっかり問題にして、心配したり不安になったり
軽蔑したり腹を立てたり、イライラし続けている。
私も以前はそうだったので、気持ちはわかるのですがw

エックハルト・トール氏の語る「今にある」状態とは、どういうことなのか?
4月以降、思考を止める(~とエゴが申しておりますと思考の語尾に付ける)ことから始まり、
副読本に津留晃一さんやバシャール、心理学者の大嶋信頼さんの著書を読んだりして
自分なりに理解を深め・実践してきました。
そうして徐々にわかったのですが、
「今にある」状態とは一言でいえば「調和」です。
「自分自身にわだかまりのない状態」です。

それでブログタイトルを「わだかまらない生き方」に変えました。

ブログ拍手やコメント欄からお悩み、質問を頂く中で、思い当たったことがあります。
全てに繋がることですが「自分」がどうしたいのか明確になってなくて、「他人」ありき。
「いま」にない事を問題としている方が多いな、と感じました。

ニュー・アース記事のなかでも書きましたが、「いま」困っているかいないのか。
「いま」問題としていることが、どう自分を苦しめているのか、いやな思いにさせているのか
わだかまりを生んでいるのか、ちょっと立ち止まって解析してみると良いと思います。

なんにでも言えることですが、このブログはもともと創価の家族問題を扱ったものでしたから、
「わからずやの創価脳な母親・父親・身内・外野」で例えてみましょう。

お父さんが「信心しないお前なんて無価値」だという から むかつく。
お母さんが私に悪事が起きると「それみたことか、題目あげろ」という から むかつく。
両親が今年も財務で3ケタをおさめた から むかつく。
バリ活の兄姉妹弟が「信仰から外れるなんて堕地獄だ あとで泣きを見るぞ」という から むかつく。
組織の人が「あなたのためを思って言ってる」「罰が当ってからでは遅い」と引きとめる・
しつこい家庭訪問をやめてくれない からムカつく ←はっきり「迷惑です来ないで下さい」と伝えましょう。
バリ活ブロガーが組織をたたえるような駄文を書いている から むかつく。
大本営の先生会長職員どもがシンプルにむかつく。

私の今の想像力では上記くらいしか思いつかなかったんですがw パンチ効いてなくてすいません。

で、これ青文字が主語なんですけど、気付かれましたでしょうか。
ぜんぶ「他人」に反応してるんです。
「わたし」じゃありません。

「他人」がやること話すこと(=客観的事実)に対して
「わたし」がむかついてるんです、勝手にw

これを「いま」にあてはめて考えるとき、
嫌な思いを「他人」からさせられている、と感じる底の部分・
反応(イライラざわざわむかつき)のトリガーを見てみれば
たった「いま」問題ではないと気付くことができると思います。
だって、原因は「他人」だから。
で、「わたし」が勝手に「他人=外側」に翻弄されてイライラしているだけの話。
他人=外側に翻弄されてイライラ」しているのは、まぎれもなく「思考(エゴ)」だから。
そして「思考(エゴの声)」は「わたし」ではないから。
「いま」=「わたし」は、実はなにも困ってないって、これで解ると思います。

(↑ここで「でもでも、だって~!」とゴネ始めるのも、
 あなたの底の部分にある原因が織りなす「エゴの声」ですから無視してください)

で、反応(イライラむかつきざわざわ)のトリガーとなる、底の部分にあるものは、
9割がたが「自分への罪悪感・無価値感」です。

元創価脳の方は、創価脳だった頃は「使命感」に燃えて生きていたと思います。
自分が誰かを幸せにできれば、誰かの心に灯をともせれば、
小さな事柄が大きな連帯となり世界も平和になって
ひいては自分も幸せになれるって信じて頑張っていたと思います。
「崇高な使命感」ありきの、自分だったと思います(=私もそうでした)。
それがいったん、打ち砕かれて、野に放たれて「役に立てない自分は価値がない」と
無意識のうちに、思ってしまってる人もいるかもしれません。
また、色んな意味で絶望を感じ、「自信」を失った方も多いと思います。
あれだけ長年創価を熱く語り、正義だと周囲に訴えてきた自分があっさりそれを裏切った、
そんな自分は罪びとだ、と無意識に思ってしまってる人もいると思います。
「自分が悪い」と思っているんです。
「自分を責め続けて」いるんです。

そうは言いつつも自分を悪者にしたくないから、
創価や身内を憎んだり攻撃しないと、やってられないという複雑な「仕組み」です。

親兄弟が創価をいまだに信じていることが腹立たしくてならない、気になって仕方がないのは
自分が罪悪感を手放せないからです。
(親を裏切った悲しませたという罪悪感と同時に、福子であるがゆえトンデモ教義を信じきって
 しまった自分への処罰感情などなど)
創価関係者の外野に気分を乱されたと感じるのも、罪悪感が根っこにあるからです。
関係者の動向が気になって仕方なく、監視&批判し続けないといられないのも
罪悪感が根っこにあるからです。
それをきれいさっぱり忘れてなかったことにするなんて、できません。
だって「そうして創価や身内や外野を責めている自分」がアイデンテティになってるから。
それを失ったら、立っていられないって「思いこんで」いるんです。
誰が?エゴが、です。 エゴは放下に耐えられませんから、ネガティブを絶対手放そうとは
しません。存在意義を失うことを、世界一恐れているからです。

で、果たして本当のあなたは悪人・罪びとなのでしょうか?
そうだと思い込んで、勝手にそう決めつけているのは、
実は自分(あなたのエゴ)ではないでしょうか。
(親・身内から言われた等あるかと思いますが、それは外野の声なので無視してください。)

「周りが・親が・あいつが悪い!」と思っている間は、残念ながらなんにも変わりません。
なぜなら、それは巧妙な「自分責め」だからなんです。
「自分が悪い」をこじらせて周囲を責めている。解りにくいんですが、本当です。
続ければむしろ、自身を取り巻く環境はどんどん悪くなっていきます。

エックハルト氏が「ニュー・アース」で教えてくれているのは、
自分が「生きている」それだけで完全で完璧な存在であるという、
根源的に満たされている真実に気づく
ことの大切さです。

エックハルト氏が提唱する「思考を止める」とは、一番てっとり早い「自分責め」を
止める方法です。
無意識に四六時中なされている頭の中のダメ出しを止めるわけですから、効果絶大です。
前々回記事でも触れたように、
私たちは誰人も「大いなる存在」に生かされています。
そして何があっても、生きて呼吸が続いている間は
「大丈夫」なんです。
あなたの存在こそが「大いなる喜び」です。
そこになんの条件も理由もいりません。
この絶対的な生命への信頼感を、まず知ってほしいと思います。
 
生かされている、その奇跡と幸いの前に、責められるべき理由なんて何もありません。
そして何かを成さなければ・役に立たねば無価値だということもないのです。
(自分の思考が勝手に評価を下しているだけです)
誰人も生きているだけで、根源的に満たされています。

そして、周りに影響を受け・翻弄されているうちは、なかなか心は安定しませんし・
「わだかまらない」で過ごすことはまず困難だと思います。

どうしても人というものは、外側の現象ありき・目に見える状態(現実)ありきで
「自分が祝福され・認められて此処にいる存在か」を判断しようとします。 
実際それがわかりやすいですしね。
けれど、外側や他人に「祝福の証拠」や「幸せ」を求めているうちは、不安定なわだかまりの多い
生き方になりがちです。
外側や他人の承認という「条件」がなければ「幸せ」で「満たされ」ていられないのなら、
それが無くなったら不幸や不安・欠乏感に陥るのは明白だからです。
この記事でも書いたように、上記は「外付けパーツ」です。

結局は「自分が自分を認め、励まし、肯定し、自分を心地よくいさせる」ことにしか
揺るがない調和はありません。 他人や周りは全く関係ないのです。
「いま」にあることの真髄は、上記太字部分だと思っています。

自分が自分と調和出来ていれば、満たされていれば、周りのことはほんと全く気にならなくなりますよw
面白い程です。
そして、周囲の人間の状態は、あなた自身の幸・不幸には全く関係ありません
勝手に他人の現象を見て引っ張られて「不安」や「不幸」を感じるだけで、実際は「凪」です。
(だから親兄弟が創価脳でも、あなたが悩む必要はありません。
 あなたがそのことを一切問題にしなくなったとき、勝手に親兄弟は目覚めます。)
自分が自分の内面を、なだらかなものにできた時、現実や環境もなだらかで心地よいものへ
自然と変化しています。 

とりあえず、周りのことは忘れて棚に上げて・
自分責めをやめて、自分に優しくしてみるところから始めてみるといいと思います。
自分に集中し、自分と仲直りすることです。

”お父さんがお母さんが、身の回りの人すべてが創価を脱会することが自分の幸せだ!”と
思っている人は、それが達成されない間は不満・欠乏感にさいなまれ続けるでしょう。
とっととあきらめて、もう自分が幸せになってください。
自分の状態はコントロールできても、他人の生き方をコントロールしようなんて思わないことです。
勿論、わだかまって欠乏感だらけの自分が好きで・それを楽しんでやってるなら止めませんよw

まだ紹介出来ていないのですが、「ニュー・アース」(p238)に
「いま安らぎを得るにはどうすればいいか?
 いまという瞬間と仲直りをすることだ」
という一文があります。
今年の4月に読んださい、一番衝撃を受けたのがこの言葉でした。
今の”自分”と仲直りすること、と解釈してもいいと思います。

人生も現実も、私たちがかつて組織で洗脳されていたような辛く厳しい「濁世」なんてものではなく、
本当は、優しいんです。
自分がどう見ているか、ってそれだけの話です。
これは日蓮も語っていたことで
「餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随って別別なり」
自分の意識状態がどこにあるかで、目の前の現実は変幻するということです。
けどなにも、お経を唱えたり特別な活動が必要なわけじゃないですよw(前回書いたとおり)
意識の使い方ひとつ、心のありかたひとつ、自分の思い込みを変えるだけの話です。
そのために必要なことは「自分自身にわだかまらないこと」です。
(たまたま、日蓮御書を思い出したので、いい部分を引用してみました。
 日蓮の言葉は真髄をついたものも多くあります。が、なにがなんでも自教が正しくて
 他は全部アウトって言っちゃったところや、過去世による自分責めが「前時代的」で
 今の時代にはそぐわないな、と。
 まだ総括できるまでに至ってませんが、いずれ私の考察も述べてみたいと思います)

えらく長文になってしまいましたが
一人でも悩める方が、少しでも気持ちを楽にするきっかけを
これからも伝えられたら幸いです。
来年もマイペースではありますが、更新していきますので
よろしくお願いします。

良いお年を迎えてください。ありがとうございました。

追記:今月申請完了し、脱会者となりました。近々、プロフィール書き換えますw

神社参詣と神棚のこと

前回、神社参詣を通じて「他力=大いなる存在」に気付くことができたと書きましたが
他にも以下の気付きがありました。

まず一つ目に
「私は、日蓮仏法を捨てた時点で、祈りや願いを封印していた」
でした。
これは全くの無意識でしていたことで、最近になって気付いて驚愕したんです。
祈りや願いを封印した結果、どうなったのか・・そして、神道を通じて「祈り・願い」の力を
再び教えられた経緯をお伝えしたいと思います。

二つ目が
「他力=大いなる存在は、祈り願う誰人をも無条件で助ける」
ということです。
下線入れました「無条件」ここがミソです。

三つ目が
「そして私は、生まれてこのかた実はずっと
 大いなる存在に助けられていたとわかった」
です。
創価脳時代、いくつもの願いをかなえました。当時は「ご本尊様」に祈ったおかげだ!と
思ってきました。が・それは実際のところ、「ご本尊様」を通じ「大いなる存在」へ
アクセスしていた、それで願いを叶えたり・なにかと護られたり、不思議な体験を
してきたのだ・・と、理解し・腑に落ちたのです。
つまり、祈りの対象は何であれ、その願いは「大いなる存在」へ届き、
自分が願って叶ったことは「他力=大いなる存在」の作用である
だからどんな宗派であっても(勿論日蓮仏法でも)願いは叶っているのだ・・
と、私は解釈しました。

上記3点を軸に書きたいと思います。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

まず、神社観について。
創価家庭に育った人の大半は「神社なんて行かなくてよい」と親に教わったと思います。
私ももれなくで、「神社には悪鬼魔神が住んでるよby日蓮」が思考の背景にありました。
残念なことに、幼稚園の遠足で神社に行った日の夜、高熱+嘔吐でシンドイ思いをし
幼心に「仏罰があたったんだ!」と、トラウマになってしまいました。たった1度のことなのにw

父方の親戚に大きな神社があり、遠方でめったに里帰りしない父を案じてか
祖父母が時折、そちらの神社の御祈祷札やお守りを送ってきました。
その小包を見ただけで、私は頭痛や吐き気を催していたのです。
母はそんな家系の父と結婚したことを「自分(=母)の宿業が深いせいだ」と申しておりました。
なんでもかんでも不幸の材料にしたがるw どんな宗教なんだよ!と、今となると思います。
物心ついたころから「神社は禁忌・鬼門」だと刷り込まれ、
大人になって以降もできるだけ近寄らないようにしていました。 
そんな私の「思考の背景」が変わったのが、覚醒前の2010-2011年頃。
日本史の本を読むようになって、それまで抱いていた神社へのイメージががらっと変わりました。
(この記事に書いています)
以降、日本人として参詣くらいはお作法として出来なければ、いい大人なのに恥ずかしい!と
思うようになり、義実家帰省時の初詣に参加するようになりました。
ただまだ、この頃は「日蓮仏法最高!」と思っていたので、神社へ行ってもなにもお願いはせず
「無」の境地で、お題目を心で唱えていましたw

2012年秋、創価が宗教をかさにきた巨大ビジネスだった!と気付いた時も
「日蓮仏法は絶対だ」という考えは揺らぎませんでした。
創価の活動を一切やめても、日蓮仏法だけは個人信仰していこうと思っていたほど。
けれど、自分の信仰観を見つめなおすことで核となる「選民思想」に行き当たり、
2013年5月に旧友(東日本大震災の被災者)と再会し、九死に一生を得た体験を聞かされて
その「選民思想」が砕け散ってしまいました(この記事   )。
ここで私は「日蓮仏法は信ずるに値しない」という結論を下します。

日蓮仏法を否定する=それまでの生き方の根幹をまるっと覆すわけで、辛い事でした。
同時に、自分責めが始まります。
主には「祈ってればなんとかなる」という考え方を強く戒めるようになり。
そんなお花畑思想は捨てよう!と思ったのです。
此処で私は、祈ったり願ったり望んだりということを、やめてしまった・忘れたのでしょう。
「やめよう」と、特別に決意したわけではありません。
単純に、それまでの”祈る対象”が、無くなってしまい・・かといって「はい次~!」なんて
他の対象に飛びつくことも、したくなかった。 
何かを信じることに対して・・「宗教」に対して、特別悪しきイメージを持ってしまった事も
ありましたし、こんなに簡単に創価に40年も騙されてきちゃって、
自分が非常に愚かな人間なのでは・・またやらかすのでは?という懸念もあったのです。
「祈ればなんとかなる」というような、甘い考えは今後、排除して生きていかねば!と。
↑思えばこれが、そのあとに約3年続く「逆流の中を漕ぐボート」のような状況を
生みだしていたと、今だから解ります。

もし今、なにも祈る対象がなくなってて・願ったりしてない・出来ないって人は、
月でも星でも太陽でもかまいません、大いなる存在へ祈り願うことをすぐ始めてください。
もちろん神社やお寺へ行くことでもかまわないのです、抵抗がなければ。
とにかく「上(天・宇宙)を向いて」願って行くことって大事です。
それが人生を大きく下げない事に繋がります。

大いなる存在は、ぶっちゃけ何もしなくても助けてくれますが(絶妙な・ぎりぎりのラインでw)
「願い・祈り」を、表明したほうが、もっと話は早いのです。
そしてその「願い・祈り」に「嘘」が一切ないこともポイントになります・・が、この話は別記事で
書かせてもらいます。 

2013年5月以降、祈るのをやめた私は、現実に強くフォーカスするようになります。
「祈り願う」ことで得られる安心感がまるでなくなった為、かわりに現実に不安を感じないよう
目に見えるものを増強するようになりました。
それはまるで「大いなる存在」を否定するようなもの。
完全に「今にある」状態にはなく「まだそこにない未来」に強く不安を抱くようになりました。
何が起こるか分からないから、あれもこれもと先取りして考え・方策を立てジタバタとし
「取り越し苦労」が増えました。
希望的観測をもつことより厳しい見通しをもつことが主になり・・今思えば、なのですが
本当に2013年~昨年までの私は、その前と比べ疲労感が増大していたのです。
子供たちの成長に伴い(幼稚園と小学校)用事が増えたことプラス、厳しく現実を
見ていたので、子供たちに対しても「今やっておかなきゃ、あとで困るんだよ!」と
重荷を課すような事もしていました・・それにつきあう自分も完璧でいなくては、と肩肘張って。
役割をしょい込み、自らどんどん状況をタイトなものにし、「がんばり過ぎ」ていました。
「祈ってればなんとかなる」を封印してしまったから、
「他力」を知らなかったから、自分でやるしかない・自分がやるしか!と
ガチガチに肩に力を入れ、余裕なく思い込んでいたのです。

するとどうなったか。
やりたくない役割を頼まれるも「NO」と言えず、いやいや続けることに
なってしまったり・・人間関係が悪化しました。
2013年からガラリと周りにいる人たちが変わったんですが、どういう訳か次から次へ
厄介な人(?)ばかり現れるのですw
また、こちらが正義をふりかざして事に当たると全く解決せずこじれていくばかり、という
ケースにも遭遇しました。
しかし、人間関係の悩みなんてどこにでもあるし~とか・命取られるわけじゃないし・
実際自身の生存に関わるような問題でもなかった為、「どうも変な流れだな?」と
薄々思いながらも、深刻に思い悩んだり煮詰まるほどには、当時至っていませんでした。
最後には義実家問題で強制終了となったわけですが、本当に、「なるべくして」
この苦難に遭わせてもらえたんだなぁ・・とw
「そっちじゃないよー」と、大いなる存在が常々教えてくれたんだなと、今は解ります。
それでも私が気付かないから、ショック療法的な義実家問題が出てきちゃったのかな?と。
スピリチュアル系の本を読むと概ね、そう書いてあるんです「ピンチはチャンス」的なことが。
エックハルト氏も「人生は意識の進化に最も役立つ経験を与える」と言ってました。
なので、もし今なんらか、人間関係・家族関係でうまくいかない流れや・苦難のさなかにある方は
”気付き・見直しのチャンス”だと捉えてください。
きっと無用な思い込みをたくさん握ってるよ!手放してね!という、サインです。

さて、ここからやっと神社のエピソードです(前置き長!)。

私が自ら神社へ出向き初のお祓いを受けたのは、2013年夏でした。(この記事
日蓮仏法を否定した後、精神的に落ち着かない状態が続き・自宅内で奇怪な現象も
続いたため、友人の助言を思い出してA神社へ向かいました。
その時は「お金で解決できるなら楽だ」くらいの考えで出向いたんです。
半信半疑でしたが、見事に御祈祷を受けたその夜から怪現象はなくなり、私自身も
精神的な落ち着きを取り戻しました。
この経験で「神社ってパワーあるんだなぁ(上から目線)」という感想をもちましたが、
これがきっかけでハマったという事もなく、その後暫く神社を訪れることはありませんでした。

次にA神社を再訪したのが、2015年の1月。
前年の暮れに、人間関係でちょっと心配な出来事があり、ふたたびお祓いをしたほうが
良いのではないか・・と感じて、年明けに伺ったのです。
そこで2月の「節分祭」を教えていただき、年の災厄をはらう神事に参加することに。
この記事の後半にも書いたのですが、その後、縁切り社であるB神社へも参詣したところ、
心配に思っていた事の張本人が、海外転勤でいなくなるという朗報があったのです。
ここで「神社って、やっぱすごいんじゃない?!」と、そのパワーを見直したというか。
この結果が何によるものなのかは当時わからなかったけど、
神社には災厄をはらうパワーが確実にある!と感じた出来事でした。

翌月、新居への引っ越しを控え、C神社にて方位除けの御祈祷を受けました。
そして新居の近くにある氏神様のD神社でも神宮大麻と御札を頂きました。
都合、御札が多数になったので神棚を祭ることにしたのです。
リビングにむき出しの御札を複数飾ることに抵抗があり、コンパクトに収納したいとの思いから
シンプルな一社祭りを選択。
何か特別な思い入れというよりは、インテリア(見た目)重視での神棚設置でした。
あまり仰々しくしたくなかったので、当時は御供・御榊もあげていませんでした。

新居近くのD神社はとても雰囲気が良く、初めて行った時から空気感が好きでした。
そちらへ月に一度参詣をするようになったのは、お参りをすると不思議と頭がすっきりすると
気付いたからです。
一か月無事暮らせたことへの感謝と・また来月もよろしくお願いしますという祈り。
そのD神社で、不思議な経験をしたのが昨年12月。義実家問題勃発した時でした。
主人が話し合いで帰省した日の朝、いてもたってもいられずお参りへ。
D神社で具体的なお願いをしたのは、このときが初でした。
早朝、誰もいない拝殿前で参拝を済ませると、突然上方からザーッと風が吹き下ろし
私の体の周りをくるくると暖かい風が巻き上げていくのです、葉っぱも舞っていました。
12月なので、暖かい風という時点でもうかなり不思議だったんですが。
えー?なにこれ?と思っていると、風がやんで頭の中に「全て思い通りになる」という言葉が
浮かびました。 こんな経験は初のこと。
一瞬のできごとで、その前後は全くの無風。不思議だな~と思いましたが、励ましてもらって
いるのかな?と嬉しくなり。
しかし、年が明けてから新事実が多数出てきてパニックで「どこが思い通りなの?!」と
不信に思ったんですがw 今はあの風が示唆だったとわかるのです。
”大きな風(ごたごたのアクシデント)が吹き去ったあと、思い通りになるよ”との意だったと。
実際、1月2月は波乱でしたが、おかげで大きな気付きを得ることができましたし、
出来事が過ぎた後の状況は、絶対変わるはずないと思っていたことが変わり、私の思い通りに
なりました。

2016年2月もA神社の節分祭へ参加しました。
御祈祷を終えて帰宅した直後、義母さんがらみで訴状が裁判所から届きました。
凄いタイミングで、この時も一瞬
「なんなの?!お祓いしてきたばっかりなのに!もう災いが来てんじゃん!」と
不信に思いましたw が、この日の夜に主人と話しているうちに急に馬鹿馬鹿しくなって・
私は全ての問題を「手放す」ことを決めたのです。
以前も記事にした通りですが、すべてがここから変わったと言っても過言ではないほど。
後になって「必要があって、起きたこと」だったとよくわかりました。
当時は様々悩み、このトンネルを抜け出ることはできるのか?と疑わしい心境でしたが
心理学やエックハルト・トール氏、現代の覚者の教えと次々に出会うことができ、
大きな気付きを得て、いまも気付きの連続です。

今だから言えることなんですが、この、神社参詣後に起きてくることのタイミングが
まさに「神の采配」で、絶妙だったのです、今までずっと。
(他にも小さなエピソードがいくつかあるのですが、長くなるので機会があれば別記事で)
2013年夏と2015年初頭なんて、まさに「困った時の神頼み」
普段まったく神社にいくでもない・神様を信じていたわけでもない私でも助けてもらえた。
必ず良い方向へと・思ってもみない解決策へとガイドしてくれていると気付いたのです。
「大いなる存在」が、動いてくれたとしか思えない。
これって、すごい事だよなぁ・・と、しみじみ驚いたのは今年の夏ごろでした(遅)。

創価脳時代の祈りや願いと比較したら、よくわかります。
「祈るだけじゃだめだ。信行学だ!」「自行化他に渡らなければ願いはかなわない」
組織じゃこんなケチくさい・厳しい事ばっかり、言われてましたよねw
本当は祈り願うだけでよかったのに、時間と労力と金銭奉仕(←ほぼこっちメインだったかも)を
励行されて。
だから時に凄く頑張ったりしてましたが・・頑張らなくても簡単に叶ってしまったこともあったし・
頑張ったってどうにも叶えられないこともありました。
叶った時は「ご本尊のおかげ」叶わなかったときは「これも意味のあること、あとでわかる」と
していました。
神社参詣するようになってから、スピリチュアル系の本を読むとこう書いてありました
「神の采配は完ぺきで、その人にふさわしいタイミングで物事が起きてくる。
 願いが叶う・叶わないも、神の采配である」と。
この2つの融解点を考えた時、私はひとつの答えを得ました。
「どの時にあっても、生まれてこのかたずっと自分を護ってくれて・時に願いを叶えてくれたのは、
 大いなる存在だったんだ!」
と。

OOの信仰をしていたから「願いがかなった」わけじゃないんです。
OOの活動をしていたから「願いがかなった」わけでもなかったんです。
崇敬対象がなんであれ、願い祈った時、あなたの思いは「大いなる存在」を動かす。
創価時代の「願望成就」は”たまたま”だったと、私は日蓮仏法を否定した時そう思ったのですが、
”たまたま”じゃなくて「大いなる存在」が叶えてくれていた。護ってくれた。
それだけのシンプルな話だと、理解したのです。
「他力=大いなる存在は、祈り願う誰人をも無条件で助ける」
だからやはり、枝葉的なこと(選挙活動・勧誘・新聞推進・その他)は無用だと
いうことです(いまさらですが)。
創価脳の皆さんが「願いが叶った」と思っているのも、実のところ「大いなる存在」に
願いが届いてるということですし・「頑張ってるのに叶わない」というのは願いが頓珍漢だから・
矛盾があるから、そもそも叶える必要ない、ということで。 
活動や祈りの数量は直接関係なかったということです。
↑このあたりに関しては、他にも考察あるので別記事で来年書いてみます。

そして言うまでもなく、「大いなる存在」は誰人にも平等です。
空気のように、誰人にもいつも寄り添っています。

あの信仰対象でなければだめ・この宗派が絶対・・そんなことは人間が勝手に言ってるだけの話。
そういった凝り固まった「選民思想」は、わだかまりを確実に生みます。
エックハルトが指摘しているように選民思想なんてエゴの最たる形ですからね。
自分がまっすぐに、素直に、願い祈れば、それだけで十分なのだと思います。

祈りや願いは、心に安心感と余裕をもたらします。
「大いなる存在」がいつも自分のそばについている。大丈夫だ!っていう気持ちでいれば
ガチガチにならずに済みます。
そういった意味でも、宗教アレルギーはちょっと忘れて「天」に向かって願うことを
してみてもいいと思います。
「大丈夫、自分はいつも見守られている」って、思うだけでも心持ちはずいぶん変わってくるでしょう。
要は「依存」しなければいいのであって、「ギブ&テイク」の考えも捨てることです。
無条件で助けてくださっているのだから、「これだけやったのに!」なんて思わない。
そもそも、「天」にむかって願うだけなら「これだけやったのに!」なんて感情は湧かないですよねw
そこに労力やお金が絡むからおかしくなるのです・・たぶん。

2016年2月から、神棚を三社祭にし、御榊と毎朝御供をし、朝夕の参拝を
しています。
神道の基本は、始祖崇敬であり、自然の恵みへの感謝です。
何千年と連綿と続く「命」「循環」への感謝。
神話には陰陽があり、生命体のすべて、宇宙のすべて、といってもいいくらいで
(古事記や日本書紀を読んでみてください)
神道でまつられる八百万神は「大いなる存在」ともいえると私は思っています。
朝夕、自宅の神棚にて
「生かしていただいて、ありがとうございます」
「いつも助けていただいて、ありがとうございます」という感謝を伝える。
シンプルで拘束感なく出来ますし、何より清々しいルーティンとなっています。
お供~参拝で3分くらいなので、気軽なところも続けやすく良い点だと感じます。

長文になりましたが、自分の現実はすべて自分の「思い込み」で出来ていると知ったら
心がけが変わります。 
本当に恐ろしい程、自分の思い通り・願いがかなっての「今」なんです。
だから思考には、よくよく気をつけたほうが良いのです。
絶望諦めよりは、何かを信じ希望を持って生きるほうがプラスであることは、言わずもがなです。

私の現状は、人間関係も家族関係も平穏な問題無いものになり、
日々機嫌よく過ごしています。
振り返れば、昨年のちょうど今頃に義実家の問題が発覚しました。
あのとき、こんな一年後を全く想像できませんでした。
今、好きな場所で音楽を聴きながら・マイペースでブログを書くことができている、
感謝しかありません。
あの一連の出来事がなければ、今をこんなに幸せに感じることもなかっただろうし、
そこでバシャールのいう「コントラスト」という言葉が、とてもしっくりくるのです。

過去も今も、あなたを苦しめるために在るのではありません。
自分の思考がそうさせているだけ、と気付くだけで世界は変わります。
気付けば・変われば、コントラストの意味も即座にわかります。
すべては自分次第です。

神社の話は一切でてきませんが、おすすめの本です。
意識の使い方・在り方がわかりやすく書いてあります。
タイトルが若干胡散臭いですがw同シリーズの「ワクワクの使い方」も
いい本です。
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